表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/2

後編

間が空きましたが、これにて完結です。

 「――板賀? おい、板賀! 起きろよ!!」

 蓮田の喧しい声で起こされてしまった。僕は机に突っ伏し、睡眠不足を解消していたのだが、昨夜の事情を知る由もない彼に叩き起こされてしまった。

 「……何だい? 僕は眠いんだけども」

 不愉快そうな僕を尻目に、蓮田はやけに嬉しそう……いや、これは違う。人をからかう時の意地が悪い笑みだ。彼はニヤニヤしながら僕の肘で小突いてくる。

 「お前、先輩をどうやって落としたんだよー? ほら、先輩が呼んでるぞー?」

 彼は何を言っているのだろうと僕が呆れていると、蓮田は教室の入り口のほうを指差す。そこには―――

 「……亜乃子、先輩?」

 何故か彼女が腕を組んで立っていた。僕と目が合うと、さっさと教室を出て行ってしまった。

 「あ、ほら! お前がすぐに起きないから愛想尽かされちまったぞっ! はやく行って謝って来い!!」

 言われるまでもない。僕は急いで立ち上がり彼女の後を追った。

 教室から出た僕は廊下の随分先を歩く先輩の後姿を捉えた。早く追いつこうと走り始めた。しかし先輩の足が速いのかすぐに差を詰めることが出来ず、そのまま彼女は教室へと入って行ってしまった。

 僕も後を追って教室に入る。そこは使われていない化学実験室であり、入った瞬間、何処かすっぱい、厭な臭いがした。

 先輩は窓際に立ち、校庭を眺めている。取りあえず、僕が先に声を掛けようとした時、

 「お前、何をした? 何を見た? そして――何を知っている?」

 矢継ぎ早に質問されて、僕が答えに窮していると、

 「……答えないということは、私の邪魔をするということだな?」

 悪意を隠そうともしない声を投げかけられ、やっと僕は口を開くことが出来た。

 「違います! 確かにあの模様は見ましたが、それ以外は何もしていません。あの模様を見て、気分が悪くなっただけで、僕は何も……」

 そこまで言ったとき、先輩が懐から羊皮紙のような、やけに黄ばんだ紙を取り出して僕に中身を見せ付けた。

 「じゃあ、これはどう見えるんだ?」

 その紙に描かれていたのは屋上に描かれていたのと同じ、幾重もの輪が織り成す紋様。それは昨日と同じように、僕の意思になど無関係に、無遠慮にイメージを流し込んできた。

 今回、僕の目に映し出されたのは、酷く寂れた港町だった。文字たちは臭いまでも如実に”表現”し、僕の嗅覚を刺激し、港町独特の魚の生臭さを感じさせる。石畳の通りの両サイドにはレンガで造られた粗末な建物が立ち並んでおり、全く人気を感じさせない。

 ゆっくりと見渡してみると、頭一つ大きい――教会――建物が見えた。僕が意識の赴くまま、そちらへ向かおうとする。しかし、閉め切った家が並ぶなか、一軒だけ開いた家があることに気付き、そちらへ近寄ってみた。

 どうやらそこは雑貨屋らしく、服と一緒に魚の干物が吊るされており、棚には缶詰や野菜が並んでいる。店主はこちらに背を向けており、顔が見えない。

 僕がどうにか顔を見てやろうとカウンターから身を乗り出すと、そこには―――魚が居た。

 いや、違う。魚じゃない。この店主の顔が魚になっているのだ。その時気付いた、彼の肌が全て鱗に覆われてぬらぬらと粘液を纏った気味の悪いものであったことに。

 半魚人と呼んで差し付けない彼は、奇妙なひょこひょこと跳ねる歩法で店の奥へと消えていく。僕は、驚きの余り、呆然とその光景を眺めていることしか出来なかった。

 「――どうした、何か気味の悪いもの……そう、魚の顔でも見たのか?」

 先輩の声で僕はどうにか現実へと戻される。あれは一体、何なのだろうか。本当に存在する町なのだろうか。

 僕の疑問に答えるように、亜乃子先輩は話し始める。

 「アレは本当は存在し得なかった町だ。恐らく、お前が昨日見たであろうあの風景も、恐らく存在していなかったはずのモノだ。だが実際に、それは現実にあることと成りつつある。……何を言っているか分からない、と言った顔だな? よし、ならばいい。その反応でお前が何も企んで――いや、何も考えていないことが分かった。もう行っていいぞ、おかしな噂が立つのは厭だろう? ……さぁ、火遊びはここまでにしてさっさと戻るんだ」

 一気に捲くし立て、先輩はすぐに教室を出て行こうとする。僕はそんな彼女の背中に追い縋るように声を掛けた。

 「あ、あの! 僕も突然月が怖くなって……!」

 僕と先輩の、他の人には無い唯一の共通点。それを頼りに話しかけたが、

 「――なぁに、安心しろ。その悩みも明後日には解決する」

 ニヤリと笑われ、そのまま出て行かれてしまった。僕だけが化学実験室に取り残され、一人で先輩の最後に言った言葉を反芻していた。

 「……明後日に何があるんだ?」

 明後日は日曜だ。一体何があると言うのだろうか。僕は一人で休み時間の限り考えてみたが結論は出なかった。



 それから日曜まで、僕は結局一睡も夜の間は出来なかった。昼間に寝ようとしても、思い出すことができない酷い悪夢を見てしまうため、すぐに起きてしまう。僕は見えないナイフでジワリジワリ、少しずつ体が削ぎ落とされるような感覚を味わっていた。

 眠れないということがここまで辛いことだとは思わなかった。夜が怖い、暗闇が怖い、ひいては瞼が眼球を遮って闇を作り出すことにすら怒りを覚え、一度本気で瞼を切り落とそうか迷うところまで心が追い詰められていた。

 このままでは頭がおかしくなる。日曜の夕方、僕は膝を抱えて自分の部屋の角で震えていた。もちろん、部屋の電気は点いたままだ。

 「日曜日、日曜日、日曜日は先輩が……」

 それだけを支えにどうにかここまで耐えたが、僕はもう我慢できなくなっていた。早く、死んでしまいたい。死んで土に埋められてしまえばもう、月明かりに脅かされることはない、と。

 部屋の中央の蛍光灯を、虔遠な信徒が神に祈るように見上げる。この人工的な明かりしか僕の体は受け入れないようになっていた。しかし無慈悲にも、その明かりは突然、消えた。

 「あ、あ……!」

 阿呆のように声を洩らし、すぐさま部屋から飛び出て廊下に出る。ここも電気が消えて真っ暗だ。他に電気が点いている部屋が無いかと家中廻ったが何処も電気が消えていた。

 僕は暗闇から逃げるように家から飛び出た。しかし、住宅街のどの家からも灯りは消え去り、全てが闇に吞まれていた。

 驚いて家から出てきたのは僕だけじゃ無かったらしく、他の家からも続々と人が出てきて、口々に停電か? と呟いている。

 「おとーさん! アレ見て!! ほら、オーロラだよっ」

 一人の子供が空を指差し、素っ頓狂なことを言っている。その子の父親も苦笑いしながら空を見て―――凍りついた。

 僕も釣られて空を見た。確かにそこには――七色のオーロラが。

 「なんだ……これはっ!?」

 オーロラは闇に乗じて現れた月を滲ませるように、空全てを覆っている。季節は秋、もちろん今まで僕の町でオーロラが見えたことなど無い。一体何が……。

 「まさか、先輩……?」

 答えが出るより早く、僕は走り始めていた。向かう先は学校、目的は亜乃子先輩。

 きっと、この現象は先輩が引き起こしたものだろう。我ながら荒唐無稽な考えだが、今はそうとしか考えられない。

 ただただ驚く人。暢気に写真を撮っている人。笑いながら騒いでいる人。世界の破滅だと嘆いている人。様々な反応を見せる人々を掻き分け、僕はどうにか学校に辿りついた。

 思ったとおり、無人であるはずの校門に一人ポツンと佇む人が居た。その人物は制服を着込み、ライン引きで描かれた紋様の中心で両手を広げている。

 ―――先輩だ。先輩以外ありえない。

 「せんぱぁ……ッ!?」

 近くまで寄っていた僕は言葉を失った。亜乃子先輩は無数に舞う光の中で、恍惚の笑みを浮かべ、校舎の屋上……いや、その上だ。校舎より僅か上方の空を見据えている。空にはもちろん、オーロラが現れているが、その煌びやかな光にも掻き消されず己の存在を証明し続ける輝星が一つ。その星を見据えた先輩はゆっくりと口を開き、何とも不思議な――そう、清くも邪悪、純粋な狂気に中てられたように言葉を紡ぎ始めた。


 ふんぐるい むぐるうなふ くとぅぐぁ 


 薄紅色の唇から漏れ出る言葉は、またも僕の知らない言語だ


 ふぉまるはうと んがぁ ぐぁ


 周囲に浮いていたピンポン玉サイズの光は、ドンドンと速度を上げて飛び回り、亜乃子先輩の周囲を昼間よりも明るく照らす。


 なふるたぐん いあ! くとぅぐぁ!


 一際強く、区切るように吐き出されたソレは、何かに訴えかけるような調子だった。

 どうやらソレでお終いだったらしく、先輩は体から力を抜いて俯く。その顔は光の渦の中心に居ても照らし出されない。

 何がしたかったのだろうか、僕には見当も付かない。しかし、現実的に今こうしてオーロラが現れ、光の珠が踊っている。恐らく、亜乃子先輩は”とんでもない事”をしでかそうとしていたのだ。

 「先輩、大丈夫ですか……?」

 俯いてしまって動こうとしない彼女が心配になり、声を掛ける。そうすると、まるで僕の言葉が引き鉄となったかのように、飛び交っていた光球はピタリと宙で動きを止めた。

 驚いた僕を余所に、光は中心に居る先輩の元へゆっくりと向かっていく。その間、僕は何をするでもなく――今から思えばどうして阿呆のように突っ立っていたのか甚だ疑問なのだが――眺めていた。

 光の珠は互いに重なり合い、見る見るうちに大きくなっていく。ついには先輩の背後に集い、まるで小さな太陽のように煌々と光り輝き、校庭全てを眩い光で照らし始めた。

 その光量は止まる事を知らず、徐々に輝きを増していく。僕は目を開けていることも辛くなってしまい、瞼を閉じ、腕で顔を覆った。

 どのくらいそうしていただろうか。少し腕を退かしても網膜が灼かれるような光を瞼に感じなかったので、恐る恐るだが目を開けてみる。そこには―――


 ――光の水滴に凭れている先輩が、ふわりと地から足を離して微笑んでいた。


 先輩はまるで何かを確かめるように、光を水のように掬っては掌から零す。零れ出した光は、そのまま地面に落ち、はじけ、光の粒子となって空間に消えていく。

 数度、そんなことを繰り返した先輩は満足そうに頷いて――僕のほうを見た。

 「あぁ、お前か。こんな時にまでご苦労なことだ。……隈が出来ているな。おおかた、月に魅られて眠れなかったのだろう? なぁに、もう大丈夫だ。今から月は―――無くなる」

 「えっ、あの、ソレ……何ですか? それに月が無くなるって……!?」

 僕の質問に顎に人差し指を添えて考える先輩。宙に浮き、光に身を預けるその姿は、もはや人間には見えなかった。

 「コレは――知らん。そもそもこうなるとも予想していなかったしな。しかし良かった、話が分かる相手で。話もついたし、これから一仕事だ。それと、この事は誰にも話すなよ? もし私が消えたことでお前に面倒が降り掛かったら知らぬ存ぜぬを貫け。いいな?」

 そう言うと先輩は空に浮く月を睨み、身を屈めた。そうすると光も弾力性があるかのように校庭に拡がっていき、撓み、今にもはち切れそうなほどに引き絞られる。光の濃度が上がったことによるものなのか、眩しさが強まる。そして僕が何か言うよりも早く―――飛び上がった。

 「あっ!!」

 光の粒子を撒き散らし、先輩は光とともに闇を切り裂いて空へと昇っていく。まるで校舎の屋上に浮かぶあの星のように。その輝きはオーロラの美しさを以っても霞むことがない。

 黄金の月に向かって飛んでいく一筋の光は、ちょうど流れ星が宇宙に戻っていくさまに似ていた。雲を突き抜け、光の筋を天に刻み、そしてついに先輩の姿は見えなくなってしまった。

 暗くなった校庭で僕は空を眺める。正しくは月を、だ。亜乃子先輩はあの月に向かって今も飛んでいるのだろうか。

 時間にして五分、ついにその時は訪れた。すっかりオーロラが晴れた空に浮かぶ月の近く、何よりも輝く小さな”点”が現れた。

 その”点”は最初こそ月に比べられないほど小さく、掻き消えてしまいそうな代物であったが、膨張するようにどんどん膨らんでいき――ついには月と同じ大きさに成長してしまった。

 町の人々が次から次へと起きる不可思議な現象にどよめく。しかし、僕には分かっていた。アレは、亜乃子先輩だ。先輩が宙に浮かび、月を睨みつけているのだ。

 何が起きるんだ、そう思うのもつかの間。月に並ぶその巨大な光体はぐねぐねと蠕動して姿を変え、やがては驚くべきことに、上半身だけの光り輝く巨人となった。

 「パパー? アレって何ー? 鬼さんかなー?」

 「い、いや、鬼なんて御伽噺の中にしか……」

 童女は父に訊ね、その父は言いよどむ。それもそうだ。こんなことが現実で在り得る訳が無い!

 「えー! 鬼さんだよアレ、赤鬼さん!! ほら見てっ! あんな赤くなってるもん!!」

 童女の言う通りだ。宙に浮かぶ巨人は燃え盛る鉄のように真っ赤に輝き始めた。それは僕には力を溜めているようにも見え……。

 「あっ! 赤鬼さんがこっち見て笑ってるー!!」

 無邪気に手を振る童女と、怯え始めた父親。そしてただただ空を眺める僕。たしかに彼女の言う通り、巨人の顔にヒビが入り、何処か笑っているようにも見える。しかしそのひょうきんな顔とは裏腹、真っ赤に滾る身体を捩じり、振りかぶり、身を翻す巨人のその動きは、どう見ても今からトンでもない事をしでかそうとしている風にしか見えない。

 「もしかして……」

 まさか、と僕は思った。まさかそんな事をするわけが無い、と。しかし僕には何となく見えた。亜乃子先輩が大口を開けて傲岸不遜に笑っている姿が。

 そして想像通り、赤く燃える巨人は溜めに溜め、引き絞った右腕で―――――月を殴りつけた。

 ガオン、と大気を震わせて破砕音が風とともに僕らを突き抜けて行った。窓ガラス、いや、建物自体がビリビリと震える。遠くから悲鳴のようなものまで聞こえてくる。町は徐々に……いや、加速度的に騒がしくなってきた。それはそうだ。なんせ、巨人が月を殴っているのだから。

 巨人の燃え滾る右拳に殴られた月は、まるでビスケットが砕けるように破片を撒き散らして崩れていく。そして、そのひび割れた月に巨人が左拳を叩き込む。絶え間ない二度の打撃。それで月はあっさりと砕け、崩れさった。

 月が崩れる最中、その内部から黒い影――それはまるでコールタールのような――が融け出し、逃げ出そうとしていた。その黒さ、禍々しさは闇夜の中でもはっきりと写し出されていた。

 僕はその影を見た瞬間、無意識に背筋が震えたことに気付いた。アレが、あの影こそが僕を悩ませていた元凶だったのだ。僕だけじゃない、亜乃子先輩や、もしかしたら他にも犠牲者はいたかもしれない。

 その影は月に潜み、地球を監視していたのだろう。しかし、その影を守っていた月が先輩によって壊されたことにより、姿を現さざるを得なくなってしまった。そして逃げようとしたが――

 「……マジかよ」

 自然と零れた言葉が、現状を如実に表現していると言えた。


 巨人が影を掴まえ、両手で千切り、口の中へ放り込んでいた。


 咀嚼された影は透き通った巨人の体内で燃やし尽くされ、光へ滲んで消えていく。影は最後まで暴れ、逃れようとしていたが、その一片まで食われてしまい、ついには姿を消してしまった。

 それで仕事が終わったと言わんばかりに、燃え滾る巨人は元の巨大な光球へと姿を戻した。その姿は、もはや月の無くなった夜空で一際明るく輝き、自己を主張していた。

 「月が……」

 そこらかしこから似たような呟きが聴こえてくる。僕自身、今の今まで目の前で繰り広げられていたことが信じられないでいる。もしかしたら夢かもしれない、と。

 しかし現実問題、月は崩れ、夜空には星の姿しか無い。僕だけならまだしも、町の人々がそれぞれ思い思いのポーズでその驚きを表わしている。しかし、僕の胸にはもう一つの疑問が生じていた。それは、


 “先輩は帰ってくるのだろうか?”

 

 という疑問だった。果たして帰ってくるのか、あの光球を率いて地球へと帰ってくるのか。しかし、先輩はさっき言っていた。『もし私が消えたことでお前に面倒が降り掛かったら知らぬ存ぜぬを貫け。いいな?』と。つまりはもう、亜乃子先輩は帰ってくるつもりは――

 そこまでだった。僕の思考は、空に浮かぶ光によって遮られた。光球はその存在を誇示するように一段と強く輝き、空を跳ねると、勢いよく加速して流星となって姿を消してしまった。

 それが、僕が亜乃子先輩を見た最後の光景だった。



 それから当分の間はテレビ、新聞、ネットではこの話題が持ちきりだった。あの光景は世界中で見られたらしく、様々な国で物議をかもした。”宇宙人の陰謀論”や”隕石衝突説”、はては”魔法による現象”に”某大国の兵器”など色々な説が現れ、沈んでいった。

 月が消えたことによる影響はそれほどではなく、むしろ今まで意識不明、行方不明の人物が帰還を果たすなど、喜ばしいニュースが続出した。彼らは一様に口を揃えて、

 『月に捕らえられていた』

 と答えた。これがどんな意味を持つものなのか。それを知るよりも早く、彼らはその記憶を喪ってしまった。

 僕自身も、夜眠ることが出来るようになり、何かに怯える必要も無くなった。

 当然、と言うべきか。亜乃子先輩が消えてしまったことで学校は上へ下への大騒ぎとなった。僕も先輩に接触していた人間として教師や警察に話を聞かれたが、先輩の言いつけ通り知らぬ存ぜぬを貫いた。次第にその話も小さくなっていき、一年もするうちに自然と消えてしまった。

 最上級生となった僕は、一年前のあの日と同じように屋上で空を眺めていた。

 たなびく雲は山へ途切れ途切れに伸びており、夕日を受けて赤く染まっている。空は夕日に夜の闇が混ざり、水彩画のように滲み、朱色の雲を際立たせている。太陽は沈み、その輝かしさだけを置き去りに、後を夜へ任せている。

 その空に浮かぶのは無数の星だけ。月はもう既に無く、穏やかな闇だけがそこには広がっていた。

 そして僕はその闇を眺めるたびに思い出すのだ。この闇の何処かへ消えていったアノ子のことを。



 「……どうです? 満足戴けましたか?」

 絶句している私に、彼は目を弦のように細めて笑いかけてきた。

 「――信じていただけませんか。そうでしょうね、私も初めて聞いたときは信じられませんでした」

 頭を振っていた私は再び目を剝いて彼を見た。まるで自分の体験談のように彼は話していたではないか。

 「あぁ、そうでしたね。これは失敬。でもこの話は本当ですよ。まぁ、一部……はい、”板賀”なんていう青年はいなかったのですが、ね」

 彼は心底嬉しそうに笑う。その様子は何処か狂気じみたところがあり、私をひどく不安にさせた。

 「そうそう、この話には続きがありまして。実は月に巣食っていた闇は、あるモノの一部の、そのまた一部。ソレにとっては無くなっても痛痒も感じないほどに些細な存在だったのです」

 「取るに足らない存在、単なる僅かながらの悦びを運んでくる存在。あってもなくても変わらない存在。ですが、それが単なる浅学な小娘に食われ、滅ぼされてしまったというなら話は別です。溜飲が下らないじゃないですか」

 人が変わってしまったように。彼は話を続ける。気付くと、彼が着ていた品の良い黒いスーツは、彼の肉に溶け込み、身体の一部と化していた。

 「なんたる無礼、なんたる屈辱。しかしそれも面白い、気に食わないが面白い。そう思いませんか?」

 成程な、と一人ごち。私は懐から拳銃を取り出し、瞬くうちに三度発砲。仰け反った彼を尻目に、ソファーから立ち上がって立て掛けてあった自動小銃を手に取り、さらに追撃。銃声を聞いて、隣の部屋に控えていた者たちが、思い思いの武器を持って部屋へやって来た。

 「”当たり”でしたか!?」

 どうだろうな、と首を傾げる。絨毯に汚れた廃液にも似た、黒い染みを垂れ流す男は、倒れ伏したまま動かない。しかし、私には分かる。彼……いや、あの存在がこの程度でくたばる訳がない。

 手を挙げ、合図を送る。そうすると何人かが死体に対して数度銃弾をぶち込んだ。それでも、彼の肉体は何の反応を返さない。業を煮やした血気盛んなメンバーの一人が、死体に近づいていく。

 「あ、おい!!」

 他の者の制止も無視し、自動小銃を構えたまま、男の顔を覗き込む。すると――

 「――年長者の言う事を聞かないと、酷い目に遭うよ? いや、まぁもう遅いんだけどね」

 死んだと思われた男がパチリと瞳を開いた。その若者は必死に抵抗しようとしたが、時既に遅し。足元より生じた影のアギトに下半身を噛み千切られ、絶命した。

 恐怖を打ち消すように、銃撃の嵐が部屋を覆う。一斉に仲間が発砲し始めたのだ。

 「何だろうね、申し訳ないなぁ。弾がもったいなくてね、あと、その振り絞った勇気も」

 雨霰と降り注ぐ銃弾を、彼は笑いながら浴び続けていた。銃弾は彼の身体を穿つ。しかし、ぽっかりと空いた穴はすぐさま塞がれてしまう。まるでそれは……そう、闇で出来た霧だった。

 シャワーか何かぐらいにしか感じていないのか、彼は悠然とこちらへ大股で近づいてくる。その様子に何人かのメンバーが逃げ出そうとしたが――

 「はい、弱虫から頂きます」

 地面より突如現れた大鎌に、一瞬にして切り刻まれてしまった。湿った音を立てて崩れ落ちた肉片は、そのまま水溜りのような影の中へ沈んでいってしまった。

 「諦めないで。もしかしたら、或いは、運が良かったら……勝てるかも」

 嘲りにも、本気にも聞こえるそれは間違いなく彼の本心だろう。もう、私たちの中にも諦めている者がいる。神に祈る者すら、だ。私個人としては、祈る暇があったら打開策を考え、実行して欲しいところではあるが……無理は言えない。

 どんな銃撃も意味を為さない。何人かが破れかぶれでナイフを片手に突貫したが、何の効果もなく、ただただ影の中に沈んでいった。

 もうお終いか、そう思ったときだった。窓の向こうに見える梢の枝、その先にある星が一段と強く輝いた。その輝きは三度続くと、部屋の中を”直接”、その光で照らした。

 輝きは太陽がこの場所に現れたのではないかと思うほど強く、全てを白く塗りつぶした。私たちは目を開けていることが出来なくなり、腕で光を遮ってどうにか現状を把握しようとする。

 「はぁ、また貴方ですか。飽きないというか、暇人ここに極まれりというか……。私のような末端ぐらい見逃してくれても構わないと思うのですが、ねぇ」

 嘆息する男。その言葉に対し、

 「――貴様らの好きにはさせない。私とコイツが共に在る限り、この世界を自由に出来るなどと自惚れないことだな」

 凛とした態度で答える少女。濡れた鴉の羽のように美しい黒髪、切れ長の目尻、柳の葉のような眉毛、そして病的なまでに白い肌。彼女は制服を着込み、巨大な魚に腰掛けて居た。

 魚は不思議と宙に浮いており、目から口から鰓から火を噴き出し、白く輝いていた。その炎は部屋の全てを満たしているが、身体を舐める火に温度は無い。

 火の魚に腰掛ける少女は髪を後ろへ流すと微笑み、魚の背びれを撫でた。

 「では、さらばだ。――――――消し炭になれ」

 その言葉が合図となり、炎の魚が身を震わせ、低く唸り声を上げ始めた。白い炎はさらに燃え上がり、勢いを増す。だがしかし、その火は急速に縮み、火を喪って半透明に変化した魚の目と思われる部位に収まった。

 まさか何か不具合が、と私が勘ぐった瞬間、その真珠めいた瞳は爆発し、何もかも消し飛ばす白い闇が叩きつけられた。その白い闇は私の部屋、屋敷、外の森、果ては周囲の山々まで犯し尽くした。

 その白い闇が広がったのはおおよそコンマ一秒にも満たない時間であろう。しかし、その効果は絶大であり、どんな攻撃も受け付けなかった男が、もはや”人”とは言えない姿――言うなればそれはシミ――となり、ブスブスと絨毯に焦げ付き、煙を上げていた。

 その様子に満足したのか、少女は私たちを一瞥し、「貴方たちは貴方たちの責務を全うしろ」とだけ呟き、現れたときと同じように輝き、消えた。

 生き残った私たちは窓から空を眺める。そこには漆黒の闇に煌々と光る、白い一等星がだけが私たちを照らしていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ