第三十三話:視線計測(アイトラッキング)の狂騒曲とカリカリ衣弾ける極厚ジューシー油淋鶏
しんしんと冷え込む冬の放課後、生徒会室のデスクには、またしても西園寺玲王が用意した「新たな檻」が設置されていた。
俺——相沢湊が呼び出されたデスクの上には、新型のスマートモニターが置かれている。画面に映し出されているのは、一見すると学園の次期予算案の複雑なグラフや数字の羅列だ。
「相沢くん。この予算案のデータ、どうにも数字の推移が不自然でね。君の目で、どの項目に違和感があるか精査してみてくれないか」
西園寺はデスクの端で腕を組み、冷ややかな視線を俺に注いでいた。モニターのフレーム上下には、かすかに赤く発光する極小のレンズが埋め込まれている。
——『視線計測システム』。
事前に耳裏のインカムで栞から知らされていた通り、西園寺の今回の罠はこれだった。このモニターの予算案のグラフには、特定の座標に、かつて裏社会の国際取引で使われていた「M」独自の暗号プロトコルの視覚パターンが隠されている。
もし俺がその暗号を「理解できる人間」であれば、無意識のうちにその特定の座標を、規則正しい順番で視線が追ってしまう。その瞳孔の動きや視線の滞留時間をミリ秒単位で解析し、俺が『M』である証拠を掴もうという魂胆だ。
(どこまでも用意周到な男だ。人間の無意識の生理現象まで利用しようとするとはな)
だが、俺の視線がその暗号に触れるより早く、俺はポケットの中でスマホのベゼルを特定のパターンでスワイプした。バックアップ部隊への迎撃サインだ。
その瞬間、中庭から「キャーーーッ! 誰か助けてー! ドローンが暴走してるわー!?」という、九条さんの凄まじくわざとらしい悲鳴が響き渡った。窓の外を見ると、拓海が遠隔操作する広報用のドローンが、もの凄い速度で反転しながら九条さんの周囲をグルグルと飛び回っている。
西園寺が「チッ、またあの騒がしいアイドルか……」と一瞬だけ窓外に視線を向けた、その刹那。
栞のタイピング音がインカムを通じて俺の脳内に滑り込む。
『——網膜の座標データをハックしたわ、哀れな生徒会長。あなたの最新鋭の視線解析ログを、今から最高にくだらない「古典的ゲーム」に書き換えてあげる』
次の瞬間、西園寺の手元の解析用タブレットの中で、俺の視線を示す赤いドットの軌跡が突如として異常な挙動を始めた。
画面上の視線ドットが突如として黄色い円形に変形し、**予算案のグラフの数字を「パクパク、パクパク」と小気味良い音(栞が仕込んだ精神攻撃用の効果音)と共に食べ尽くし始めた**のだ。画面の端からは赤や青のゴーストのようなドットが出現し、俺の視線パクマンを猛烈な勢いで追いかけ回す。
「な……何だこれは!? 視線データが……ドットを食べ進めている……!?」
西園寺が驚愕のあまり眼鏡をずらし、タブレットの画面に顔を近づけた。
超高速で処理能力を超えたレトロゲーム的スクリプトを実行させられた解析サーバーは、またたく間に過熱。画面全体に『GAME OVER』の文字をデカデカと表示したまま、完全にブラックアウトした。
「あの、西園寺会長? 画面の数字が急に消えちゃったんですけど、僕の目が疲れすぎてバグっちゃったんでしょうか……?」
俺がわざとらしく目をこすりながらトボけた声を出すと、西園寺は激しい疲労感からか、深くため息をついて額を押さえた。
「……いや、システムの初期不良だ。開発元のセキュリティ会社に厳重に抗議しておく。相沢くん、もういい。今日のところは解散だ」
自身の冷徹な科学的アプローチが、あまりにもシュールなドットゲームによって粉砕された屈辱。西園寺がデスクに崩れ落ちるのを見届け、俺は心の中で小さく勝利の笑みを浮かべながら退室した。
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夜十一時。
極限の視線制御と、学園中を巻き込んだノイズの制御を終え、すみれ荘の玄関扉を開けると、そこには案の定、完全に燃え尽きた三人の姿があった。
「おかえり、相沢くん……。もう、ドローンに追いかけ回されるフリをして中庭を全力疾走したから、体感温度が氷点下から一気に沸点までいって、もう全身の関節がバラバラになりそうよ……」
九条さんがソファの上でぐったりと横たわり、息も絶え絶えに訴えた。
「俺も……生徒会長の端末のBluetooth信号を傍受しながらドローンをミリ単位で操作してたから、指先が完全に攣っちまったぜ……。星の巡りも『今夜は肉の油を浴びるべし』って言ってる……」
拓海が床の上で死体のようになりながら、うわ言のように呟く。
「……脳の視覚野が完全にシャットダウンしたわ」
栞もまた、ノートPCの横で眼鏡を外したまま突っ伏していた。
「人間の網膜走査データをリアルタイムでレトロゲームに変換するなんて、国家レベルの防衛システムをハックするより疲れるわ。相沢くん、今夜は私たちのこの渇ききった魂と脳細胞を、圧倒的なカリカリ感とジューシーな肉汁の暴力で強制覚醒させて」
限界の一歩先で戦い抜いた共犯者たち。
俺はネクタイを外し、黒いエプロンをきつく締め直すと、冷蔵庫から特大の鶏もも肉を取り出した。
「お前ら、最高のサポートだった。西園寺の視覚の檻は、ただのゲームステージに変わった。……今夜は、そのすり減った神経を極上の旨味で満たす、すみれ荘至高のスタミナ中華だ。『特製・カリカリ衣弾ける極厚ジューシー油淋鶏 〜にんにくネギだれ大洪水〜』を作る」
そのメニュー名が響いた瞬間、リビングの空気が一変し、三人の目が肉食獣のようにギラリと輝いた。
油淋鶏。それは、衣の圧倒的なザクザク感と、内部から溢れ出る肉汁のジューシーさ、そしてそれを引き締める酸味の利いたタレが完璧に調和して初めて、脳を狂わせる贅沢飯となる。
俺が用意したのは、一枚あたり三百グラムを超える、見事な厚みのある国産鶏もも肉。
まずはフォークで全体を無数に突き刺し、肉の繊維を柔らかくする。ここに、すりおろした生姜、にんにく、酒、醤油、そして隠し味の香油を揉み込み、約二十分間じっくりと下味を染み込ませる。
衣には、小麦粉と片栗粉を独自の黄金比率で配合。肉の表面にこれでもかと厚く纏わせる。これが、揚げた時に「ザクッ」という心地よい音を立てる強固な装甲となるのだ。
中華鍋にたっぷりの油を熱し、まずは百度六十度の低温でじっくりと揚げていく。
——ジワジワジワジワ……。
静かな音と共に、鶏肉の内部までじっくりと熱が通り、肉汁が閉じ込められていく。一度肉を引き揚げて余熱で数分間休ませた後、今度は油の温度を百度八十度の高温に一気に引き上げる。そこへ再び肉を投入。
——バリバリバリバリバチバチッッッ!!!
凄まじい爆音と共に、衣が一気にきつね色の美しい結晶へと変貌していく。油の弾ける香ばしい匂いがキッチン中に立ち込め、リビングの三人の胃袋を容赦なく破壊した。
肉を揚げている間に、仕上げの「特製にんにくネギだれ」を調合する。
みじん切りにした大量の長ネギと、これでもかと刻んだ生にんにく。そこへ醤油、お酢、砂糖、ごま油、そしてほんの少しの蜂蜜とアジアン香辛料を投入。強烈な薬味の香りと、酸味の利いた甘辛い香りが完全に一体となる。
ザクザクに揚がった極厚の鶏肉をまな板に乗せ、包丁を入れる。
——サクゥッ! ジュワァァァ……!
完璧な音が響き、切り口から透明な肉汁が溢れ出た。それを大皿に盛り付け、上から冷たい特製だれを「これでもか」と豪快に叩きつけた。
「さあ、冷めないうちに、衣がタレを吸い尽くす前に喰らえ」
大皿に盛られた油淋鶏は、まるで黄金の山脈のようだった。その上から注がれたネギとにんにくのタレは、文字通り大洪水のように皿の底を満たしている。
三人は、限界を迎えた胃袋に突き動かされるように、一斉に箸を伸ばした。
タレがダクダクに染みた特大の一切れを、九条さんが大きな口を開けて頬張った。
次の瞬間、彼女の身体がビクッと硬直した。
「————っっっ!!! んんん〜〜〜〜〜っっっ!!! 弾ける! お口の中で衣がザクザク大爆発しちゃったよ、相沢くん!」
九条さんが、両頬を抑えて、幸せのあまり身悶えしながら叫んだ。
「お声を立てて噛んだ瞬間に、ザックザクの衣の奥から、信じられないくらい熱くてジューシーな肉汁がじゅわぁぁぁってお口いっぱいに広がるの! そしてこのにんにくネギだれ……! お酢のさっぱりした酸味があるから、これだけ油気があるのに全然重くなくて、生のネギとにんにくのシャキシャキした辛味が脳の奥までガツンと響いてくる! もう、ご飯が秒速で消えちゃうわ!」
「うおーっ、美味すぎる!! 湊、このタレはマジで悪魔の飲み物だろ!」
拓海が、額の汗を拭うのも忘れて、タレがダクダクに染みたネギごと油淋鶏をご飯の上に乗せ、豪快に口に掻き込んでいる。
「このにんにくのパンチが、ドローン操作で冷え切った指先まで一気に血を巡らせてくれるぜ! カリカリの衣とジューシーな肉のバランスが最高すぎて、箸が止められねえ!」
「……至高のアンサー(解決編)ね」
栞もまた、恍惚とした表情で肉を口に運び、眼鏡を曇らせていた。
「二度揚げによって肉汁を完全に閉じ込めるという『完璧な計算』と、酸味の利いたタレで薬味の暴力を包み込むという『圧倒的な演出』。西園寺くんがどれだけ冷徹にこちらの視線を計測しようとも、この油淋鶏がもたらす圧倒的な旨味と熱量の前には、彼のAIなどただの平坦な文字列に過ぎないわね。この共犯関係の美味しさは、誰にも暴けないわ」
深夜のすみれ荘に、ただひたすらに唐揚げを噛み砕き、白米を掻き込む幸福な咀嚼音だけが響き渡る。
俺自身も、自分の分の油淋鶏を口に運び、その突き抜けるような美味さに小さく息を吐いた。
ガツンとくるにんにく醤油の風味と、口の中でジュワリと広がる鶏脂の圧倒的なコク。それが一日中モブを演じ、裏工作を仕掛け続けた俺の身体を、最高に心地よく満たしていく。
西園寺玲王。お前は科学の力と無意識の隙を突いて、俺たちを孤独なシステムの中に追い詰めようとしている。だが、お前がどれだけ網を絞ろうとも、俺たちにはこの食卓がある。同じ飯の美味さに感動し、互いの窮地を笑いながら救い合う、この歪で、けれど絶対に壊れない絆がある。
お前がチェス盤を睨みつけている間に、俺たちはこのキッチンの熱気と共に、お前の想像もしない「外側」から、いつでもその完璧な世界をハックしてやるさ。
「おい、九条さん、ネギをご飯に乗せすぎるな。おかわりはまだ厨房にあるからな」
「はーい! でもこのネギだれが美味しすぎて、白米の生存戦略が完全に崩壊しちゃうのよ!」
「あはは、俺もおかわり! 湊、明日の西園寺の『バグ解析会議』の顔、今から楽しみだな?」
「……私の小説の第八章は、西園寺くんの『ドットゲームへのトラウマ』で決定ね」
夜が更けていくすみれ荘。
窓の外では冬の寒風が冷たく吹き荒れているが、このダイニングテーブルを包む油淋鶏の熱気と、共犯者たちの暖かな笑い声は、どんな策謀の影をも寄せ付けないほどに、どこまでも熱く、力強く燃え上がっていた。




