第二十六話:完璧な平均(モブ)の誤算と覚醒の四川麻婆豆腐
完璧なモブ(一般生徒)とは何か。それは、誰の記憶にも残らず、いかなる組織のレーダーにも引っかからず、ただ風景の一部としてそこに存在する者のことだ。
元・天才フィクサーである俺——相沢湊は、この白蘭学園においてその「完璧なモブ」を演じきっている自信があった。成績は常に学年平均点。提出物は期限の一日前。部活動は帰宅部。目立つ容姿でもなければ、問題を起こすわけでもない。
だが、俺は一つだけ、重大な計算違いをしていた。
世の中には、その「完璧すぎる平均」というデータそのものに、異常なまでの違和感を抱く、狂気的な天才が存在するのだということを。
「——相沢くん。君の過去二年間における、全定期考査のデータだよ」
放課後の生徒会室。西日が差し込む重厚な空間で、生徒会長・西園寺玲王は、一枚のグラフシートを俺の目の前に滑らせた。
そこには、俺の成績の推移が不気味なほど真っ直ぐな直線となって描かれていた。
「国語、数学、英語、理科、社会。すべての教科において、君の点数は学年平均点に対して、常にプラスマイナス一差の範囲に収まっている。これが一度や二度なら、ただの奇妙な偶然で片付けられるだろう。だが、入学以来、十数回に及ぶ試験でこれが継続する確率は、統計学的にゼロに等しい。……君は、意図的に点数をコントロールしているね?」
銀縁眼鏡の奥で、西園寺の鋭い瞳が愉悦に細められた。
俺は、いかにも気弱な男子生徒を装って、愛想笑いを浮かべながら頭を掻いた。
「いやあ、生徒会長、買い被りすぎですよ。僕、本当に頭が悪くて、たまたま運良くいつも真ん中あたりに滑り込んでるだけでして……」
「言い訳は無用だ。君がどれだけ凡庸さを装おうとも、数字は嘘をつかない。君は『目立たないこと』を目的に、意図的にこの学園のシステムをハックしている。九条凛の背後にいるのは、君だな?」
西園寺が立ち上がり、机に両手をついて俺を覗き込んできた。その圧倒的な威圧感。体育祭での数々のノイズ、九条凛の不自然な書類の完璧さ、そしてその中心に常に位置する「平均的な男子生徒」という存在。あの男は、ついにすべてのパズルピースを繋ぎ合わせ、俺という本丸に辿り着いたのだ。
俺の心臓が、一瞬だけ鋭く拍動する。フィクサーとしての本能が、この男を物理的に、あるいは社会的につぶせと囁く。だが、ここで動けばそれこそ奴の思う壺だ。
「……というわけで、君には今日から、生徒会直属の『特別環境整備委員』になってもらう。私の目の届く場所で、その卓越した計算能力を学園のために使ってもらおうか。まずは、この過去五年間分の備品目録のデータ照合から始めてもらおう」
西園寺が、机の上に辞書ほどもある分厚いファイルの山をドスンと置いた。
名目は委員だが、実質は二十四時間の監視下に置かれたようなものだ。俺が少しでも異常な処理速度を見せれば、奴は即座に俺の正体を暴き立てるだろう。逆に、わざと遅くやれば「サボっている」としてさらに追及される。
俺は、ため息を内側に飲み込みながら、「分かりました……頑張ります」と、力なく微笑むしかなかった。
夜九時。
西園寺の執念深い視線に晒されながら、極限の精神的削り合い(もちろん、表面上はただの不器用な生徒を演じ続けながらだ)を終えた俺は、かつてないほどの疲労感を伴ってすみれ荘の玄関をくぐった。
「ただいま……」
リビングのドアを開けると、そこには、いつになく真剣な表情で俺の帰りを待っていた三人の姿があった。
「相沢くん! 遅かったじゃない、心配したのよ! 西園寺くんに何かされたの!?」
九条さんが真っ先に駆け寄ってきた。その瞳には、いつものズボラさではなく、純粋に俺を案じる色が浮かんでいる。
「……湊。お前がそんなに疲れた顔をしてるの、初めて見たぜ。あのメガネ会長、一体何をしてきやがったんだ?」
拓海がソファから身を乗り出し、栞もまたノートPCを閉じ、静かに俺を見つめていた。
「……ハッ。大したことはない。ただ、完璧なモブを目指すあまり、すべてのテストで平均点を取り続けたのが、あいつの統計学の網に引っかかっただけだ。今日から生徒会で、奴の監視を受けながら作業をすることになった」
俺がエプロンを手に取りながら言うと、リビングに衝撃が走った。
「嘘……!? あいつ、相沢くんのその超人染みたコントロール能力に気づいたの……!?」
「それは最悪のシナリオね。あの男の観察眼は、私たちの想像以上にシステム的で冷徹だわ」
三人が危機感を募らせる中、俺はキッチンへと向かい、冷蔵庫からいくつかの食材を取り出した。
西園寺との心理戦で、俺の脳は極度にブドウ糖を消費し、神経はささくれ立っている。そして、俺を心配して顔を曇らせているこの共犯者たちの空気も、このままにしておくわけにはいかない。
今夜必要なのは、これまでの優しく労るような料理ではない。
脳のストレスを強烈な刺激で吹き飛ばし、西園寺への反撃の意志を燃え上がらせるような、圧倒的な熱量を持った一皿だ。
「お前ら、暗い顔をするな。西園寺が俺のデータを暴いたところで、決定的な証拠は何一つない。明日からの奴の監視網なんて、俺が裏からいくらでもノイズを混ぜて無力化してやる。……それよりも飯だ。今夜は、脳を覚醒させる『特製・本格四川土鍋麻婆豆腐』を作る」
その言葉と共に、俺は中華鍋を強火にかけた。
麻婆豆腐は、スピードと火のコントロール、そして調味料の配合がすべてを決める、まさに一瞬の戦いだ。
まずは、絹ごし豆腐を大きめのサイコロ状に切り、塩を少量加えたお湯で下茹でする。こうすることで、豆腐の余分な水分が抜け、崩れにくくなると同時に、口に含んだときのプルプルとした極上の食感が生まれる。
次に、中華鍋に油を馴染ませ、牛の粗挽き肉を投入。じっくりと、肉の水分が完全に飛び、油が透明になってパチパチと音が鳴るまで炒めつける。この「肉をカリカリに炒める」工程こそが、旨味を凝縮させる最大の秘訣だ。
そこへ、みじん切りにしたニンニク、生姜、そして本場四川の豆板醤、豆鼓、甘みとコクを与える甜麺醤を間髪入れずに投入する。
——バチバチバチッ!!!
激しい音と共に、唐辛子と発酵調味料の香ばしくも刺激的な香りが、一気にキッチンからリビングへと爆風のように広がった。あまりの刺激に、九条さんが「くしゅんっ!」と小さくクシャミをする。
全体が濃厚な深紅のペースト状になったところで、鶏ガラスープを注ぎ入れ、下茹でした豆腐を静かに滑り込ませる。中火で数分煮込み、豆腐の芯までスープの旨味と辛味を染み込ませていく。
仕上げに、水溶き片栗粉を数回に分けて加え、絶妙なとろみをつける。鍋肌から特製の自家製辣油を回し入れ、強火で一気に焼き付けるようにして油をなじませる。
最後に、あらかじめ熱しておいた小ぶりの土鍋に移し替え、その表面へ、挽きたての花椒を、これでもかと贅沢に振りかけた。
——グツグツグツグツ……!!!
ダイニングテーブルの中央に置かれた土鍋は、火から下ろされているにもかかわらず、地獄の業火のように煮えくり返っていた。真っ赤な辣油の海に、純白の豆腐、そして表面を覆う漆黒の花椒。見るだけで脳が興奮するような、圧倒的なビジュアルだ。
「さあ、冷めないうちに白米の上に乗せてかき込め」
炊きたての銀シャリが入ったお椀を配ると、三人はすでにスプーンを握りしめ、ゴクリと唾を飲み込んでいた。
九条さんが、恐る恐るグツグツと震える麻婆豆腐をすくい、ご飯の上へとバウンドさせてから、口に運んだ。
瞬間、彼女の顔がカッと赤くなり、その直後に恍惚とした表情へと変わった。
「————っっっ!!! 辛いっ!! でも……美味しすぎるぅぅぅっ!!」
九条さんが、はふはふと熱い息を吐きながら、猛烈な勢いでスプーンを動かし始めた。
「お口に入れた瞬間に、豆板醤のコクのある辛さと、お肉のガツンとした旨味が広がるの! そのあとすぐに、花椒のビリビリとした痺れが舌を突き抜けていって……脳みそがシャキーンって覚醒していくみたい! 豆腐がとってもクリーミーで、この激しい辛さを優しく包み込んでくれるから、辛いのにスプーンが全然止まらないわ!」
「うおっ、これマジで覚醒するわ……! 湊、この痺れ、半端ないって!」
拓海も額から滝のような汗を流しながら、大盛り狂いのご飯をかき込んでいる。
「甜麺醤の奥深い甘みがあるから、ただ辛いだけじゃなくて、信じられないくらい濃厚なコクがある。体育祭の疲れも、西園寺へのイライラも、この辛さで全部汗と一緒に吹き飛んでいくぜ!」
「……見事な調和ね」
栞もまた、額に微かな汗を浮かべ、眼鏡を少しずらしながら麻婆豆腐を咀嚼していた。
「唐辛子の『麻』と、花椒の『辣』。二つの異なる刺激が、計算され尽くした比率で私の神経を攻撃してくるわ。西園寺くんの仕掛けてきたロジックが冷徹な氷だとするならば、この麻婆豆腐は、すべてを焼き尽くす圧倒的な炎。彼の張り巡らせた包囲網なんて、この熱量で消し炭にしてやればいいのだと、本能が叫んでいるわ」
三人が無心で汗をかき、真っ赤な土鍋の中身を白米と共に胃袋へと消し去っていく。その姿を見ているうちに、俺の脳内にあった西園寺への警戒心や、一日中モブを演じ続けた精神的な疲労は、綺麗さっぱりと消失していた。
俺は自分の分の麻婆豆腐をご飯にかけ、豪快に口に運んだ。
刺激的な痺れと、突き抜ける辛み。そして、それを支える圧倒的な肉と出汁の旨味。
脳の奥が、心地よく痺れていく。
西園寺玲王。お前は俺のデータを暴き、手元に置いて監視することを選択した。だが、それはお前にとって最大の致命傷になる。
懐に飛び込まれたのなら、むしろ好都合だ。お前の目の前で、お前の信じる『完璧な現実』を、俺のフィクシングでいくらでも歪めて見せてやる。お前が蜘蛛の巣を張るなら、俺はその中心に、さらに巨大な罠を仕掛けてやるまでだ。
「おい、三人とも。明日からの作戦を伝えるぞ」
俺が静かに言うと、汗だくの共犯者たちが、一斉に鋭い目で俺を見た。そこにはもう、西園寺への怯えなど微塵もなかった。
「西園寺の監視網を逆手に取り、生徒会の内部から奴のタイムスケジュールと関心を完全にコントロールする。羽鳥は俺が指示したタイミングで、生徒会のシステムに『偽の異常ログ』を流せ。拓海は、西園寺が動こうとする動線上に、常に別のトラブルを配置しろ。九条さんは……」
「分かってるわ、相沢くん。私は西園寺くんの前で、これまで以上に完璧で、無防備なアイドルを演じてみせる。あいつの視線を、私に釘付けにしてあげるわ」
九条さんが、辣油で少し赤くなった唇を不敵に吊り上げて笑った。
すみれ荘の夜は、どこまでも熱く、そして好戦的な熱気に満ちていた。
生徒会長という名の絶対的な権力者に対し、元・天才フィクサーと三人の怪物が仕掛ける、本格的な「学園ハッキング」の幕が上がる。俺たちの歪な平穏を守るための戦いは、この痺れるような麻婆豆腐の熱さと共に、さらなる深みへと突入していくのだった。




