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婚約破棄してくれて、ありがとう。準備は三ヶ月前から整っていました  作者: 銀月ソフィ


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第十八話 「玄関を出たら、聞いてもいいですか」

 廊下は、本当に長かった。


 王宮の廊下というものは、どうしてこんなに長いのだろうと思いながら歩いた。

 設計した人間は、歩く人のことを考えなかったのかもしれない。

 あるいは——考えた上で、長くした。


 どちらにしても、今日は。

 少しだけ、感謝した。


 セレストは、少し先を歩いていた。

 私たちの歩調が落ちていることに気づいているはずなのに、振り返らない。

 気を遣っている。


 この令嬢は——思ったより、ずっと気が利く。


「カイ」


 私は、歩きながら言った。


「はい」


「セレスト様に、礼を言いましたか」


「まだです」


「言いなさい」


「はい」


 カイが、少し歩調を上げた。

 セレストに近づいて、何か言った。


 セレストが、振り返った。

 何か答えた。

 その顔が——少しだけ、柔らかかった。


 カイが戻ってきた。


「何と言いましたか」


「お礼を言ったら、『私も助かりました』とおっしゃっていました」


「そうですか」


 廊下の先に、玄関が見えてきた。


 大きな扉が、光を受けて輝いている。


 私は少し、歩くのを遅くした。


 カイも、合わせた。



 セレストが、玄関の手前で立ち止まった。


 振り返って、私を見た。


「アリシア様」


「はい」


「ありがとうございました」


「こちらこそ」


「今後も——よろしくお願いします」


 セレストの声は、真っ直ぐだった。

 お世辞でも、社交辞令でもない。

 ただ、事実として言っている。


「ええ」


 私は答えた。


「よろしくお願いします、セレスト様」


 セレストが、一礼した。

 それから、カイにも礼をして——先に玄関を出た。


 扉が閉まる。


 廊下に、私とカイだけが残った。


「行きましょう」


 カイが言った。


「……ええ」


 玄関に向かって、歩いた。


 最後の数歩。


 扉に手がかかった。


 開いた。



 外の光が、差し込んできた。


 午後の光だ。

 謁見の間に入ったときより、少し傾いている。

 思ったより、時間がたっていた。


 私は、玄関の外に一歩踏み出した。


 カイも、横に並んだ。


「アリシア」


「はい」


「では、聞いてもよいですか」


 私は、前を向いたまま答えた。


「どうぞ」


 カイが、少し間を置いた。


「次に会うときも——扇を、持ってこないでください」


 風が吹いた。


 王宮の庭の木が、さわさわと揺れた。


 私は、カイを見た。


 カイは、真っ直ぐに、こちらを見ていた。


「……それは、どういう意味ですか」


「そのままの意味です」


「扇を持ってくるかどうかは、私が決めます」


「はい」


「あなたが指定することではありません」


「はい」


「なのに、なぜ言うのですか」


 カイが、少しだけ——口元を動かした。


「持ってこない方が、よく見えるので」


 私は、少し黙った。


 よく見える。


「……何が、ですか」


「顔が」


 沈黙。


「指先が動いているときも」


 沈黙。


「笑うときも」


 私は、前を向いた。


 玄関の前の石畳が、午後の光を受けている。


 顔が——少し熱かった。

 今日は、扇を持っていない。

 持ってきていない。

 意識して、持ってこなかった。


 それをカイは、知っている。


「……カイ」


「はい」


「それは、どういう意図で言っているか、わかっていますか」


「はい」


「わかった上で言っているのですか」


「はい」


 また、風が吹いた。


 私は、もう一度カイを見た。


 カイは、さっきと同じ顔をしていた。

 真っ直ぐで、静かで——でも、少しだけ。


 目の奥が、温かかった。


「……次に会うときのことは」


 私は、少し間を置いて言った。


「次に会うときに、考えます」


「はい」


「今日は、それだけですわ」


「十分です」


 カイが、一歩下がった。


「では、馬車の手配をしてきます。少しお待ちください」


 カイが、石畳を歩いていく。


 私は、その背中を見ていた。


 十年前に、離れた背中。

 今日は——また来る。



 石畳の端に、白い花が一輪落ちていた。


 薔薇ではない。

 名前はわからない、小さな花だ。


 誰かが落としたのか、風で飛んできたのか。


 私はしゃがんで、それを拾った。


 手のひらに乗せてみると——思ったより、軽かった。


 そういうものだ、と思った。


 思ったより軽いものが、気づけば手の中にある。

 それが——今日一日の、全体的な感想かもしれない。



 屋敷に戻ると、リゼットが玄関に立っていた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま戻りました」


「いかがでしたか」


「終わりました」


「そうですか」


 リゼットが、少し間を置いた。


「辺境伯は」


「手配があって、王宮に残りました」


「そうでございますか」


 また、間。


「お嬢様」


「なんですか」


「お顔が——少し、赤いですね」


「……日差しが強かっただけです」


「さようでございますか」


 リゼットが、何も言わなかった。

 言わないことで、何かを言っている。


「他に何かありますか」


「はい。お手紙が一通届いております」


 リゼットが、封筒を出した。


 差出人は——セレスト・アルバ。


「謁見が終わる前に届いていたのですか」


「はい。使いの者が、午前中に持ってきておりました」


 私は封を開けた。


 短い文章だった。


 本日の謁見、よい結果になることを願っています。

 それから——一つ、ご相談したいことがあります。

 王宮で、少し不穏な動きがあります。

 詳しくは、近日中にお話ししたく。


 私は、手紙を読んだ。


 もう一度、読んだ。


「お嬢様」


「わかりました」


 私は、手紙を折りたたんだ。


「リゼット、セレスト様への返事を書きます。

 都合のよい日を教えていただきたいと」


「かしこまりました。では便箋を——」


「その前に」


「はい」


「玄関の白い薔薇は、まだありますか」


 リゼットが、少しだけ考えた。


「はい。もう数日は持つかと」


「そうですか」


 私は、手のひらの小さな花を見た。


 王宮から持ってきた、名前のわからない花だ。

 白い薔薇の隣に、置いてみようと思った。


「リゼット」


「はい」


「花瓶を一つ、用意してもらえますか」


「かしこまりました。——あの、こちらは」


「拾いました」


「どちらで」


「王宮の玄関で」


 リゼットが、また何も言わなかった。


「……かしこまりました」


 それだけ言って、動いた。


 私は、手の中の花を見ていた。


 名前はわからない。

 でも、白くて、小さくて——思ったより、きれいだった。


 次に会うときに、考える。


 それまでは——この花と、白い薔薇が、玄関にある。


 それで十分だ、と思った。


 窓の外で、夕方の光が、少しずつ変わっていく。


 王宮で不穏な動きがある。


 それは——また別の話だ。

 今日は、まだ今日の話をしていていい。


 便箋を持ってきたリゼットに、私は向かった。


 返事を書く。

 それが終わったら——今日は、少し休む。


 扇なしで、一日が終わった。


 それが、今日一番よかったことかもしれない。

 ここまでお読みいただき、本当にありがとうございました。


 第一章・第二章、全十八話——完結です。


 アリシアは舞踏会の夜から始まりました。

 三百人の前で婚約を破棄されて、扇で口元を隠して、静かに笑っていた令嬢が。


 十八話かけて、扇なしで一日を終えました。


 それだけのことかもしれません。

 でも私には、それが全部でした。


「次に会うときも、扇を持ってこないでください」


 カイがそう言いました。

 アリシアは「次に会うときに、考えます」と答えました。


 玄関の白い薔薇は、まだそこにあります。

 名前のわからない小さな花が、隣に増えました。


 王宮で、何か不穏な動きがあるとセレストは書いていました。

 でも今日は、まだ今日の話をしていていい——アリシアはそう思いました。


 読んでくださった皆様のおかげで、ここまで書くことができました。

 ブックマークと評価をいただけますと、続きを書く力になります。


 もし続きを読みたいと思っていただけたなら——また、お会いしましょう。

 扇なしのアリシアの話は、まだ少しだけ残っています。

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