第二十七話 「扇は、もう要りませんわ」
二週間は、思ったより長かった。
長かった、と気づいたのは——十日目だった。
それまでは、忙しかった。
オーステン侯爵案の精査が続いていて、王宮への出仕も続いていて、エヴァの件の後処理もあった。
セレストとルーカスの話も、少しずつ動いていた。
十日目に、ふと気づいた。
あと四日だ、と思っていた。
それを思ったとき——自分が、日数を数えていたことに気づいた。
「お嬢様」
十一日目の朝、リゼットが言った。
「白い薔薇を、新しくしましょうか」
玄関の薔薇は、三日前から終わりかけていた。
「……そうですね」
「辺境伯から、次の分が届いています。
昨日の夕方に」
「届いていたのですか」
「はい。戻る前に手配していったようで」
私は少し考えた。
「戻る前に」
「はい。辺境を出る前に、手配していったのだと思います」
カイが辺境を出たのは、十三日前だ。
薔薇が届いたのは、昨日。
つまり、発つ前に——ここの薔薇が終わる時期を計算して、手配していった。
「……準備がいいですね」
「さようでございますか」
リゼットが、少しだけ——何かを堪えている顔をした。
「新しく飾りましょうか」
「お願いします」
リゼットが動いた。
私は窓の外を見た。
日数を数えていた。
薔薇の時期を計算して手配していった人がいる。
それだけのことだ、と思った。
でも——少し、口元が動いた。
十四日目の午後、馬車が玄関に来た。
私は書斎にいた。
リゼットが「辺境伯がお戻りです」と言いに来た時——私はすでに、廊下にいた。
「……いつ出ましたか」
「今です」
「では、まだ玄関に」
「はい」
私は歩いた。
急がなかった。
急いでいないつもりだった。
玄関の扉を開けた。
カイが、石畳の上に立っていた。
少し埃っぽい旅装で。
でも、同じ顔をしていた。
「間に合いましたか」
カイが、言った。
「来月の件は、まだです」
「では、間に合いました」
私は、カイを見た。
「お帰りなさい」
「ただいま帰りました」
カイが、玄関の新しい薔薇を見た。
「届いていましたか」
「はい。昨日」
「よかった」
「発つ前に手配していたのですか」
「はい。間に合うように計算しました」
「……準備がいいですね」
「アリシアに習いました」
私は少し黙った。
「待っていてくれたのですか」
カイが、静かに聞いた。
「……少しだけ」
「そうですか」
カイが、また口元を動かした。
「十四日分の、少しだけ」
「そんなに数えていません」
「そうですか」
カイが、一歩近づいた。
「薔薇の時期を計算して手配するくらいには、数えていました」
「……それは、あなたが数えていたのです」
「お互い様ですね」
私は、少し黙った。
お互い様。
そうかもしれない。
応接室に入って、お茶が出て、カイが旅の話をした。
辺境の問題は、思ったより複雑だったが、副官が優秀だったので片付いた。
帰り道で、少し寄り道した場所がある。
「寄り道ですか」
「はい。辺境とコーデル王国の境近くに、以前から気になっていた場所があって」
「どういう場所ですか」
「交易路の分岐点です。人が増えている」
「増えているのは、いいことではないのですか」
「普通ならそうです。ただ——増え方が、少し変だった」
私は少し考えた。
「どういう変さですか」
「交易ではなく、別の目的で動いている人間が混じっているような」
「……それは、どういう意味ですか」
「まだわかりません」
カイが、カップを置いた。
「ただ、副官に引き続き調べさせています。
何かわかれば、またお話しします」
「わかりました」
私は、その言葉を頭の中に置いた。
コーデル王国の方向から、何か。
今は、わからない。
わからないものは、急いで判断しない。
今日は、まだ今日の話をしていていい。
「アリシア」
カイが、少し前に身を乗り出した。
「はい」
「一つ、聞いてよいですか」
「どうぞ」
「扇を——持っていませんね。今日も」
「はい」
「いつから、持っていないのですか」
私は少し考えた。
「王宮に出仕し始めた日から」
「なぜ」
「持っていかなかったから、です」
「なぜ、持っていかなかったのですか」
私は、カイを見た。
「いつか、そう決めたのですか。それとも、気づいたらそうなっていましたか」
窓の外で、薔薇が揺れていた。
新しい白い薔薇と、名前のわからない小さな花が、並んでいる。
「気づいたら、そうなっていました」
私は答えた。
「ある日、扇立てに手が伸びて——三秒考えて、やめた。
それからは、考えなくなりました」
「何を考えて、やめたのですか」
「……要らないと思いました」
カイが、静かに聞いていた。
「隠す必要がなくなっていたので」
「何を隠していたのですか」
「色々と」
「たとえば」
私は少し間を置いた。
「顔が熱くなること」
「たとえば」
「指先が動くこと」
「たとえば」
「……待っていること」
カイが、また口元を動かした。
「扇は、もう要りませんか」
「はい」
私は、静かに答えた。
「扇は、もう要りませんわ」
それだけだった。
カイが何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
応接室に、静けさが戻った。
薔薇が、また揺れた。
十四日間、数えていた。
準備をしていたわけではない。
ただ、数えていた。
そういうことが——今は、できる。
「アリシア」
カイが、また呼んだ。
「はい」
「来月の件が終わったら」
「はい」
「少し、二人でどこかへ行けますか」
私は少し考えた。
「……どこに、ですか」
「ヴァルナー領へ」
「辺境ですか」
「はい。十年前に、見せられなかったものがあるので」
十年前。
九歳の私が、庭にいた日。
カイが伝えに来て、会えなかった日。
「見せられなかったもの、とは」
「行ってから、話します」
「教えてくれないのですか」
「楽しみを、一つ残しておきたいので」
私は、少し黙った。
「……考えます」
「いつ頃、お返事いただけますか」
「来月の件が終わってから」
「わかりました」
カイが、椅子に座り直した。
「では、対案の仕上げの話をしましょうか」
「はい」
お茶が、また出てきた。
リゼットが、今日は音を立てて置いた。
わざと、だと思う。
聞いていた、という合図だ。
私は、聞こえていないふりをした。
窓の外の薔薇は、今日も白い。
名前のわからない花は、まだそこにある。
扇は、要らない。
そう決めたのは——正確にはいつだったか、もうわからない。
でも、今日も要らなかった。
それだけで、十分だった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
第三章、完結です。
「扇は、もう要りませんわ」
アリシアがそう言いました。
隠す必要がなくなったから、と。
カイが戻ってきました。
二週間分の薔薇を、発つ前に手配していました。
お互い様、でした。
来月、対案が正式に決まります。
その後、ヴァルナー領へ行く話が出ました。
十年前に見せられなかったものを、見せてもらいに。
そして——辺境の外で、少し不穏な動きがあるようです。
それは、また別の話になります。
第一章から読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
ブックマークと評価をいただけますと、第四章を書く力になります。
またお会いしましょう。
アリシアの話は、まだ続きます。




