中編 見えなければどうしようもありません。
真夜中に訪れた旅人は、上から小舟をのぞき込んでいるのに死体などないと言う。
「月夜といっても暗いですし、勘違いされているだけでは?」
「勘違いって、ねえここにお嬢様が」
「そう言われても……」
首をかしげる旅人の目が湖に向く。小舟の向こうの水面に、ちょうど旅人と向かい合わせにニムエが立っているのだが、なんの反応もせずに振り返ってしまった。
そのまま二人と話しはじめた旅人の後ろに、緋色の短髪に褐色の肌の大男が付き従って浮いている。
「夜中にここへ来たのは、決して害意あってのことではないのです。お取り込み中に乱入する形になってしまい、申し訳ない」
大男はニムエに丁寧に頭を下げた。
「俺はごらんのとおり、腕輪に封じられた身でして。こうして持ち主と旅をしているのです」
あいつは一人旅のつもりですがね、と薄く笑う。
「私はこの湖に住んでおります、ニムエと申します。……失礼ですが、やはり彼には見えていないのですね」
「もう一年こうしていても、一向に気づきませんね。道中でまじない屋や神官に、とんでもないものが憑いているから腕輪を手放せと何度も御忠告されてるのに、手放す気配もありゃしない。それどころか運勢がよくなったと喜んでます。ま、ふっかけてくる商売人をにらみつけたり、盗賊団を伸してやったりしてるんですが。ジンとお呼びください」
彼のような魔神や神と呼ばれる存在は、基本的には人間に姿を見せない。違う時間を生き、違う法則に従うもの同士が同じ土地にいるからには、できるだけ関わり合いになるべきではないとされているからだ。
例外となるのは、たとえばニムエのように同じ場所に留まり、土着の神として信仰される場合。この町に住むものなら皆ニムエの姿を見ることができるし、それが当たり前になっている。
季節には祭りが執り行われて供物も捧げられるし、ニムエは水気を司る神として水害や干ばつから町を守ることで関係を保っている。
そして魔術師や占い師など違う世界の法則を知ろうとする者の求めに応じて、一定期間の縛りを受け入れた存在との関係がある。
「以前は秘術を求めて旅する魔術師を助けたりしてたんですが、最近じゃあそういうのに出会わないですね。魔神付きの腕輪なんてだれも欲しがらない」
関わりを求めて人の世界に混ざり込むのに、そのままの姿では不便が多く。指輪や腕輪など身につけるものを魔術師が用意して、それを依り代とさせる魔神は多かった。魔神と人とで編まれた強力な魔法の宝飾品は魔術師が死んでも残り、ひっそりと人から人へ流通している。
「神秘に興味のあるやつにも出会えなくて、長らく不良在庫になってたところにこいつが来て。旅人が宿を借りに来たと思ったら、そいつに俺を押しつけて。そりゃ精霊も神の気配も分からない人間なんて願ってもない相手、なかなかいませんからね」
「そうなのですね。まれに私たちを見る目を持たない人がいると聞いたことがあります」
「持ち主に気づかれない魔神なんてって、同族に会うたび同情される」
空の小舟を見せられて困惑する旅人の頭に肘を乗せて、ジンは言った。神父は旅人の背後に気配を感じ取ったようで、首をかしげている。
「適当な人間の前に姿を見せて、持ち主になってもらえば良いって勧める同族もいるんですけど。でも、わりと多忙な今の状態も嫌いではないんですよね」
旅人にしてはお人好しがすぎるのだという。
そもそも骨董屋に宿を求めに来たのは有り金をスられたからで、その後の道中もとにかく騙されたり、面倒事を押しつけられそうになったり、盗賊に目をつけられたり。
そのたびに詐欺師の仕事道具を隠したり、スられたものを取り返したり、盗賊連中を壊滅させたり、姿を現さずにできる範囲で守り続けているのだと。
「よく俺を身につけるまで無事で旅できたなと思ったよ。だから、これでいい。人間の世に紛れることを望んで、在り方を行き先を人間に任せることにしたのが俺たちだから」
望んで封じられたのだからかまわない、と旅人の頭をぽんぽん叩いてジンは笑う。
神父はまた首をかしげる。ノエルは死体があると主張するのを諦めて静かに泣いている。
「これが何なのか、あなたには分かるでしょうか。天使さまは対処できるとおっしゃっていたのですが、戻ってこられませんし困っています」
ニムエは騒がしい夜に疲れはじめていた。
「そうだな、死体のふりを続けていられるかぎり、危害をくわえてくることはないと思う。姿を写された本人ががこんな時間にここまで来たり、しないだろうし」
「そう、よかった……」
ともかく天使が戻ってくるまでこの場を見守っていれば良いのだ。思わぬ混乱と話し相手を得たニムエは、少しだけ落ち着いて息を吐いた。
「……こんな時間に本人が来たりしないよな」
旅人を守るように後ろから抱きついて、ジンが屋敷の方を見る。毛皮をあしらったコートの人影が、湖に近付いてきていた。
「……まずいな」
死体と人影とを見比べて、ジンとニムエは引きつった顔を見合わせた。
「そこにいるのは、ルロイ神父? ノエルなの?」
間近で聞こえた問いかけに、立ちつくしているノエルはびくっと肩をふるわせる。
「叫び声がして、灯りが見えたから。これはどうしたの?」
小舟の死体とうりふたつの姿で、アイリスがそこにいた。
「え、お嬢様、なん、で」
いかに強力な暗示をかけられていても、本物がこの場にいるとなればごまかしきれない。
先に正気に返ったのは神父だった。すばやくノエルと旅人の腕を引いて、小舟から距離をとる。
「せっかく神父もだませていたのに、あなたが起きちゃうなんてね」
死体のふりをしていたそれは、ゆっくりと身体を起こした。
「あーあ、ここにいればお腹一杯になれるとおもったのに」
アイリスの姿が崩れていき、人間の輪郭すら失っていく。
「まだ寝てなきゃだめじゃない、アイリス?」
ドッペルゲンガーと呼ばれる自分そっくりの存在と出会ってしまった者は、死ぬのだという。一説には、ドッペルゲンガーは姿を写した者を殺すことで、人間に成り代わろうとしているとも言われている。
四つ足で立ち上がったそれは、熊ほどもある巨大な狼の形をしていた。




