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1947年8月15日(金曜日) 夕方にかけて降ったこの月最初の雨はあっという間にあがるにわか雨だったせいで、高温に熱せられていたニューヨークの街は多少の気温低下とムッとするほどの水蒸気の湿気で、アンソニアホテルのドアマンの先導で空調のあるホテル内から一歩外に顔を出した途端に、何とも言えない匂いが鼻を突いた。
そのまま、ホテルのひさしの下に停められた大きな背の高い10人乗り以上の広さを持つ黄色いチェッカーキャブ(タクシー)の後部座席へ頭を傾けないまま乗り込んだ。松川さん、俺、メイベルと順に乗り込み次に前側の座席についている補助シートに青木社長とマリアさんが向かい合う形で座った。
「アッパー・ウェスト・サイドのコロンビア大学手前の106丁目のメソジスト教会辺りまで!」
そう青木社長はドライバーに声を掛けるとイタリア系のような感じの男が
「アムステルダム・アベニューを通ってもいいですかい?」
と日系人であることが分かったらしく、訛りの入った英語で聞いて来た。ブロードウェイ通りの混雑を避けるために早めに道を曲がりたいらしい。
「それでお願いします。」と青木社長。
このチェッカーキャブ(タクシー)の室内は広い、俺の背もたれと青木社長の背もたれにしているシートは1m20ほどあり、背もたれにもたれていると狭い感覚がしないのだ。後部の座席シート幅も1m50はありメイベルがくっついてこなければ十分ゆったりと座っている事かできる。
何故こんなに無駄に広い後部座席だけで5人も乗ってゆったりできる構造になっているのか不思議ではあったのだが、後になってこの様なタクシーの構造にしなければならないというニューヨーク市の法律によって決められた構想であったと聞いて驚く。
チェッカーキャブはブロードウェイ通りを北に進んで直ぐに混雑を避けるためにアムステルダム・アヴェニューに道を変えてコロンビア大学方面に向かって行く。10分もかからずに106丁目のメソジスト教会が見え、降ろしてもらう事に。
チップを入れて50セント(約1000円)のタクシー行であった。
チェッカーキャブを下りた途端に、何やら懐かしい匂いが漂ってきた。コロンビア大学に続く坂道の106丁目から108丁目までの地区は大戦中の収容所を逃れるために、規制のないニューヨークへ避難してきた日系2世の人たちの避難先として、日系メソジスト教会の青杉牧師を頼ってきた人を中心に集まった場所であった。
戦後も、まだ西海岸地区よりは人種差別が酷くない地域としてニューヨークを目指してきた日系人が頼った地域になったため現在ではニューヨークに日系人が5000人ほどのアメリカ第三位の日系人の住む町となっていた。ただなかなか職にありつけないというか、アメリカ人の富裕家庭のメイドや執事の下に付く従者や用務員的庭師など以外は、住むことを同意する大家さんが見つからないために下宿先が偏ってしまう傾向が出来て、この地域が日系人街区となった背景が出来上がった。だからニューヨークにはリトルトーキョーが出来なかったのだ。もっとも、日系人が集まれば日本の味が恋しくなってそれに応じた食べ物屋さんも出来る。そういった夕餉に使われる醤油の匂いが微かに漏れ出して来る地域が「梅干し地区」なのであった。




