静かな別荘が、包囲された
山奥の別荘での生活は、思いのほか快適だった。
「アルヴィン、朝ごはんできたわよ」
エリシアが作った朝食は妙に手が込んでいた。焼きたてのパン、野菜たっぷりのスープ、目玉焼き。
「すごいな、エリシア。料理上手いんだね」
「あら、ありがとう。アルヴィンのためなら、何でも——」
そこまで言いかけて、エリシアは口を噤んだ。眼鏡の奥の瞳が、少し潤んでいるように見える。
『……なんか、今の言い方、ちょっとドキッとしたな』
健太は内心で動揺しつつ、スープに口をつけた。
「ガルヴァンは?」
「山の麓で見張りよ。交代制で休んでもらってるわ」
そう言ってエリシアは窓の外を見た。深い森に囲まれた別荘。人里離れたこの場所なら、しばらくは安全なはずだった。
——そう、思っていた。
別荘に移ってから三日目の午後。
健太は縁側で本を読んでいた。エリシアは室内で何やら通信機器をいじっている。
『ひっそり暮らせるって、こういうことだよな……』
心地よい風が吹き抜ける。鳥のさえずりが聞こえる。
『このまま、ずっとこうやって——』
その時だった。
「アルヴィン!」
エリシアの鋭い声が響いた。
健太が振り返ると、エリシアが窓際に立ち、山の麓を睨んでいた。その表情は、これまで見たことがないほど険しい。
「どうしたの?」
「来た……!」
「え?」
エリシアが指差す方向を見る。
山道を、黒い車の列が登ってくるのが見えた。
一台、二台、三台——いや、もっとだ。十台以上はある。
『……嘘だろ』
「ガルヴァンから緊急信号が来てる。別荘の周囲、全方位から接近中……数十人規模」
エリシアの声が震えていた。怖れではない。怒りだ。
「新世界の使徒……!」
車が別荘の前に停まった。
次々とドアが開き、黒いスーツ姿の男たちが降りてくる。全員、サングラスをかけ、無表情だ。
『学校の時の黒覆面と同じ……いや、もっと組織的だ』
健太は後ずさりした。エリシアが前に出る。
「アルヴィン、私の後ろに」
「で、でも——」
「いいから!」
その時、黒いスーツの集団が左右に分かれた。
まるで道を作るように。
そして、一台の高級車から、一人の女性が降りてきた。
長い銀髪。完璧な化粧。スリットの入った深紅のドレス。歩くたびに裾が揺れ、白い脚線が覗く。
年齢は二十代後半だろうか。いや、もっと上かもしれない。妖艶で、知的で、圧倒的な存在感を放っている。
「……ようやく、会えましたわね」
女性は微笑んだ。
その笑顔は美しかったが、どこか危険な雰囲気を孕んでいた。
「生命再編師——いえ、アルヴィン様」
『……え?』
健太は硬直した。
女性はゆっくりと歩いてくる。エリシアが構えを取るが、女性は気にも留めない。
「お忘れですか? 私、セレスティアと申します」
セレスティア。
その名前に、健太は記憶を探った。
『……誰だっけ?』
「異世界で、あなたに命を救っていただきました」
セレスティアはそう言って、胸元に手を当てた。
「この心臓、あなたが動かしてくださったのですよ」
『……あ』
断片的に記憶が蘇る。
異世界。王国の魔法使い。不治の呪いに侵され、心臓が止まりかけていた女性。
『あの時の……?』
「覚えていてくださいましたか?」
セレスティアの瞳が潤む。
「嬉しい……本当に、嬉しいですわ」
『いや、正直ほとんど覚えてないんだけど……』
健太は口には出さなかった。出せなかった。
なぜなら、セレスティアがまっすぐこちらに歩いてきたからだ。
「待ちなさい!」
エリシアが制止しようとしたが、セレスティアはその手を軽く払いのけた。
魔法——いや、違う。異世界の力を現世でも使えるのか?
「エリシア様、お久しぶりですわ。聖騎士団副団長、お元気そうで何よりです」
「……セレスティア」
エリシアが苦々しげに呟く。
『知り合いなのか?』
「でも、今日は邪魔しないでくださいませ。私、ずっとアルヴィン様に会いたかったのですから」
セレスティアは健太の目の前まで来た。
至近距離。
高いヒールのおかげで、健太と目線がほぼ同じ高さだ。
『近い、近い!』
「アルヴィン様……」
セレスティアが手を伸ばす。
その手が、健太の頬に触れた。
『ちょ——』
「お変わりありませんね。優しい瞳……温かい手……」
セレスティアのもう片方の手が、健太の手を取る。
そして——
自分の胸元に当てた。
『えええええ!?』
「ここです。この心臓。あなたが呪いを解き、遺伝子を修復し、動かしてくださった」
セレスティアの胸の柔らかさが、健太の手のひらに伝わる。
ドクン、ドクンという鼓動。
『いや、だから、近い! しかも柔らか……って何考えてるんだ僕は!』
「今も、こうして動いています。あなたのおかげで」
セレスティアは健太の手を握ったまま、見つめてくる。
その瞳は、真剣で、切なくて——
『やばい、すごい美人だ……』
「アルヴィン様、私と一緒に来てくださいませんか?」
「……え?」
「新しい世界を、一緒に創りましょう」
セレスティアの声が、甘く囁く。
「あなたの力があれば、人類を進化させることができます。病気も、老いも、死も——すべてを克服できる」
『……新しい世界?』
「そうです。転生者が導く、完璧な世界。あなたが神となり、私たちがそれを支える」
健太は混乱していた。
セレスティアの言葉の意味が、まだ完全には理解できない。
ただ一つ、わかることがあった。
『この人、本気だ』
「アルヴィン、騙されないで!」
エリシアが叫んだ。
「その女は新世界の使徒の幹部よ! 転生者を使って世界を支配しようとしている過激派!」
セレスティアは振り返らずに微笑んだ。
「支配だなんて、聞こえが悪いですわ。私たちはただ、より良い世界を作りたいだけ」
「嘘を言うな!」
「嘘ではありませんわ。ねえ、アルヴィン様」
セレスティアは健太の手を強く握る。
「あなたは異世界で、どれだけの命を救いましたか? どれだけの人に感謝されましたか?」
「……それは」
「でも、『役立たず』と言われ続けた。戦場では誰も認めてくれなかった」
『……なんで、それを』
「私は知っています。あなたがどれほど苦しんでいたか。どれほど孤独だったか」
セレスティアの瞳が、潤む。
「だから、今度は違う。今度は、あなたが讃えられる世界を作りましょう」
「……僕は」
健太は言葉に詰まった。
確かに、異世界では辛かった。
「役立たず」と言われ続け、引きこもり、最後はフェンリルに殺された。
『でも……』
「アルヴィン様。お願いです」
セレスティアが、健太に額を寄せる。
『近い、近すぎる!』
「私と一緒に——」
「その手を離せ!」
突如、轟音が響いた。
別荘の裏手から、ガルヴァンが現れた。
手には——拳銃?
いや、違う。異世界の武器を現世で再現したものか。
「アルヴィン様から離れろ、セレスティア!」
ガルヴァンの声は、怒りに満ちていた。
セレスティアはゆっくりと健太から離れた。
「ガルヴァン様も、お久しぶりですわね」
「……貴様、よくもアルヴィン様に」
「何もしておりませんわ。ただ、お話をしていただけ」
セレスティアは優雅に微笑む。
そして、背後の黒スーツたちに目配せした。
黒スーツたちが一斉に動く。
別荘を、完全に包囲した。
「アルヴィン様。今ここで決断していただく必要はありません」
セレスティアが言う。
「でも、いずれ理解していただけると信じています」
「……何が言いたい?」
「私たちは、あなたを傷つけるつもりはありません。ただ、協力していただきたいだけ」
セレスティアはそう言って、手を広げた。
「さあ、どうぞ。逃げても構いませんわ。でも——」
セレスティアの表情が、一瞬だけ冷たくなった。
「次に会う時は、もっと……積極的に、お誘いさせていただきます」
その言葉と同時に、別荘の周囲から人影が現れた。
数十人——いや、百人近くいるかもしれない。
全員、黒スーツ。全員、無表情。
『……囲まれてる』
「エリシア、ガルヴァン」
健太は二人を見た。
「……逃げよう」
「でも、アルヴィン——」
「大丈夫。僕、まだ諦めてないから」
健太は自分でも驚くほど、冷静だった。
『ひっそり暮らしたい。その気持ちは変わらない』
「だから、逃げる。今は」
エリシアとガルヴァンが頷いた。
「わかったわ。裏口から——」
その時だった。
別荘の裏手から、また新しい人影が現れた。
だが、この人物は黒スーツではなかった。
黒いレザージャケット、引き締まった体。短く刈り上げた金髪。
女性——いや、女戦士と呼ぶべきか。
その女性は、圧倒的な戦闘の気配を纏っていた。
「セレスティア様、逃がすなとのご命令ですが——」
女性が、別荘の方を見た。
その瞬間、健太と目が合った。
女性の表情が、変わった。
驚愕——いや、歓喜。
「……アルヴィン様?」
『……え?』
女性が駆け寄ってくる。
すさまじい速度で。
エリシアが迎撃しようとしたが、女性はそれを軽々と躱した。
そして——
健太の目の前で、ぴたりと止まった。
「本当に……アルヴィン様……」
女性の瞳が、潤んでいる。
「ヴァルキリア……お前も来たのか」
セレスティアの声が、遠くから聞こえる。
ヴァルキリア。
またしても、聞き覚えのない名前だ。
『誰……?』
「アルヴィン様、覚えておいででしょうか。私、ヴァルキリアと申します」
ヴァルキリアが、深々と頭を下げた。
「異世界で、あなたに不治の病を治していただきました」
『……不治の病?』
記憶を探る。
異世界。傭兵団。死の病に侵された女戦士。
『……ああ、確か、筋肉が壊死していく病気で——』
「遺伝子異常による筋ジストロフィー様症状だったね。ジストロフィンをコードする遺伝子DMDの欠失変異。エクソン45から52の欠失パターンで、フレームシフトを引き起こし——」
健太は思わず呟いた。
ヴァルキリアの瞳が、さらに輝いた。
「そうです! まさにその通りです! あなたは私の遺伝子を読み取り、CRISPR-Cas9様の技術で修復し——」
「いや、あの時は相同組換えを利用して、正常なDMD遺伝子配列を——」
『って、何この会話!?』
健太は我に返った。
ヴァルキリアは感動したように、健太の手を握った。
「ああ、やはりアルヴィン様……! 間違いありません!」
そして——
ヴァルキリアは健太を抱きしめた。
『えええ!?』
「お会いしたかった……ずっと、ずっと……!」
ヴァルキリアの体は、鍛え抜かれた筋肉に覆われているはずなのに、不思議と柔らかかった。
そして、温かい。
『ちょ、近い! っていうか抱きつかれてる!?』
「アルヴィン様、私、あなたのためなら何でもします。戦います。守ります。何でも」
ヴァルキリアが健太の耳元で囁く。
『何でもって何!?』
「だから——お願いです。私と一緒に来てください」
「……ヴァルキリア」
健太は、できるだけ優しく言った。
「ごめん。僕、ひっそり暮らしたいんだ」
ヴァルキリアの動きが止まった。
「……ひっそり?」
「うん。目立ちたくないし、誰かを支配したいとも思わない。ただ、静かに暮らしたい」
ヴァルキリアは健太を離し、信じられないという表情で見つめた。
「でも、アルヴィン様……あなたは、世界を救える力を持っているのですよ?」
「それは、科学者の方が——」
「いいえ!」
ヴァルキリアが遮った。
「科学者には時間がかかります。でも、あなたは一瞬で遺伝子を読み、修復できる。それは奇跡なのです!」
『……奇跡、か』
健太は苦笑した。
「でも、僕には無理だよ。そんな大それたこと」
「なぜですか!?」
「だって、僕は——」
役立たず、だから。
その言葉を言いかけて、健太は口を噤んだ。
エリシアが、悲しそうな目で見ている。
ガルヴァンも、無言で俯いている。
『……やっぱり、僕は』
「アルヴィン様」
セレスティアの声が響いた。
「今日のところは、これで失礼します」
セレスティアが手を上げると、黒スーツたちが一斉に引き上げ始めた。
ヴァルキリアも、名残惜しそうに健太から離れた。
「でも、忘れないでくださいね」
セレスティアが微笑む。
「あなたは、多くの人に愛されている。多くの人に、必要とされている」
「……」
「そして、私たちは——あなたを、諦めませんわ」
セレスティアはそう言って、車に乗り込んだ。
ヴァルキリアも、最後にもう一度健太を見てから、車に乗った。
黒い車の列が、山を降りていく。
静寂が戻った。
エリシアが、健太の肩に手を置いた。
「大丈夫?」
「……うん」
健太は、自分の手を見た。
さっきまでセレスティアの胸に触れていた手。
ヴァルキリアに握られていた手。
『……なんで、みんなあんなに』
「アルヴィン」
ガルヴァンが言った。
「ここは、もう安全ではありません。移動しましょう」
「……そうだね」
健太は頷いた。
『ひっそり暮らしたいのに……』
別荘を後にしながら、健太はぼんやりと考えていた。
『なんで、こんなことに』
エリシアが、隣を歩きながら言った。
「アルヴィン。あなたは、本当に自分がどれだけすごいか、わかっていないのね」
「……え?」
「セレスティアも、ヴァルキリアも——みんな、あなたに命を救われた人たちよ」
「でも、それは、ちょっと遺伝子をいじっただけで——」
「『ちょっと』じゃないの!」
エリシアが声を荒げた。
「あなたは、不治の病を治した。呪いを解いた。死にかけた心臓を動かした」
「……」
「それがどれだけすごいことか、あなたはわかっていない」
エリシアの声が、震えていた。
「だから、みんな——あなたを慕うの」
健太は、何も言えなかった。
ただ、歩き続けた。
山道を降りながら、健太は思った。
『僕は、ただひっそり暮らしたいだけなのに』
でも——
セレスティアの瞳。
ヴァルキリアの涙。
エリシアの声。
『……みんな、本気なんだ』
健太は、深く息を吐いた。
『どうすればいいんだろう』
その答えは、まだ見つからなかった。
別荘から数キロ離れた場所。
黒い車の中で、セレスティアはワイングラスを傾けていた。
「どうでした? セレスティア様」
ヴァルキリアが尋ねる。
「完璧ですわ」
セレスティアが微笑む。
「間違いなく、本物のアルヴィン様」
「はい……私も、確信しました」
ヴァルキリアの頬が、ほんのり赤くなる。
「ああ、やはり……あの優しい瞳、温かい手……」
「ヴァルキリア、落ち着きなさい」
セレスティアが呆れたように言った。
「今日は接触が目的。拉致ではありませんわ」
「わかっております。でも——」
ヴァルキリアが窓の外を見た。
「あの方は、本当に『ひっそり暮らしたい』などと……」
「ええ。謙遜が過ぎますわね」
セレスティアがワイングラスを置く。
「だからこそ、私たちが導かなければ」
「はい」
「カイザー様にも報告しておきなさい。生命再編師は確保可能、と」
「了解しました」
車は、街へと向かっていく。
その中で、セレスティアは呟いた。
「アルヴィン様……もう少しお待ちくださいませ」
「必ず、あなたと共に——新しい世界を」




