暗転
遅くなりました。
普通の日常とは、多分こういうことを言うんだろう。
アランは木の上に寝っ転がり、青空を見上げた。
夏の風が通り過ぎ、あっという間に長期休暇を目前にしていた。
「あ、いたいた。」
木の下から声が聞こえ、アランは葉の隙間から彼を覗く。
その彼は軽い身のこなしでアランの隣に座った。
「はい、お腹空いただろう?」
「ん。」
差し出されたパンをそのまま頬張る。
もぐもぐと口を動かすアランを見て、自分の手にある齧られたパンを見て、彼は呆けたあと、笑った。
「ははっ。そうか、そんなにお腹が空いていたのかい?」
なら、もっと食べるといい。
彼はそう言って、懐からさらにパンを取り出す。
その様子を見ていたアランは、少し慌てた。
無限に出てくるパンに驚いたからだ。
「ルド、なんだその量。どこからそんなに…」
ルドウィグは意地悪く笑った。
「アランが教えてくれた闇魔法の応用だよ。ここと食堂の空間を繋いでいるんだ。で、光魔法で光の反射を調節して、相手からは見えないようにしているんだよ。」
さらりと言ってのけたが、もうこれは学生としての知識・技量を大きく超えている。
アランの技術がルドウィグに共有され、彼はそれを使いこなしていた。
「…流石というか、なんというか。」
アランは呆れたように息を吐くと、先ほどと同じようにルドウィグの手からパンを頬張った。
2人の間に沈黙が流れる。
けれどそれは居心地の悪いものではなく、むしろ丁度良い心地よさを孕んでいた。
木々の間を風が吹き抜け、緑の葉を揺らした。
葉の隙間から覗く青空は明るく、思わず目を細める。
どこか遠くで蝉が鳴き、燦々とした太陽が地面を照らす。
梅雨が明けたからりとした暑さは夏らしい。
そんな穏やかな昼に、悲鳴が響く。
それは喉の奥からかろうじて搾り出されかのような、それでいて恐怖を帯びた声だった。
その声を聞いたアランが木から飛び降りる。
ルドウィグもそれに続いた。
悲鳴の聞こえる方へ駆けていく。
薔薇の庭園を抜け、魔力でその気配を探る。
角を曲がり、中庭へと急ぐ。
そこにあったのは、黒い魔法陣。
禍々しい魔力を放ち、飲み込もうとするそれには嫌悪感しか抱かない。
そして、それに引き摺り込まれる女子生徒がいた。
涙を浮かべて、必死に出ようとしているが、彼女がもがけばもがくほどズブズブと沈んでいく。
底なし沼のような果てしない底は、一度入ったら二度と生きては帰ってこれないだろう。
「っ!」
魔法陣の近くには、ユーレの第一王子がいる。
彼は状況を整理しているかのように周りを見渡すと、飲み込まれかけている女子生徒に手を伸ばした。
彼諸共引き摺り込まれる可能性があるが、一国の王子が女性を見放すなど、男の風上にも置けない。
周りを見ていたので術者を探していたのだろうが、ここに魔力の残滓はない。
そして、第一王子は魔法陣の解読に入った。
魔法陣を解除するつもりらしい。
第一王子の周囲の魔力が膨張し、魔法陣を取り込んでいく。
だが、違う。
あれは、魔法ではない。
魔術。
彼の手には余る。
その証拠に、彼の魔力が吸われ、その美しい顔には苦痛の色が見える。
「ルド。君は女子生徒を。魔法陣は私がなんとかする。」
「わかった。頼んだよ。」
魔法陣に向かって光属性の魔法を放つ。
膜のように魔法陣にかぶさり、浄化を試みたが、そう簡単にいくわけがない。
「この魔術は黒魔術だ!単なる光魔法じゃ通用しない!」
第一王子が駆けつけたルドウィグの隣で叫んだ。
「………そうなのですね、感謝いたします。」
最大質力で光魔法を形成する。
直径十メートルほどの魔法陣が顕現した。
それは、光魔術。
『数多なる星を照らし、導く其よ。』
言語ではない言葉を発する。
『我にその御心の慈悲を。』
魔力がごっそりと抜かれる感覚がした。
指先が冷たくなっていく。
瞬間、周囲が光に包まれる。
黒魔術が浄化され、黒い霧となって天へと昇っていった。
女子生徒は涙を浮かべてうずくまっている。
ルドウィグは心配そうに様子を伺っていた。
第一王子は、ほっとしたように息をつき、次には厳しい顔になる。
あれは何か、心当たりがあるのだろう。
それを聞き出すのが最善だが、彼も確信していない以上、こちらから干渉するのはよろしくない。
お互いが確信を持った上で話した方が道筋が見えるだろう。
ルドウィグはこちらに目線を送る。
無事な姿を確認して気が抜けたからか、視界が白くなっていく。
…魔力切れか。
ルドウィグが目を丸くして、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。
…迷惑をかけてしまうな。
大丈夫だと伝えようと思ったが、それを言葉にできることはなかった。
視界が暗転する。
最後に見えたのは、月の色。
背に添えられた温かな手は、ルドウィグのものだろうか。
それを確認する術は、僕にはない。




