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昭和20年の大田村外郭企業としての仕事成果を発表することとして村の主だった有力者を集めた日はあいにく肌寒い雪がちらつく日であった。もともと紀州和歌山は温暖で12月といっても気温は6度前後で水たまりであっても氷など張ることがない日々が続いていたから、皆の出足はそれ程良くないと思っていたが。
が、この日は偶々寒かったにも拘らず予定していた有力者はほぼ全員が集まっていた。何がそんなに関心を呼んだのだろうか。
一番は無条件降伏という未曽有の事態による先行きの心配が挙げられるのだろう。
実行性は乏しかったが、大規模地主の農地解放の政策が実施され、インフレが止まることもなく進行する状況は俺が最初に村の主だったメンバーに話していた内容通り進んでいったことや暫定日本政府が恐れているGHQから大田村と大田村企業が厚い信頼を勝ち得ている事に対して皆驚きを持って、それを評価していた。
さらに村の外郭団体として作った企業への出資を同意して資金提供して貰った出資者に対する事業報告があった。そして、それらの事業が驚くほど好調に推移して、アメリカ堺基地の進駐軍からの絶賛の応援を得ている状態に村民の誰もが驚いている事。
戦争帰還者を含め外地からの縁故者の村への帰還が住む所や食糧、働く場所の確保など他の地域では中央政府まかせであり、極めて難しい問題であったが大田村に関しては、食と住と働き先が用意され驚くほど問題なく処理できていたこと。
村の外郭団体の利益を確保しながら住民に必要なものを外郭団体を中心として自らが作り出し、外郭団体内で柔軟に労働力を移しながら極めて公平に生産物を分配している。ある人から見れば共産主義の村ではないかと邪推できるほどかもしれない。実際、共産主義的手法だ。限られた在るものに対して極限まで働きを求めようとする場合、全てを集中させていくつもの問題解決の答えを出し、現実的最高の成果を求めようと努力することが新たな力を生み出してゆく手法を用いている。
混乱の時代においては物事の全てが錯綜としてしまい、脳梗塞を起こした人体のように、必要な指令のないままに人体機能が朽ちていく状態に陥りやすい。停滞している物資や生産が必要な物資を的確に把握して、必要な量を確保していく為のいち早い体制を整えて未来への正しい道を通していくものが大道となる。横道にそれた。




