第二十七話:鉄壁のルーティンと極厚ハニーマスタードトンテキ
カチ、カチ、カチ……と、静まり返った生徒会室に、古風な柱時計の秒針の音だけが規則正しく響いていた。
俺——相沢湊は、窓際の長机に座り、山積みにされた過去の備品目録とパソコンの画面を交互に見つめながら、ひたすらデータを打ち込んでいた。その背後、数メートル離れた執務机からは、生徒会長・西園寺玲王の、刺すような視線が常に俺の頭頂部に突き刺さっている。
これが、西園寺が俺に課した「特別環境整備委員」の日常であり、同時に俺の正体を暴くための、音のない尋問だった。
「相沢くん。そのページの入力、随分と時間がかかっているようだけれど、何か問題でもあったかい?」
西園寺が、書類をめくる手を止めずに、鈴の鳴るような澄んだ声で問いかけてきた。その声音は親切な先輩のそれだが、本質は獲物の呼吸の乱れを測る冷徹なハンターだ。
「あ、すみません、西園寺会長。この年度の目録、手書きの文字が掠れていて……『チョーク』なのか『チリトリ』なのか、僕の頭だと判別するのに時間がかかっちゃって」
俺はわざとらしく肩をすくめ、いかにも「真面目だけが取り柄の不器用な一般生徒」のトーンで返した。キーボードを叩く速度も、学年平均のタイピング速度よりコンマ数秒だけ遅い、絶妙な「凡人レート」を維持している。
西園寺は、俺のその完璧な演技に対し、フッと鼻で笑うような気配を見せた。奴の狙いは分かっている。俺がいつ、この退屈な作業に痺れを切らし、フィクサーとしての圧倒的な処理能力を解放してしまうか、その「化けの皮が剥がれる瞬間」を待っているのだ。
だが、あいにく裏社会の修羅場で数日間の監視拷問すら耐え抜いてきた俺にとって、この程度の視線などそよ風に等しい。俺は脳内で、西園寺の注意力を完全にコントロールするための「次の手」へと意識を向けていた。
その時、西園寺のデスクの上の内線電話が、けたたましく鳴り響いた。
西園寺が眉をひそめ、受話器を取る。
「はい、生徒会室、西園寺だ。……何だって? 第三体育館の機材室の鍵が、解錠されたままロックがかからない? しかも、その近くで不審な黒い影を見たという通報があった、だと?」
西園寺の目が、一瞬で鋭く光った。
インカム越しに聞こえるのは、一ノ瀬拓海が仕込んだ「協力者(クラスの噂好きの女子)」による、意図的に大袈裟に膨らまされた通報だ。拓海は今日、持ち前の人脈をフル活用し、学園のあちこちに「西園寺が動かざるを得ない小さな怪事件」をドミノ倒しのように配置していた。
「……分かった。私が直接確認に行く。副会長、留守中の生徒会室の管理を任せる」
西園寺が立ち上がり、ブレザーの襟を正しながら俺を一瞥した。
「相沢くん。私は少し席を外すが、君はそのまま作業を続けていてくれ。戻ったときに、その年度の照合が終わっていることを期待しているよ」
「はい、分かりました。気をつけて行ってきてください、会長」
俺がペコリと頭を下げ、奴がドタバタと部屋を出ていくのを見送る。ドアが完全に閉まった瞬間、俺の猫背だった背筋が、カチリと一瞬で冷徹な直線へと戻った。
腕時計の文字盤に目を落とす。西園寺が往復して現場を確認し、それが拓海の仕掛けた空振りのトラップだと気づくまでに、およそ十二分。
「羽鳥、聞こえるか。ターゲットが動いたぞ」
俺は制服の襟裏に仕込んだ超小型マイクに向かって、極小の声で呟いた。
『了解したわ、相沢くん。西園寺くんが部屋を離れた瞬間を狙って、生徒会のメインサーバーに一時的なアクセス過多(ダミーの遅延)を発生させたわ。これで、あなたが彼のパソコンに触れることなく、あなたの作業ログを「システム側の遅延のせいで遅く見えていただけで、実は超人的な速度で終わっていた」という、都合の良い矛盾データに書き換える準備が整ったわ』
栞の、冷徹で楽しげな声が耳の奥で踊る。
俺の狙いは、西園寺に「相沢湊はやっぱり無能な一般生徒だ」と思わせることではない。奴がどれだけ網を絞ろうとも、その網の目そのものを歪め、「すべてはシステムのバグや偶然の積み重ねである」という別の迷宮に奴の頭脳を監禁することだ。
「よし、九条さんはどうした?」
『(もぐもぐ)……ん、相沢くん? 私は今、中庭で西園寺くんの移動ルートのど真ん中に先回りして、ファンに囲まれながら「お疲れ様です、会長!」って満面の笑みで挨拶したところよ! あいつ、私のオーラに一瞬気圧されて、歩く速度が三秒くらい遅くなったわ!』
「食べるのをやめろ、九条さん。……まあいい、二人ともそのままフェードアウトしろ。俺は残りの五分で、この三年分のゴミデータを片付ける」
通信を切り、俺の両手がキーボードの上にセットされる。
次の瞬間、生徒会室の静寂を切り裂くように、凄まじい打鍵音が響き渡った。残像を残して動く俺の指先によって、画面上の複雑な備品データが、まるで激流のように一方向へと整理され、収まるべき場所へと吸い込まれていく。西園寺が数日かかると踏んでいた作業が、わずか三分で「完璧なフォーマット」へと昇華されていく。
そして、西園寺が戻る一分前。俺は再び姿勢を崩し、退屈そうにため息をつく「不器用なモブ」の姿へと戻り、わざと掠れた文字のページを開いて、考え込むフリを始めた。
バタン、とドアが開き、少しだけ肩を揺らした西園寺が戻ってきた。その表情には、空振りに終わった調査への苛立ちが微かに滲んでいる。
「……ただの機材の不調だったよ。相沢くん、作業は進んだかい?」
「あ、はい……なんとか、その年度の分だけは終わりました……。パソコンの画面を見すぎて、目がチカチカしちゃって」
俺が差し出した画面を見て、西園寺はフッと眼鏡の位置を直した。そのデータは、遅くもなく、早くもない、実につまらない速度で処理されたように偽装されている。奴は俺の背後に隠された「真実」に指先を触れることすらできず、今日もまた、完璧なルーティンの中に敗北したのだ。
夜十時。
すべての偽装工作と、神経を摩耗させる演劇を終えてすみれ荘に帰り着いた俺は、リビングに足を踏み入れた瞬間に、エプロンを引っ掴んだ。
リビングには、作戦を完璧に遂行し、俺と同じように心地よい疲労感を漂わせた三人が、今か今かと俺の料理を待っていた。
「おかえり、相沢くん! 今日の連携、マジでスパイ映画みたいでゾクゾクしちゃったわ! ほら、私の胃袋も、そのスリルで限界までペコペコよ!」
九条さんが、お腹をさすりながら目を輝かせる。
「俺も、西園寺のルートを予測して女子を配置するの、マジで心臓に悪かったわ。湊、今夜はガツンと元気が出る肉が食いたいぜ!」
拓海がソファに寝転びながら叫び、栞もまた、眼鏡を外して疲れた目を休ませながら、小さく頷いた。
「ええ。西園寺くんの論理思考の裏をかくのは、最高に贅沢な脳のスポーツだったわ。けれど、その代償として、私の身体は強烈なタンパク質と酸味を求めているの。相沢くん、今夜のメニューで、私たちのこの渇きを満たしてちょうだい」
「分かっている。西園寺の執拗な視線を受け流し続けた俺の脳も、今は肉の暴力的な旨味を求めているからな。……今夜は、一切の妥協を排した『極厚ジューシー・ハニーマスタードトンテキ』だ」
俺の宣言と共に、すみれ荘の深夜のキッチンが熱を帯び始める。
トンテキの成敗は、肉の厚みに対する火入れと、ソースの甘酸っぱさのバランス、その二点に集約される。
俺が冷蔵庫から取り出したのは、厚さ約四センチ、厳選された国産豚の肩ロース肉だ。赤身の間に細かい網の目のように良質な脂身が走っており、加熱することで極上の柔らかさを発揮する部位である。
まずは、包丁の刃先を使って、肉の表裏に格子状の細かい切れ目を入れていく。こうすることで、分厚い肉の芯まで均等に熱が伝わり、同時に特製のソースが肉の繊維の奥深くまで染み込みやすくなるのだ。軽く塩と白胡椒を振り、小麦粉を薄く叩いて旨味の壁を作る。
熱したフライパンに、風味豊かなラードを溶かす。そこへ、潰したニンニクの香りをじっくりと移した後、主役である極厚の肉を静かに投入した。
——ジャァァァァァッッッ!!!
肉が油と出会った瞬間の、狂おしいほどの爆音が狭いキッチンに鳴り響く。
最初は強火で表面を一気に焼き固め、美しいきつね色の焼き目をコーティングしていく。豚肉の脂が溶け出し、ニンニクの香ばしさと混ざり合って、リビングにいる三人の鼻腔をダイレクトに強襲した。
「うわぁ……! もう、音と匂いだけで白米が一杯食べられそう……!」
九条さんの理性が早くも崩壊しかけている。
両面に完璧な焼き色をつけたら、火を弱め、蓋をしてじっくりと蒸し焼きにする。肉の内部の温度をゆっくりと上昇させ、肉汁を閉じ込めながら、ふっくらとジューシーに仕上げていく。
肉に火が通ったところで、いよいよトンテキの魂とも言える「特製ハニーマスタードソース」の仕上げだ。
フライパンに残った濃厚な豚の肉汁と脂の中に、粒マスタードをたっぷりと投入。さらに、深みのある甘みを与える純粋蜂蜜、全体の味をキリリと引き締めるバルサミコ酢、そして隠し味に少量の醤油を加え、一気に強火で煮詰めていく。
——ジュワジュワジュワッ!!!
ソースが泡立ち、フライパンの中で肉と絡み合いながら、濃密な琥珀色のタレへと変化していく。マスタードのツンとした爽やかな香りと、蜂蜜のまろやかな甘い香りが熱気となって立ち上り、最高潮の食欲を煽り立てる。
「よし、冷めないうちにナイフを入れろ」
大皿に盛り付けられたトンテキは、まるで小さな肉の要塞のようだった。艶やかなハニーマスタードソースを全身に纏い、その上にはカリカリに炒められたニンニクチップが惜しげもなく散らされている。付け合わせには、ソースを余すことなく絡め取るための、シャキシャキの山盛りキャベツだ。
三人は、限界を迎えた胃袋に突き動かされるように、一斉にナイフを肉へと滑らせた。
すうっ、と驚くほど滑らかに刃が通り、肉が切り分けられた瞬間。
——ジュワッ。
切り口から、透明で美しい肉汁が、まるで泉のように溢れ出して皿の上に広がった。
九条さんが、我慢できないとばかりにその大きな一切れを口へと放り込んだ。
彼女の動きが、完全にストップする。あまりの美味さに、脳の全回路がシャットダウンされたかのような表情だ。
「————っっっ!!! んんん〜〜〜〜〜っっっ!!! 柔らかい、信じられないくらい柔らかいよ、相沢くん!」
九条さんが、お尻を半分浮かせながら、感動のあまり声を震わせた。
「お肉を噛んだ瞬間に、閉じ込められていた肉汁がじゅわぁぁぁって口の中に溢れてくるの! それにこのソース! 蜂蜜のとろけるような甘さのあとに、粒マスタードのプチプチした食感と爽やかな酸味が追いかけてきて、お肉の脂っこさを全部最高のご馳走に変えちゃう! ご飯が、ご飯が止まらないよぉ!」
「うわっ、これは反則だろ……! 湊、このニンニクチップと一緒に食うと、美味さが五倍跳ね上がるぜ!」
拓海が、トンテキを白米の上で何度もバウンドさせ、タレの染みたご飯ごと豪快に口に掻き込んでいる。
「バルサミコ酢の微かな渋みがあるから、後味がすっごく上品なんだよな。学校での西園寺との化かし合いでヘトヘトだった身体に、このスタミナがガツンと効いてくる!」
「……完璧なプロットね」
栞もまた、肉を小さく切り分け、至福の表情で咀嚼を繰り返していた。
「豚肉の圧倒的なジューシーさという『主役』を、ハニーマスタードという『最高の引き立て役』が完璧にサポートしているわ。甘みと酸味、そしてマスタードの微かな辛味の三幕構成が、私の疲弊した脳細胞をこれ以上ない形で癒してくれる。西園寺くんがどれだけ冷徹な現実を突きつけてこようとも、このトンテキがある限り、私たちの共犯関係は絶対に揺るがないわね」
深夜のリビングに、ただひたすらに肉を咀嚼し、白米を掻き込む幸福な音だけが響き渡る。
俺自身も、自分の分のトンテキを口に運び、その圧倒的な美味さに小さく息を吐いた。
甘酸っぱいソースが肉の旨味と溶け合い、疲れた身体の隅々にまでエネルギーが満ちていく。
西園寺玲王。お前は俺たちをシステムで縛り、個別に切り崩そうとしている。だが、お前が知らない決定的な事実が一つだけある。
俺たちはただの「互いを利用し合う共犯者」ではない。一つの食卓を囲み、同じ飯の美味さに感動し、胃袋の底から繋がっている『家族(すみれ荘の住人)』だということだ。お前がどれだけ冷徹な罠を仕掛けようとも、この温かい肉汁の絆を断ち切ることだけは、絶対にできはしない。
「おい、九条さん、キャベツもちゃんと食え。タレを絡めればいくらでも入るだろう」
「はーい! このタレが染みたキャベツだけでも、ご飯もう一杯いけちゃうわ!」
「あはは、俺もおかわり! 湊、明日の西園寺の動き、俺の占いだとさらに面白くなりそうだぜ?」
「……私の小説の次の章は、西園寺くんのさらなる敗北から始めることにするわ」
夜が更けていくすみれ荘。
外の風は少しずつ冬の気配を帯びて冷たくなっていくが、このキッチンの熱気と、肉汁で結ばれた共犯者たちの笑い声は、どんな策謀の影をも寄せ付けないほどに、どこまでも暖かく、力強く燃え上がっていた。




