冬のワルンに来た男
2024年、倉沢の冬は、相変わらず容赦がなかった。
1月も下旬に入り、正月のあいだに積もった雪は、道路脇で灰色の塊になっていた。日中に少し解けては、夕方になると再び凍る。商店街の店主たちは、朝になるとスコップや鉄製の雪かきを手に店先へ出て、固くなった雪を砕くことから1日を始めていた。
それでも、町にはかつての活気が戻りつつあった。
新型コロナウイルスの流行によって人通りが途絶えた時期を越え、観光客の姿も少しずつ増えている。マスクをつけたまま歩く者は以前より少なくなったが、混んだ店に入る前だけ、ポケットから取り出して身につける者もいた。
商店街の軒先には、正月飾りに代わって節分の鬼や恵方巻のポスターが貼られている。倉沢駅の待合室には、元日に発生した地震の被災地へ向けた募金箱が置かれ、透明な箱の底には1,000円札や小銭が重なっていた。
駅前では、キャリーケースを引いた観光客が、凍った歩道に足を取られそうになりながら、光明神社行きのバス停を探している。
その倉沢駅の正面に、エスニック料理店の駅前店があった。
本店が開店したのは11年前。駅前店は、その2年後にオープンした。開業当初は、東北の小さな町でインドネシア料理など続くはずがないと言われたものだが、今ではナシゴレンやミーゴレンは倉沢の名物の一つになっている。
昼時を過ぎても、店内は混雑していた。
観光客らしい家族連れや、作業着姿の地元客、スマートフォンをテーブルに置いて話し込む若者たち。厨房からは油と香辛料の香りが漂い、食器の触れ合う音に、店員たちの声が重なっていた。
その店に、2人組の男が入ってきた。
1人は、がっしりとした体格の上村。もう1人は、派手な柄のダウンジャケットを着た、少し小柄な男だった。
小柄な男は店内に入るなり、一瞬だけ客席を見回した。
誰かが自分に気づかないか、確かめるような目だった。
しかし、声を上げる客はいなかった。
2人は窓際の2人掛けの席に案内された。ダウンジャケットを脱いだ男は、椅子の背に掛けると、メニューを手に取った。
*
「そういえば三浦」
上村が、水の入ったコップを持ちながら尋ねた。
「お前、去年のM-1はどこまでいったんだ」
三浦はメニューから顔を上げた。
「もうM-1には出てないよ」
「なんでだよ」
「あれは、売れてないやつが出る大会だから」
上村は黙って三浦を見た。
「何だよ」
「いや、お前、今は売れてないだろ」
「言い方があるだろ」
「それに、お前よりテレビに出てる芸人も、毎年何組も出てるじゃねえか」
三浦は水を一口飲んだ。
「……まあ、本当は出てもいいんだけどな。相方が嫌がってんだよ」
「へえ」
「信じてないだろ」
「信じてる、信じてる。相方が嫌がってるんだな」
「その言い方がもう信じてないんだよ」
そこへ、黒いエプロンをつけた男が注文を取りに来た。
上村は、その顔を見るなり笑った。
「よう。グリフじゃねえか」
「なんだ、上村。また来たのか」
グリフと呼ばれた男は、注文用の端末を手にしたまま、呆れたように言った。
「暇なのか」
「なんだよ、お前。まだ店に出てんのか」
「たまには出るよ。一応、店主だからな」
「町議様が、注文取りかよ。お前こそ暇なんじゃねえの」
「町議は24時間働いてるわけじゃない。むしろ、こういうところで町民の声を聞いてるんだ」
「今のところ、俺の声しか聞いてねえだろ」
「だから帰れって言ってる」
2人のやり取りを、三浦は交互に見ていた。
グリフは40代半ばだった。日本人の顔立ちの中に、どこか東南アジアを思わせる濃さがある。髪にはわずかに白いものが混じっていたが、姿勢はよく、エプロン姿でも妙な貫禄があった。
上村が三浦を指さした。
「グリフ、こいつ知らないのか」
「こちらの方?」
「超有名人だぞ」
グリフは三浦の顔を見た。
少し考えたが、思い当たらない。
「失礼しました。私、あまりテレビを見ないもので」
三浦は一瞬だけ傷ついた顔をしたが、すぐに愛想のよい笑顔を浮かべた。
「いやいや。昔、ちょっとテレビに出ていたことがあるだけです。三浦といいます」
名乗ると同時に、軽く頭を下げる。
「議員さんなんですか」
「はい。一応、倉沢町の町議をしています」
グリフも丁寧に頭を下げた。
「田辺と申します。よろしくお願いします」
「なになになに」
上村が2人の間に割って入った。
「お前ら、かしこまりすぎだろ。三浦、お前、敬語使えたんだな」
「普通に使えるよ。俺を何だと思ってんだ」
三浦は上村を睨んだあと、改めてグリフに向き直った。
「グリフさんとおっしゃるんですか」
「あ、日本名は田辺直人です。父がインドネシア人でして、向こうの名前がグリフなんです」
上村が口を挟む。
「仲間内では、みんなグリフって呼んでる。なんか言いやすいだろ」
「田辺よりグリフのほうが覚えやすいですね」
三浦はそう言ってから、少し首をかしげた。
「ところで、上村は田辺さんと、どこで知り合ったの?」
上村は「ああ」と声を出し、頭をかいた。
「それはなあ。ちょっと言いづらいんだけど」
「何だよ」
「昔、やんちゃしてた頃の仲間」
「やんちゃ?」
「俺らの世代のヘッド」
三浦の顔から、営業用の笑顔が消えた。
改めてグリフを見る。
町議で、飲食店の経営者。話し方も落ち着いている。どう見ても、上村が高校時代に付き合っていた不良仲間には見えなかった。
「ヘッドって……何の?」
「何のって、だから、倉沢の俺らの世代の」
上村は指で自分の頭を示した。
「一番上」
「いやいやいや」
三浦が椅子をわずかに引いた。
「議員さんだろ」
「今はな」
上村が笑う。
「昔は怖かったんだぞ。喧嘩も強かったし。俺なんか、何度こいつに説教されたか」
「お前の場合、説教されて当然のことしかしてないからな」
「ほら。こういうところが怖いんだよ」
三浦は数秒、グリフの顔を見つめた。
やがて、その表情が緩んだ。
「なんだ。そうなのか」
「何が?」
「議員っていうから、てっきり、あっち側の人かと思った」
「あっち側?」
「勉強しかしてこなかったような、偉い人たちの側」
三浦は自分と上村を交互に指さした。
「でも、こっちか」
「そうそう。こっちこっち」
上村が大きくうなずいた。
「あっち側のふりをしてるけど、中身はこっちだから」
「勝手に分類するな」
グリフが言ったが、三浦はすっかり安心したらしい。
「いや、マジで緊張しちゃったよ。俺もグリフさんって呼んでいい……ですか」
「敬語が中途半端になってるよ」
「どっちでいけばいいか分からなくなって」
「グリフでいいですよ。“さん”もいらない。同い年なんでしょう」
「え、本当に?」
三浦は急に身を乗り出した。
「何年生まれ?」
「昭和54年」
「同じだよ」
「じゃあ、敬語なしでいい」
「さすがヘッド。話が早いな」
「ヘッドは忘れてくれ」
上村がメニューをテーブルに置いた。
「それよりグリフ、お前、注文取らなくていいのか」
「ああ、そうだった。何にする?」
三浦はメニューを見た。
「おすすめは?」
「初めてならナシゴレンかな。辛さは選べる」
「じゃあ、それ。辛いやつ」
「結構辛いよ」
「大丈夫。芸人はリアクションが仕事だから」
「最近、その仕事もないだろ」
「上村、お前、今日ずっとそれだな」
グリフが端末に注文を入力しようとしたところで、三浦が声をかけた。
「それよりさ」
「何?」
「一緒に飲まない?」
「今?」
「せっかく知り合ったんだし。昔の上村を知ってる人間なんて、そうそう会えないからさ」
三浦は人懐っこい笑顔を見せた。
テレビで売れていた頃、数多くのスタッフや共演者の懐へ入り込んできた笑顔だった。本人が意識しているかどうかは分からないが、人との距離を一気に縮める力がある。
グリフは厨房のほうを振り返った。
店内は混雑していたが、スタッフたちは慌てることなく動いている。自分が抜けても支障はなさそうだった。
「まあ、それもいいか」
「いいのかよ」
上村が言った。
「俺がいなくても店は回る。それが経営だからな」
「都合のいいときだけ経営者みたいなこと言いやがって」
「ちょっと言ってくる」
*
グリフは近くのスタッフに二、三言伝え、エプロンを外した。それを畳んでカウンターの内側へ置くと、三浦たちの席に椅子を一つ運んできた。
料理とビールが並ぶ頃には、3人はすっかり打ち解けていた。
話題の中心は、高校時代のことだった。
駅前で別の学校の生徒と揉めた話。原付を3人乗りして警察に追いかけられた話。グリフが、喧嘩を止めに入ったはずなのに最後には一番暴れていたという話。
「それは上村が話を盛ってる」
「盛ってねえよ。お前、相手の木刀を素手で取っただろ」
「取ってない。避けたら相手が落としたんだ」
「それを拾って、真っ二つに折った」
「木刀を素手で折れるわけないだろ」
「じゃあ、あれ何だったんだよ」
「古い角材」
「ほとんど同じじゃねえか」
三浦は腹を抱えて笑った。
初めはグリフを警戒していたが、酒が進むにつれ、すっかり昔からの友人のように話していた。
3人とも44歳。昭和生まれだった。
若い頃には、44歳といえば、もっと落ち着いた大人になっているものだと思っていた。しかし実際にその年齢になってみれば、中身は高校時代からそれほど変わっていない。
変わったのは、体力と、背負っているものの重さだけだった。
昔話は、中年になった男たちにとって、現実からひととき逃れるための、よく効く薬だった。
仕事のことも、家族のことも、金のことも、将来への不安も、その間だけは忘れられる。
*
店が夜の営業に切り替わる頃、3人は場所を移した。
駅前の居酒屋から、商店街の外れにあるスナックへ。そこでさらに酒を重ねた。
三浦は酔うほどに饒舌になった。
かつて出演していたテレビ番組の裏話。大物芸能人にかわいがられた話。番組改編で、ある日突然仕事がなくなった話。名前も知らなかった後輩が、今では自分より売れているという話。
笑い話にしていたが、その声には、ときおり隠し切れない悔しさが混じった。
「芸能界なんてさ」
三浦は焼酎の水割りをかき混ぜながら言った。
「売れてるときは、みんな寄ってくるんだよ。でも、テレビに出なくなった途端、電話も鳴らなくなる」
「厳しい世界だな」
グリフが言った。
「政治の世界も似たようなもんじゃないの?」
「似てるところはある」
「人気があるうちは先生、先生って呼ばれてさ。落選したら、ただのおじさんだろ」
「よく知ってるな」
「俺、政治家に向いてるかもしれない」
三浦は笑いながら、自分を指さした。
「知名度は少しある。人前でしゃべれる。頭を下げるのも、笑うのも得意。これ、いけるんじゃない?」
上村が鼻で笑った。
「お前が政治家? 何をするんだよ」
「それは、なってから考える」
「一番なっちゃいけないやつだろ」
三浦は声を上げて笑った。
グリフも笑った。
そのときは、酔った芸人の冗談にしか聞こえなかった。
だが、グリフは三浦の目の奥に、笑いとは別のものが一瞬だけ浮かんだことに気づいていた。
もう一度、人に注目されたい。
もう一度、自分の名前で世の中を振り向かせたい。
その欲望は、酒に酔った男の思いつきにしては、いささか強すぎるように思えた。
***
翌日、グリフが目を覚ましたとき、寝室のカーテンの隙間から、冬の白い光が差し込んでいた。
枕元のスマートフォンを手探りでつかみ、画面を見る。
11時47分。
「……昼じゃないか」
身体を起こした瞬間、こめかみのあたりに鈍い痛みが走った。口の中も妙に乾いている。昨夜、駅前の居酒屋を出たあとの記憶がところどころ抜け落ちていた。
上村と三浦と3人でスナックに入り、昔の歌を歌ったところまでは覚えている。三浦が自分の持ち歌でもないのに、かつて出演していた番組の主題歌を何度も歌っていたことも覚えていた。
だが、どうやって家まで帰ってきたのかは曖昧だった。
「やっと起きたか」
寝室の扉が開き、妻のローサが顔をのぞかせた。
結婚して8年になる。
ローサは、グリフの父ディオの故郷である、インドネシアのルンザット島で生まれ育った。島にいた頃は、自分の考えをはっきり口にし、男たちの集まりにも平気で割って入るような娘だった。
村の仕事にも深く関わっていたため、結婚後の2年間は日本とルンザットを行き来する生活を続けていた。
6年前から倉沢で暮らすようになり、3年前には息子が生まれた。
ローサはベッドの脇に立つと、呆れたように鼻を鳴らした。
「昨日、何時に帰ってきたか、覚えてる?」
「……1時くらい?」
「3時」
「そんな遅かったか」
「玄関で靴を脱いだまま、しばらく座ってた」
「それは、たぶん靴ひもが難しかったんだ」
「靴ひも、なかったよ」
グリフは自分の履いていた靴を思い出した。確かに、ひものない革靴だった。
「久しぶりに飲んだからな。たぶん2日酔いだ。頭が痛い」
「ごはん、どうする?」
「何かある?」
「材料はある。自分で作る?」
ローサは、わざとらしく首をかしげた。
グリフは料理人である。家でも時間があれば台所に立つため、ローサがこういう言い方をするときは、たいてい昨夜の帰宅時間に腹を立てている。
「悪かった。今日は無理だ。作ってください」
「最初から、そう言えばいい」
「海翔は?」
「向こうで遊んでる」
息子は、海を翔けると書いて海翔と名づけた。インドネシアで呼ぶときも、発音をほとんど変えず、カイトとしている。
グリフが居間へ行くと、海翔はラグの上に腹ばいになり、小さなタブレットを両手で持っていた。画面の中では、色鮮やかな動物たちが英語の歌に合わせて踊っている。
「カイト」
呼びかけても反応がない。
「カイト」
もう一度呼ぶと、ようやく顔を上げた。
「パパ、おきた」
「起きたよ」
「おそい」
「……そうだな」
3歳児にまで叱られ、グリフは肩を落とした。
*
海翔の隣に腰を下ろし、画面をのぞく。
「俺たちが子供の頃は、テレビばかり見るなって怒られたけどな。今は3歳でもタブレットか」
台所からローサの声が返ってきた。
「ずっと見せてるわけじゃないよ。ほかのママ友に聞いても、みんな少しは見せてる」
「ママ友か」
「なに?」
「いや、お前の口から“ママ友”って言葉が出るとは思わなかった」
ローサが鍋を持ったまま、台所から顔を出した。
「私だって、ママだから」
「それはそうなんだけど」
ルンザットにいた頃のローサは、周囲がどう思うかをあまり気にしない性格だった。島の男たちが長々と会議をしていると、横から結論を言ってしまうこともあった。
だが、日本へ来てからは、近所づきあいや保育園での人間関係に気を配っている。言葉遣いや服装まで、以前より慎重になった。
本人は何も言わないが、どこか窮屈な思いをしているのではないかと、グリフは気にしていた。
「ママ友、できたのか」
「1人だけ」
「どこで知り合った?」
「公園。公園デビューしたとき」
「公園デビューまでしたのか」
「日本では、そう言うんでしょ?」
「まあ、言うけど」
「海翔が、ほかの子のおもちゃを勝手に使おうとした。その人が、いいですよって言ってくれた」
「親切な人だった?」
「うん。あとで連絡先も交換した。ときどき話す」
「そうか」
グリフは少し安心した。
「うまくやってるならいいけど、何かあったら言えよ」
「大丈夫、大丈夫」
ローサは笑って答えた。
しかし、その「大丈夫」が、本当に何もないという意味なのか、心配をかけたくないという意味なのか、グリフにはまだ完全には聞き分けられなかった。
昼食には、鶏肉と野菜を煮込んだスープが出た。ローサは2日酔いの夫に合わせて薄味にしたらしい。
「うまい」
「昨日も店でいっぱい食べたんじゃないの?」
「昨日は飲むのが中心だった」
「料理人なのに、よくない飲み方」
「おっしゃるとおりです」
食事を終えると、グリフはそのままソファに横になりたくなった。
外では、屋根から落ちた雪を隣家の主人がスコップで片づけている。曇った窓ガラスの向こうで、細かな雪がまた舞い始めていた。
今日は1日、家で寝ていてもいいのではないか。
そんな考えが頭をよぎったとき、伯父の敏夫と約束していたことを思い出した。
「あ」
「どうしたの?」
「敏夫さんと打ち合わせだった」
「何時?」
「午後1時」
時計を見る。12時20分を過ぎている。
「間に合う?」
「ぎりぎり」
グリフは急いで立ち上がった。後頭部にまた痛みが走り、顔をしかめる。
「今日は車、だめだよ」
「分かってる。歩いていく」
昨夜の酒が完全に抜けている自信はなかった。藤樹堂の事務所までは歩いて15分ほどである。
ローサは玄関まで追いかけてくると、マフラーを投げるように渡した。
「これ、忘れてる」
「ありがとう」
「ちゃんと仕事できる?」
「議員の仕事は、2日酔いでも顔に出さないところから始まる」
「そんな議員、だめだと思う」
「俺もそう思う」
グリフはマフラーを巻き、雪の残る道へ出た。




