第三十五話:深部体温(サーモマッピング)の湯気と焦がしにんにくバター醤油弾ける極厚鉄板ステーキチャーハン
凍てつくような寒波が白蘭学園を襲った、ある日の放課後。
生徒会室の窓ガラスはうっすらと結露し、外の景色を白くぼかしていた。部屋の特等席に鎮座する生徒会長・西園寺玲王は、デスクの上に黒い不気味なレンズを搭載した最新鋭のポータブルカメラを設置していた。
呼び出された俺——相沢湊は、いつも通り「冴えない平均点モブ」の猫背を維持したまま、出された温かいお茶に手を伸ばそうとしていた。
「触らないでくれたまえ、相沢くん。そのお茶は、君の『血管』を拡張させてしまうからね」
西園寺が冷徹な声で制した。奴が手元のタブレットを起動すると、モニターに俺の顔が映し出された。だがそれは通常の映像ではなく、青から赤、そして黄色へと変化する、禍々しい熱分布のグラデーション——赤外線サーモグラフィの映像だった。
「これはミリタリークラスの『深部体温・血流ストレス解析システム』だ。人間はどれだけ表情を偽ろうとも、嘘をつく瞬間、自律神経の乱れによって鼻頭や目の周りの毛細血管が収縮し、局所的な温度変化が起きる。……さて、相沢くん。単刀直入に聞こう。君は昨日、白蘭学園の地下データサーバーに侵入した形跡のある暗号IPアドレスについて、何か知っているかね?」
西園寺の鋭い眼光が眼鏡の奥で光る。モニターの中の俺の顔は、完璧な「平常時」を示す緑色に保たれていた。だが、もし俺がこの質問に少しでも動揺し、裏の顔である『M』としての思考を巡らせれば、鼻頭の温度がコンマ数度下がり、AIが即座にそれを『隠蔽反応』として検知する。
(どこまでも科学の力に頼る男だな、西園寺。……だが、熱を測るというなら、お前のその冷徹なシステムごと、とびきり熱く燃え上がらせてやるよ)
俺はブレザーのポケットの中で、あらかじめセットしていたワイヤレスキーを親指で3回ノックした。共犯者たちへの迎撃要請だ。
次の瞬間、生徒会室の窓の外——極寒の中庭から、「キャーーーッ! 冷たーーーい! 誰か助けて、ペンギンが暴走してるわーーー!?」という、九条さんの凄まじく響き渡る悲鳴が聞こえてきた。
西園寺が眉をひそめて窓外を見下ろすと、そこには(なぜかバラエティ番組のロケでもないのに)全身モコモコの『巨大なペンギンの着ぐるみ』を着た九条さんが、凍りついた芝生の上を時速三十キロ近い猛烈な速度でペンギン滑り(腹這い)しながら激走していた。裏で拓海が、着ぐるみの腹部に超小型の電動ソリギミックを仕込んで物理的に大暴走させているのだ。
さらに拓海は、学園の中庭全域のスマート融雪ヒーターを遠隔操作で最大出力に固定。極寒の空間に突如として凄まじい熱風の渦を巻き起こした。
「な……何だあの不審な巨大鳥類は……!? それにこの異常な中庭の熱源上昇は一体……!」
西園寺が驚愕のあまり完全に窓際へと吸い寄せられ、解析モニターから目を離した。
そのわずかコンマ五秒の死角。インカムから、栞の楽しげなタイピング音が滑り込んでくる。
『——私の描く冬のシナリオへようこそ、傲慢な生徒会長。最先端の熱感知マッピングを、今から最高に「美味そう」なバグに書き換えてあげるわ』
次の瞬間、西園寺の手元の解析モニターの中で、俺の顔の熱分布データが致命的な改ざんを起こし始めた。
最新鋭のAIが、俺の顔の座標を『コンビニの冬の風物詩』と誤認。画面内の俺の顔のグラフィックが突如として漆黒の四角い鍋に変形し、**鼻の頭が「味が染み込んだ大根(推定92℃)」、額が「ちくわぶ(85℃)」、両頬が「もち巾着(95℃)」と完全に判定され、画面全体に『おでん鍋・温度均一モード』というシュールなUIスタンプが乱舞し始めた**のだ。画面の隅にはご丁寧に「からし(無料)」のアイコンまで点滅している。
「な、何なんだこれは……!? 感情ステータスが……『大根100%』……だと……!? なぜ彼の顔が総額五百八十円で計算されているんだ……!?」
西園寺が窓際から戻り、モニターを見た瞬間、あまりの寒さとシュールさのギャップに激しい眩暈を起こしたようにデスクを掴んでよろめいた。過剰な「おでんグラフィック処理」を強制されたサーバーは、そのまま出汁が沸騰するアニメーションのまま完全にフリーズした。
「あの、西園寺会長。なんだか画面が美味しそうになってますけど、僕の顔、そんなに大根っぽいですかね?」
俺がわざとらしく首を傾げて尋ねると、西園寺は完全に論理的思考を破壊された様子で、激しく頭を振りながら椅子に崩れ落ちた。
「……いや、赤外線センサーが中庭の熱源異常に引っ張られて熱暴走したようだ。相沢くん、もういい……。出汁の匂いが幻聴で聞こえてくる。今日の面談は終わりだ。帰ってくれ……」
完璧な科学の檻が、熱々のおでんバグによって粉砕された屈辱。西園寺が深い絶望の中で天を仰ぐのを見届け、俺はペコリと頭を下げて生徒会室を後にした。
---
夜十一時。
極限の血流制御と、極寒の中庭での大工作を終え、すみれ荘のドアを開けると、そこには案の定、完全に力尽きた三人の姿があった。
「おかえり、相沢くん……。もう、ペンギンの着ぐるみの中で汗だくになったあと、外気で一気に冷やされたから、風邪ひいちゃうくらい体がキンキンに冷えちゃったよ……」
九条さんがソファの上で大きな毛布を頭からすっぽりと被り、小刻みにガタガタと震えていた。いつもの完璧なアイドルのオーラは消え失せ、少し鼻を赤くした素の女の子の姿がそこにあった。
「俺も……融雪ヒーターの制御盤を弄るために雪の中にずっと伏せてたから、体温が完全に持ってかれたぜ……。星の巡りも『今夜は燃え盛るような肉を喰らえ』って震えてる……」
拓海がストーブの真ん前で丸まりながら、うわ言のように呟く。
「……脳の熱量も完全に限界よ」
栞もまた、ダイニングテーブルに突っ伏していた。
「厳密な熱源データをリアルタイムでおでんの具材に置換するスクリプトなんて、私のプログラミング脳を芯から凍らせるわ。相沢くん、今夜は私たちのこの凍えきった身体に、圧倒的な熱量と肉の暴力を注ぎ込んでちょうだい」
限界の一歩先で戦い抜いた共犯者たち。
俺は制服のブレザーを脱ぎ捨て、黒いエプロンをきつく締め直した。
調理場に向かう途中、ガタガタと震えている九条さんの前を通り過ぎる際、俺は棚から取り出した清潔な厚手のブランケットを、彼女の頭の上からそっと無言で追加して掛けた。
「えっ……?」
九条さんが驚いたように毛布の隙間から顔を覗かせる。
「着ぐるみの中でかいた汗が冷えてるんだろ。そのままにしてると本当に明日からのライブに響くぞ、トップアイドル。……少し待ってろ。今、一瞬で身体の芯から沸騰させてやる」
俺がそう言ってキッチンへと背を向けると、九条さんは一瞬だけ呆気に取られたように目を丸くし、それから、掛けられたブランケットをぎゅっと胸元で握りしめた。その白い頬が、部屋の暖房のせいだけではない微かな赤みに染まったのを、俺はあえて見ない振りを決め込んだ。
「……うん。ありがと、相沢くん」
小さく、いつもの営業用ではない、本当に安心したような声がキッチンまで届く。俺は小さく息を吐き、コンロの強火を点火した。
「今夜は、その冷え切った身体とすり減った神経を一瞬で極限まで加熱する、すみれ荘至高の鉄板スタミナ飯だ。『特製・焦がしにんにくバター醤油香る極厚サーロインステーキチャーハン』を作る」
その瞬間、リビングの空気が一変し、三人の目が飢えた獣のようにギラリと輝いた。
ステーキチャーハン。それは、圧倒的な肉の旨味と、暴力的なにんにくの香ばしさ、そしてそれらの肉汁をすべて吸い尽くした米が三位一体となる、脳を狂わせる最高峰の贅沢スタミナ飯だ。
俺が冷蔵庫から取り出したのは、見事なサシが入った、厚さ約三センチの極厚黒毛和牛サーロインステーキ肉。
まずは肉を常温に戻し、表面に強めに塩、そして荒挽きの黒胡椒をたっぷりと振る。
キンキンに熱した極厚の鉄板フライパンに牛脂を溶かし、まずは薄切りにした大量のにんにくを投入。カリカリの黄金色になるまで炒めて「にんにくチップ」を作り、一度取り出す。
にんにくの強烈な香りが移った漆黒のオイルの中に、主役である極厚のステーキ肉を静かに滑り込ませた。
——ジャァァァァァァァァッッッ!!!
凄まじい爆音と共に、高級な牛脂の甘い香りと、焦げた肉の暴力的なまでに香ばしい匂いが一気にリビングへと解き放たれた。この匂いだけで、空腹の胃袋が限界突破の悲鳴を上げる。
表面を強火で一気に焼き固めて肉汁を完全に閉じ込め、美しい褐色のレアに仕上げたら、肉を一度引き上げてアルミホイルで包み、余熱で中までじっくりと熱を通す。
その間に、フライパンに残った濃厚な牛脂とにんにくの旨味の中に、硬めに炊いた白米をどっさりと投入。
強火のまま煽り、米の一粒一粒に牛の脂をコーティングしていく。ここに醤油、みりん、そして特大のバターを投入。
——ジュワジュワジュワッ!!!
鍋肌から焦げた醤油とバターの、官能的とも言える香りが立ち上り、チャーハン全体が黄金色に染まっていく。
ホイルから取り出した極厚ステーキを、一口大の贅沢な厚切りにカット。切り口からは、完璧なローズピンクの断面と、透明な肉汁が溢れ出ている。それを黄金のチャーハンの上にこれでもかと敷き詰め、頂点にカリカリのにんにくチップと青ネギをドッサリと散らした。
「さあ、熱いうちに、鉄板が冷める前に喰らえ」
一人前の鉄板皿に盛られたステーキチャーハンは、まるでジュワジュワと音を立てるスタミナの火山だった。
三人は、限界を迎えた胃袋に突き動かされるように、一斉にスプーンを突き立てた。
お肉と、タレを吸ったチャーハンを一緒に、九条さんが大きな口を開けて頬張った。
次の瞬間、彼女の瞳が衝撃で大きく見開かれ、身体がビクッと震えた。
「————っっっ!!! んんん〜〜〜〜〜っっっ!!! 溶ける! お肉が口の中でとろけて、体の中が一気にあったかくなっちゃうよ、相沢くん!」
九条さんが、両頬を抑えて、幸せのあまり身悶えしながら叫んだ。毛布の隙間から覗く彼女の顔は、完全に恍惚に染まっている。
「お肉を噛んだ瞬間に、閉じ込められていた最高級の肉汁がじゅわぁぁぁってお口いっぱいに広がるの! そしてこのチャーハン! 焦がしにんにく醤油の香ばしさと、バターの濃厚なコクがお米の芯まで染み込んでいて、ステーキの脂と一緒に食べると、もう悪魔的な美味しさよ! 冷え切ってた体が、足の先までポカポカしてくる……!」
「うおーっ、美味すぎる!! 湊、この肉の厚みはマジで反則だろ!」
拓海が、額の汗を拭うのも忘れて、ステーキと黄金チャーハンを豪快に口に放り込んでいる。
「にんにくとバター醤油のキレが凄すぎて、スプーンを持つ手が止まらねえ! 雪の中で凍りついた身体の細胞が、一気に覚醒していくのが分かるぜ!」
「……至高のロジックね」
栞もまた、恍惚とした表情で肉をご飯と共に口に運び、眼鏡を曇らせていた。
「肉の余熱調理という『計算されたブランク』と、その旨味をすべて米に吸わせるという『プロットの回収』。西園寺くんがどれだけ冷徹にこちらの体温を監視しようとも、このステーキチャーハンがもたらす生命力の熱量の前には、彼のAIなどただの冷たい文字列に過ぎないわね。この共犯関係の美味しさは、誰にも暴けないわ」
深夜のすみれ荘に、ただひたすらに肉を喰らい、極上の米を掻き込む幸福な咀嚼音だけが響き渡る。
俺自身も、自分の分のチャーハンを口に運び、その突き抜けるような美味さに小さく息を吐いた。
濃厚なにんにく醤油の風味と、バターのコク、そして口の中でジュワリと広がる黒毛和牛の圧倒的な旨味。それが一日中モブを演じ、裏工作を仕掛け続けた俺の身体を、最高に心地よく満たしていく。
ふと見ると、九条さんがスプーンを動かしながら、じっとこちらを見ていた。いつものトップアイドルとしての計算された視線ではない、どこか少し恥ずかしそうで、けれど、真っ直ぐな視線。
「相沢くん、本当に、いつもありがとう。……私、相沢くんの作るご飯があるから、どんなに無茶な作戦でも頑張れるんだと思う」
不意に投げかけられた、あまりにも純粋な感謝の言葉。
裏社会で数々の修羅場をくぐり抜け、人間の『裏の意図』ばかりを計算してきた元・天才フィクサー『M』の心臓が、その瞬間、トクンと不自然な鼓動を刻んだ。西園寺のどんな尋問カメラでも捉えられなかった、俺の胸の奥の明確な「熱源上昇」。
「……当然のことをしただけだ。お前らがバグを起こさなければ、俺の平穏が崩壊するからな」
俺はわざと冷淡な口調を装って、チャーハンを口に運んだ。
だが、九条さんはそんな俺の態度を見透かしたように、毛布にくるまったまま「ふふっ」と嬉しそうに小さく笑った。その笑顔は、どんなステージのライトよりも、今の俺の目には眩しく映った。
「おい、拓海、おかわりはまだフライパンにあるぞ。九条さん、お前は食べたらすぐにその毛布を被って寝ろ」
「はーい! でも美味しくてまだ寝られないから、お肉あと二切れおかわり!」
「あはは、俺もおかわり! 湊、明日の西園寺の『おでんバグ報告書』の顔、今から楽しみだな?」
「……私の小説の第十章は、西園寺くんの『コンビニおでんへの恐怖症』で決定ね」
夜が更けていくすみれ荘。
窓の外では冬の寒風が冷たく吹き荒れているが、このダイニングテーブルを包むステーキチャーハンの熱気と、共犯者たちの暖かな笑い声、そして、ほんの少しだけ熱を帯び始めた二人の距離は、どんな策謀の影をも寄せ付けないほどに、どこまでも優しく、力強く燃え上がっていた。




