三
数日後、次郎兵衛は、秀家と共に大坂城へと参上した。
淀の方は、幼い秀頼を傍らに置きながら、次郎兵衛たちの報告を、鋭い眼差しで聞いていた。
「関白の位が、九条の手に渡ろうとしている、と申すか」
「左様にございます。家康殿が、朝廷に急ぎ働きかけておられる由」
秀家の言葉に、淀の方の表情が、みるみる険しくなった。
「太閤殿下が築かれた、豊臣家の家格そのものを、なきものにしようという魂胆か」
「淀の方様。それがしより、一言、申し上げてもよろしいでしょうか」
次郎兵衛は、深く頭を垂れながら、口を開いた。
「畏れながら、今すぐ秀頼様が関白に就かれるのは、御年からしても、難しゅうございます。ですが、いずれ秀頼様にお返しいただく含みを持たせた上で、近衛家に、当面の間、関白位をお預けする――そのような形に持ち込めれば、豊臣家の家格を守りつつ、時を稼ぐことができようかと存じます」
淀の方は、しばし次郎兵衛を見つめた後、静かに問うた。
「そなた、名は」
「宇喜多家家臣、中村次郎兵衛にございます」
「中村、か。そなたの申すこと、一理あるように思う。だが……近衛家が、素直にそれを受け入れるかどうか」
「それがしにも、確たることは申し上げられませぬ。ですが、動かねば、九条家への話が、既に固まってしまいましょう」
淀の方は、深く息を吐いた後、幼い秀頼の肩に、そっと手を置いた。
「秀頼。そなたの行く末を、この母は、何としても守らねばならぬ」
幼い秀頼は、事の重大さをまだ十分には理解できていない様子だったが、それでも、母の手の温もりに、小さく頷いた。
次郎兵衛は、その光景を見つめながら、静かに拳を握った。
(この子のためにも――)
史実にはなかった、新しい天下の形。それは、戦場だけでなく、朝廷という、次郎兵衛がこれまで足を踏み入れたことのない領域でも、勝ち取らねばならない戦いだった。
大坂城の空に、初冬の冷たい風が、静かに吹き抜けていった。
この章で書きたかったのは、次郎兵衛の武器が、ここでも変わらないという点です。近衛家という「中継ぎ」を立て、いずれ秀頼に関白位を返すという含みを持たせる——これは、第三章で岡越前守に新田開発案を示したときと同じ、「対立の構造そのものを変える」という発想の延長線上にあります。相手を打ち負かすのではなく、双方が losing しない形を設計する、次郎兵衛の一貫した戦い方です。
淀の方に「そなた、名は」と問われ、「中村次郎兵衛にございます」と答える場面は、彼がこれまで陰で動かしてきた歴史の表舞台に、初めて自分の名前で登場する瞬間として書きました。豪姫、達安、三成と積み重ねてきた信頼が、ここで淀の方という、これまで直接関わってこなかった人物にまで届き始めています。
「この子のためにも」という次郎兵衛の内心には、これまでの政治的な計算とは少し違う、幼い秀頼という一人の子供への、純粋な思いやりが滲んでいます。次の第十八章「二つの糸」では、この関白位を巡る攻防が、近衛・一条という二つの公家をめぐる、より具体的な駆け引きへと展開していきます。




