前編 ここに死体を投げ込まないでください。
浅瀬まで小舟を引き戻すのは骨が折れた。
ただ一人乗っている少女は過呼吸ぎみに泣きじゃくっているし、その手も顔も黒く汚れてしまっている。側に横たわる人物は少女の申告どおり額の汚れを拭うこともせず、青い目を見開いたまま、たしかに死んでいた。
満月の明るさの中で、女神ニムエは困惑していた。
森に囲まれた静かな湖と、おだやかな住人が暮らす小さな集落。それがニムエが五百年あまり守ってきた世界で。今夜もいつもと変わらない静かな夜だと思っていたのに、この状況はなんだろう。
「どうしましょう……」
「ごめんなさい、お嬢様、ごめんなさい」
死体を湖に投げこもうとする少女をどうにかなだめて、岸まで連れてきたのだが。話がまるで分からない。どうして女神のいる湖に死体を。
「あぶないから、岸に上がりましょう? ね?」
のろのろと小舟から下りてくれたはいいが、混乱状態はいまだに治まっていない。
泣きじゃくっているこの少女は確か、屋敷で働いているメイドだ。そしてもう一方は。
「アイリスお嬢様っ、お嬢様ああ」
そう、湖のすぐそばに建つ屋敷の主人が、小舟の中で冷たく横たわっているのだ。
都市部周辺で急速に進められているという開発もここには届かず、人口二百人ほどの小さな町の時間は自然と供に、ゆっくりと流れていた。森から続く道を行けば古風な造りの家々が並び、その先には美しい湖と大きな屋敷があった。
騒動がおこりはじめたのは、両親が仕事で王都に出掛け、一人娘のアイリスが代わりに屋敷の主人となってしばらくたった頃だった。
椅子が知らない間に動いていたり、お皿が一枚落ちていたり。気のせいといえばそうなのだろうと言えるようなものは、だんだん激しくなっていった。
「厨房の戸締まりをしようとしたら、突然戸棚が開いてティーカップが飛んできたんです」
「掃除をしていたら、電気が勝手に消えてまた点いて」
「地下室にいたら、誰かが慌てて階段をかけ下りてきて。でも皆知らないって言うの」
ポルターガイスト。霊がいたずらしているのだと屋敷の誰もがそう言った。
白い人影が屋敷を歩いている、と何人もの使用人が言い出したのは、最初にちょっとしたいたずらが起こってから一ヶ月すぎたころだった。
メイドとして屋敷で働くノエルも、謎のノックや停電には何度も遭遇していた。
「白い人影って、どんなかんじで見えるの?」
相部屋のマリーに話を振ると、噂話大好きなだけあって矢継ぎ早に聞き集めた体験談を話してくれた。
「最初に見たのは執事のロイさん。夕方、二階の廊下を歩いてたら、向こうから誰か歩いてきたんだって。近づいてみたら、ぼやっとした白いものが浮いていて、すれ違う前に消えちゃったって」
「次はウィルくんが、厨房を片付けて帰ろうとしたら白い人が歩き回ってたって」
「歩いてるだけなんだ、なんか地味だね」
「私も夕食の片付けの後に庭をうろついてるのを見けど、不気味なんだから」
「なにもしてこないんでしょう?」
「わかんないよ? だんだん行動範囲も広くなってるし」
「うーん、私も一度見れば分かるのかな」
怖い目に遭いたいわけではないけれど、近くにいるというなら見てみたい。そんなノエルの前に現れないまま人影は屋敷をうろつき続け、ついに主人アイリスが動いた。
「教会に相談することにしたわ」
午後のお茶の給仕をしていると、うかない顔のアイリスはそう言った。
「なにかございましたか?」
二杯目の紅茶を差し出しながら、ノエルはついそう尋ねる。
「別に、なにも起こっていないわ。家具が動いたり、招いてもいない何かが歩き回っているだけ。でもそれで十分だわ。得体の知れないなにかに好き勝手させるのはもううんんざり」
アイリスは胸元の青い宝石をそっと抱いた。
「お父様はこのネックレスをくださってすぐに行ってしまうし、今度はお母様も同行するなんて……いいえ、ともかく今は私が主人。この屋敷を守るために動くのが私のつとめ」
「神父さまにおまかせすれば、安心ですね」
遭遇する前に退治されてしまうのは残念だ、なんて思いがばれないように。そして主人を励ますためにわざとらしく明るい声と表情のノエルに、アイリスは小さくそうねと応えた。
週末には神父に来てもらえることになったと、アイリスは晴れやかな顔でメイド達に告げた。
「時間切れみたいね」
一緒に居間を掃除していたマリーが肩をすくめてみせる。
「そうね、でもお嬢様の心配事がなくなるなら、よかったじゃない」
ああ言って見せたものの、一度火が点いた好奇心はおさまってはいなかった。
深夜、こっそり起き出したノエルは寝間着にコートをはおり、庭に出ると薔薇の植え込みに隠していたランタンに火を灯す。
件の人影は、マリーによれば皆日が沈んだ後に遭遇している。だからこうやって夜見張っていれば見つけられるに違いない。
チャンスは今晩をいれて三回。それまでに見つけられなければいたずら者はいなくなってしまう。
冬の初めの冷たく引きしまった空気に体を縮こまらせながら、屋敷の周りを歩く。
広い庭に並ぶ樹も葉を落としきり、彩りを提供する花も咲いてはいない冬の庭を、ランタン一つのたよりない明かりで進んでいく。
出てきた裏口まで戻ってくると、がちゃりとドアノブが動いた。
「いた……?」
木陰に隠れて様子をうかがっていると、まさに白くぼんやりと光る人影が現れて、暗い庭に消えていく。息を殺して後を追う。
門まで来た時、それまで一定の早さを保って歩いていた人影が立ち止まったかと思うと振り向いて、かすかな笑い声をもらした。
そのまま門から出て行く人影に引き寄せられるように、ノエルも後を追う。
あのかすかな笑い声を知っている。
でもそんなことは、そんなことがあるはずがない。
もう白い人影を見ることは叶ったんだから、裏口から戻ればよかったのに。後なんて追わずに屋敷に入ってしまえばよかったのに。
振り返ったその顔を見てしまったから。
笑い声を聞いてしまったから。
門の先の階段を下れば、月明かりに照らされた野原と湖があるだけだ。小走りで門まで追いついたところで、ノエルは階段を落ちていく影を見た。
※ ※ ※
実体のある重いものが落ちた音だ。
ルロイ神父は屋敷に向かう足をさらに早めた。目撃者は多いが被害らしい被害はないと聞いていたのだが。
一人石畳の道を駆ける足音に、鈴のような音がときおり混ざる。鳥も眠っている深夜なのに、風を切る羽音も。
※ ※ ※
人間が落ちる音なんて聞いたことはないが、今の音がそうなのだと思った。
白い光は消え、ぐったりと動かない人影に触れると、ほんのり暖かった。この人はどこに行こうとしていたのだろう。致命傷になったのだろう額の傷がぱっくり開いて、血が流れ出している。
連れて行って差し上げなければ。
屋敷ではなくあの湖に行かなければ。
ノエル一人で死体を運ぶのは大変だったが、湖につくとすぐに小舟が見つかったので二人乗り込んでこぎ出した。
満月に照らされながら、死体を運ぶ舟を漕ぐ。
不気味だと冷静になる余裕もなく、必死で湖の中央へ漕いだ。
ここにこの人を沈めて差し上げないといけない。ここで眠って、そして。
血で汚れるのもかまわず、ノエルは死体を抱え上げる。
「あなた、なにをしているの!」
人気のないはずの湖の真ん中で、叫ぶような女性の声が響いた。
「私は湖の女神ニムエ。一体どうしたの」
ノエルが顔を上げると、水面を歩いてくる銀髪の女性と目が合った。
「だって、お嬢様が」
「岸にもどりましょう、ね?」
「お嬢様が死んでしまったから、ここに沈めて差し上げないといけないんです、邪魔しないで」
「あなたどうしたの、ここは危ないから戻りましょう」
「私が追いかけたりしたから」
少女の言っていることは何一つ要領を得ない。ニムエはなんとか小舟を岸まで引いてきたが、分かったのは死体が正面に建つ屋敷の一人娘だということだけ。
「お嬢様、お嬢様、ごめんなさい」
座り込んで泣きじゃくる少女が落ち着くまで、かなり時間がかかることだろう。事情を聞き出すのはあきらめて、死体をざっと見てみる。
たしかに屋敷の娘アイリスだった。見慣れない青い石のペンダントを除いては。というよりこの石は。
「やっと見つけた!」
こちらに駆けてくるのは、教会の神父だ。彼は金色の光を纏った半透明の天使とともに野道を下りてくる。
「下見をさせて頂こうとしたら、音がしたもので。何があったのですか」
「事情を知っているなら教えてくれない? 屋敷のご主人を沈めるって言われて困っているんだけど」
「はい?」
神父は小舟をのぞき込むと、顔を青ざめさせた。
「アイリスさんじゃないですか!」
「私が悪いんです、ポルターガイストの幽霊を見てみたいなんて、思ったから、神父様ごめんなさい」
「あなたは、ノエルさんでしたね。あなたが罪悪感を背負うことはありませんよ」
さすがは神父、すぐに動揺から立ち直って少女、ノエルにやさしく語りかける。
「私がもっとはやく伺っていれば、防げた事です。これは私の責任なのです」
何かとんでもないことを聞いた気がして、女神ニムエは少し離れて浮いている天使に確認する。
「ねえ、あれがなんなのか分かるわよね」
(もちろん)
(どうして直接話さないの)
(今は刺激したくないから。依頼された騒ぎの原因はあの子ね。直接見てはっきりしたから、対処はまかせて)
(そう、お願いしていいのね。私だけでは手に負えないから)
(ええ。だからあれ持ってくるまでよろしく)
(えっ、ちょっと待って)
ウインクして飛んでいってしまった天使を見送ると、満月の明るい月明かりの中でノエルと神父は会話を続けていた。
「相談をいただいてすぐに対処していれば、あなたは苦しまずに済んだのです」
「いいえ、皆が見た人影を私も見てみたいだなんて、考えなければよかったのに」
「そんなことはないのです、私が」
「いいえ神父様、私が悪いんです」
神父もあれがアイリスの死体だと思い込んでいるらしい。神の元で学んできた身だろうに、魔のものに取り込まれてしまうなんて。天使は依頼と言っていたし、あれが屋敷を歩き回っていたらしいが。
ニムエにしても、死んだアイリスに見せかけているあれがなんなのか、はっきりとは分からない。信仰され土地神とされる女神といえど、五百年あまりをこの湖とともに過ごしてきただけで、戦いに秀でているわけでも特別な知識を有しているわけではないのだ。
こういう魔性のものへの対策ならば、世界のはじまりから悪魔たちと争っているという天使たちのほうがよほど詳しい。天使に二人を正気に戻してもらうまで、待つよりなかった。
余計な刺激をあたえないように、湖に沈んで水中からこの場を見守る。水の中は静けさが保たれていて、突然やってきた騒がしさから離れて少しだけ落ち着くことができた。
取り憑かれた神父とノエルの問答は平行線のままだし、死体は完璧に死体だし、そしてもうひとつ気になることがあった。
近くに知らない気配がもうひとつ、水を通して感じられる。
湖を囲む森に強大な何かの気配が入ってきていて、しかもすこしずつこちらへ近づいてきている。
今日は満月なのに。それとも満月に呼ばれたのか。
いつもと同じ静かな夜のはずだったのに、よく分からない怪異に神父と天使に、さらにもう一つとは。
すこしずつ近づいてくる気配に、ニムエは身構える。やがて針葉樹林の間から姿を現したそれは、笑顔を浮かべてやって来た。
「やーっと町に着いたよ。しかしこんな時間なのに人に会えるし、ついてるなあ俺」
背中に荷物を背負った旅人らしい男。
「山越えはあきらめて野宿しようと思ってたんだけど、神父さまに会えるなんて」
こんばんは、と人好きのする笑みで近付く旅人にやっと気づいた神父は、死体を隠すように立ち上がった。
「こんばんは」
「こんな夜更けに恐縮ですが、神父さま、眠る場所を貸して頂ければありがたいのですが」
「え、ええ。お疲れのことでしょう、どうぞ」
にこにこと対応する神父だが、得体の知れない目撃者が増えたせいか、座り込んでいたノエルが立ち上がって声を上げた。
「私も、教会に連れて行ってください」
小舟に横たわる主人の死体を横目で見て、叫ぶように言葉を吐き出す。
「これは私の罪です! 私が償うべき罪なのです!」
「ノエルさん、おちついてください」
「そうよ、おちついて、明るくなってから冷静に考えて」
その絶叫に、神父とニムエはそろって落ち着かせようと言葉をかけるが、ノエルは素早く旅人の手を引いて小舟へ連れて行く。
「いいえアイリスお嬢様を殺したのは私なのです!」
旅人は小舟をのぞき込んで、肩で息をするノエルを見て、不思議そうにこう言った。
「殺したって、ここにはなにもないじゃないですか」




