逃げても逃げても、見つかっていた
別荘を離れてから三日。
健太、エリシア、ガルヴァンの三人は、都内のビジネスホテルに身を潜めていた。
「……ここなら、しばらくは大丈夫だと思うんだけど」
健太は窓の外を見ながら呟いた。
新宿の雑踏。行き交う人々。ネオンの光。
『人混みに紛れれば、見つからない……はず』
「アルヴィン」
エリシアが心配そうに声をかけてくる。
「大丈夫? 疲れてない?」
「うん、大丈夫」
健太は笑顔を作った。
でも、実際には疲れていた。
山を降りてから、ずっと移動を続けている。電車、バス、タクシー——乗り換えを繰り返して、ようやくここまで来た。
『でも、これで少しは……』
その時、ガルヴァンが部屋に入ってきた。
「アルヴィン様、エリシア様。食料を調達してきました」
「ありがとう、ガルヴァン」
コンビニの袋から、おにぎりやサンドイッチを取り出す。
三人で簡素な夕食を囲んだ。
「……なんか、修学旅行みたいだね」
健太がぽつりと言った。
エリシアがくすりと笑う。
「そうね。でも、もう少し楽しい方が良かったわ」
「同感だよ」
健太も笑った。
束の間の、平穏な時間。
『このまま、ずっとこうやって——』
——その願いは、翌日の昼には叶わないことがわかった。
翌日、午後一時。
健太は一人でホテルの近くのコンビニに向かっていた。
エリシアとガルヴァンは交代で休息を取っている。健太が「少し散歩したい」と言ったので、二人は渋々了承した。
『やっぱり、たまには一人になりたいよな……』
健太はコンビニで飲み物を買い、レジに向かった。
その時——
「いらっしゃいませ」
レジの店員が顔を上げた。
若い女性。黒髪のショートカット。整った顔立ち。
そして——
その瞳が、健太を見た瞬間、明らかに何かを認識した。
『……え?』
「……アルヴィン様?」
女性が、小さく呟いた。
健太は硬直した。
『なんで、この人が僕の名前を!?』
「やはり……間違いありません」
女性——いや、店員の姿をした誰か——が、微笑んだ。
「お久しぶりです。覚えておいででしょうか?」
「……誰?」
健太は警戒しながら尋ねた。
女性は少し悲しそうな表情を浮かべた。
「そうですよね。覚えていらっしゃらないでしょうね」
そう言って、女性は名札を外した。
「私、シャドウと申します」
『シャドウ……?』
「異世界では、暗殺者ギルドに所属しておりました」
シャドウが静かに言った。
「あなたに、呪いを解いていただきました」
『……呪い?』
健太は記憶を探った。
異世界。暗殺者。呪いで声が出なくなっていた女性——
『……ああ、そういえば』
「覚えていてくださいましたか?」
シャドウの瞳が、僅かに輝いた。
「嬉しいです」
「あ、いや、ごめん。正直あんまり——」
「構いません」
シャドウが遮った。
「覚えていなくても、私はあなたに感謝しています」
そう言って、シャドウは健太に近づいた。
レジカウンター越しに、至近距離。
『近い……!』
「アルヴィン様。お願いがあります」
「……何?」
「私と一緒に来てください」
またか、と健太は思った。
「……君も、新世界の使徒の?」
「はい」
シャドウは隠さずに答えた。
「セレスティア様、ヴァルキリア様と同じ組織です」
『やっぱり……』
「でも、ご安心ください。今日は拉致するつもりはありません」
「じゃあ、何?」
「ただ、お話を」
シャドウがレジから出てきた。
そして——
健太の手を取った。
『え、ちょ——』
「アルヴィン様。あなたは、本当に『ひっそり暮らしたい』のですか?」
シャドウの瞳が、真剣に健太を見つめる。
「……うん」
「なぜですか?」
「だって、僕は——」
健太は言いかけて、やめた。
『……また、同じことを言おうとしてる』
「あなたは、多くの命を救いました」
シャドウが続ける。
「私もその一人です」
「でも、それは——」
「『たいしたことない』と、おっしゃるのでしょう?」
シャドウが健太の言葉を先読みした。
「はい。でも、私にとっては、世界が変わるほどの出来事でした」
シャドウの手が、健太の手を強く握る。
「呪いで声を失い、暗殺者としての価値も失った私を、あなたは救ってくださった」
「……」
「だから、今度は私があなたを——」
その時、コンビニのドアが開いた。
「アルヴィン!」
エリシアだった。
息を切らしている。
「どうしたの、エリシア?」
「追いかけてきたのよ! あなた、やっぱり一人で外に出るなんて——」
エリシアがシャドウを見た。
その瞬間、表情が変わった。
「……シャドウ」
「エリシア様。お久しぶりです」
シャドウが会釈した。
「まさか、もう見つかったの!?」
「偶然ですわ。このコンビニで働いていただけです」
『偶然……?』
健太は疑った。
でも、シャドウの表情は穏やかだった。
「アルヴィン様、また会いましょう」
シャドウはそう言って、健太の手を離した。
「次は、もっとゆっくりお話ししたいですわ」
そして——
シャドウは健太の耳元に顔を寄せた。
『近っ!?』
「あなたを、影から守っています」
そう囁いて、シャドウは離れた。
「では、失礼します」
シャドウはレジに戻り、何事もなかったかのように次の客を迎えた。
エリシアが健太の腕を掴む。
「アルヴィン、戻るわよ」
「う、うん……」
健太はエリシアに引っ張られて、コンビニを出た。
『……影から守る、って?』
ホテルに戻る途中、エリシアが言った。
「アルヴィン、もう一人では外に出ないで」
「ごめん……」
「シャドウは危険よ。暗殺者だったのよ?」
「でも、悪い人には見えなかったけど……」
「それが罠かもしれないでしょう!」
エリシアの声が震えていた。
健太は、エリシアの横顔を見た。
眼鏡の奥の瞳が、潤んでいる。
『……心配してくれてるんだ』
「ごめん、エリシア。もう勝手なことしない」
「……本当に?」
「うん」
エリシアは少し安心したように、小さく頷いた。
「わかった。信じるわ」
二人はホテルに戻った。
ガルヴァンに報告すると、彼は即座に言った。
「すぐに移動しましょう。ここも安全ではありません」
「でも、どこに?」
「別の場所を探します」
またか、と健太は思った。
『逃げても逃げても、見つかる……』
その日の夜。
三人は新しいホテルに移動した。
今度は池袋。繁華街のど真ん中。
『ここなら……』
しかし、その希望も翌日には砕かれた。
翌朝。
健太が一階のロビーに降りると——
フロントにいた受付の女性が、健太を見て微笑んだ。
「おはようございます、アルヴィン様」
健太は凍りついた。
『……嘘だろ』
「お忘れですか? 私、フローラと申します」
受付の女性——フローラ——が優雅に言った。
「異世界では、宮廷医師をしておりました」
『また……!?』
「あなたから、多くの医療技術を学ばせていただきました」
フローラが健太に近づく。
その仕草は、優雅で、母性的で——
『やばい、この人も美人だ……』
「お久しぶりです、先生」
「せ、先生……?」
「ええ。あなたは私の師匠ですから」
フローラが健太の手を取る。
『また手を!?』
「先生、お元気そうで何よりです」
フローラの手が、健太の手首に触れる。
まるで脈を測るように。
「……心拍数、少し高いですわね」
「そ、そりゃ驚いてるから……」
「ふふ、そうですわね」
フローラが微笑む。
「でも、健康そうで安心しました」
そう言って、フローラは健太の手を離した。
「先生。一つ、お願いがあります」
「……何?」
「定期的に、健康診断をさせてください」
「え?」
「あなたの体が心配なのです」
フローラの瞳が、真剣になった。
「転生後の体は、異世界の記憶を持つ脳との整合性に問題が出る場合があります」
『……そうなの?』
「ええ。ですから、私が定期的にチェックを——」
「そこまでだ」
ガルヴァンの声が響いた。
階段から降りてきたガルヴァンが、フローラを睨んでいる。
「フローラ。貴様、どの組織の者だ」
「まあ、ガルヴァン様。お久しぶりです」
フローラが会釈する。
「私は、どの組織にも属しておりませんわ」
「嘘を言うな」
「本当です。ただ、アルヴィン様の健康を心配しているだけ」
フローラが健太を見た。
「先生、また会いましょう」
そう言って、フローラはフロントに戻った。
ガルヴァンが健太の肩を掴む。
「アルヴィン様、すぐに荷物をまとめて——」
「わかってる」
健太は疲れた声で言った。
『……また、逃げるのか』
三人は急いで荷物をまとめ、ホテルを出た。
次は渋谷。
その次は品川。
その次は上野。
そして——
一週間後。
健太たちは、もう五回も移動していた。
そして、その度に——
見つかった。
カフェの店員。
書店の店員。
公園の清掃員。
駅の駅員。
レストランのウェイトレス。
全員、異世界からの転生者。
全員、健太に命を救われた人々。
全員、健太のことを「アルヴィン様」と呼んだ。
健太はホテルのベッドに倒れ込んだ。
「……もう、無理」
エリシアが心配そうに覗き込む。
「アルヴィン……」
「なんで、こんなに見つかるの?」
健太の声が、弱々しい。
「まるで、監視されてるみたいだ」
ガルヴァンが窓の外を見ながら言った。
「おそらく、そうです」
「……え?」
「転生者のネットワーク。異世界からの記憶を持つ者たちは、互いに情報を共有しています」
ガルヴァンが振り返った。
「新世界の使徒は、そのネットワークを利用しているのでしょう」
「じゃあ、逃げても無駄ってこと?」
「……おそらく」
健太は天井を見つめた。
『ひっそり暮らしたい……』
その願いは、もう叶わないのかもしれない。
その時、部屋の電話が鳴った。
三人が顔を見合わせる。
ガルヴァンが慎重に受話器を取った。
「……はい」
電話の向こうから、女性の声が聞こえた。
「ガルヴァン様、お久しぶりですわ」
ガルヴァンの表情が険しくなった。
「……セレスティア」
健太とエリシアが驚いて立ち上がった。
「どうやって、この番号を——」
「簡単ですわ。私たち、どこにでもいますから」
セレスティアの声が、優雅に響く。
「アルヴィン様はいらっしゃいますか?」
「……何の用だ」
「お話ししたいだけですわ。代わっていただけませんか?」
ガルヴァンは受話器を健太に渡した。
健太は恐る恐る受話器を取る。
「……もしもし」
「アルヴィン様、お疲れ様です」
セレスティアの声が、甘く囁く。
「一週間、楽しくお過ごしでしたか?」
「……楽しくなんかない」
「そうでしょうね。逃げ続けるのは、疲れるでしょう」
セレスティアが笑った。
「だから、提案があります」
「……何?」
「逃げるのを、やめませんか?」
健太は黙った。
セレスティアが続ける。
「あなたがどこに行っても、私たちは見つけます。日本中、いえ、世界中どこへ行っても」
「……」
「ならば、こちらから会いに来た方が、楽だと思いませんか?」
「会いに来る……?」
「ええ。明後日の午後三時。新宿の——」
セレスティアが場所を告げた。
「そこで、お待ちしています」
「断ったら?」
「構いませんわ。でも、あなたの逃亡生活は続きます」
セレスティアの声が、少し冷たくなった。
「いつまで、エリシア様やガルヴァン様に迷惑をかけ続けるおつもりですか?」
『……っ』
「それに、あなたを慕う人々も、心配していますわ。シャドウも、フローラも——みんな、あなたに会いたがっている」
「……」
「だから、一度、ちゃんとお話ししましょう。ね?」
健太は深呼吸した。
「……わかった。行く」
「まあ、本当に?」
セレスティアが嬉しそうに言った。
「ありがとうございます、アルヴィン様」
「でも、条件がある」
「何でしょう?」
「エリシアとガルヴァンも一緒に行く」
「構いませんわ」
「それと——」
健太は言った。
「話だけ。協力するとは約束しない」
「わかっていますわ。無理強いはしません」
セレスティアが優雅に笑った。
「では、明後日、お待ちしております」
電話が切れた。
健太は受話器を置き、二人を見た。
「……行ってくる」
「アルヴィン!」
エリシアが叫んだ。
「危険よ! 罠かもしれない!」
「わかってる。でも——」
健太は窓の外を見た。
「このまま逃げ続けるのも、限界だ」
「……」
「それに」
健太は二人を見た。
「君たちに、これ以上迷惑かけたくない」
エリシアの瞳が、潤んだ。
「迷惑だなんて……私は、アルヴィンを守りたいだけ……」
「ありがとう、エリシア」
健太は微笑んだ。
「でも、一度、ちゃんと話してみる」
ガルヴァンが言った。
「では、私たちも同行します」
「……うん。頼む」
三人は顔を見合わせた。
明後日——
新世界の使徒との、正式な対面。
健太は、深く息を吐いた。
『……ひっそり暮らしたかったのに』
でも、もう後戻りはできない。
その夜。
別の場所で、セレスティアは電話を切り、微笑んだ。
「どうでした?」
ヴァルキリアが尋ねる。
「完璧ですわ」
セレスティアがワイングラスを傾ける。
「アルヴィン様、来てくださるそうよ」
「本当ですか!?」
ヴァルキリアの瞳が輝いた。
「ええ。明後日、会える」
セレスティアが窓の外を見た。
「シャドウ、フローラ、そして——他の皆も呼びなさい」
「はい」
「アルヴィン様に、私たちの想いを伝えましょう」
セレスティアの瞳が、妖しく光った。
「そして——新しい世界への第一歩を」




