【第一章 番外編】アルドの日常
「お兄ちゃん、いつの間に字が書けるようになったの?」
アルドのすぐ下の妹は、床の隅に積まれた古い書籍を眺めている兄を見て、驚きの声をあげた。広げられた書籍には、歪ながらも文字と思えるものが書き込まれている。
「ああ、石工のじいさんに教えてもらった」
そう答えるアルドは、どことなく楽しそうに笑った。
「ねえ、お兄ちゃん。何を勉強しているの?それって楽しい?」
妹はそう尋ねるとアルドの横に座り込み、本の山から一冊取り出しパラパラとめくる。挿絵もなく、数字が羅列された本の内容に、妹はため息をついた。
「まあ、文字とか商売とかいろいろ。知らないことを知るのは楽しい、でも苦しくもあるな」
「ふーん」
少しだけ妹は寂しそうに答えた。苦しいのに勉強をする、そんな考えは理解できなかった。悪知恵に頭を働かせて、日々、妹たちの面倒を見て、一緒に笑って過ごしていた兄。その存在が最近では、少し遠くに感じる。なんだか、ちょっとだけおもしろくない――そんな複雑な感情を抱きながら、兄の傍で挿絵のない本をめくる。
「興味あるのか?」
「あるわけないじゃん。勉強なんかしたって、何になるの」
「何になる?」
アルドは妹の言葉を受けて、少しだけ黙り込んだ。『エレナと対等に立てる人間になりたい』――そう思って、始めた勉強ではあったが、アルドには、その先の未来が正確に見えているわけではない。アルドは開いていた本を閉じて妹を見た。
「何になるかは、まだ、わからねえよ」
「えっ?何か目的があってやってるんじゃないの」
「目的はある、でも、何が目的に繋がるかは勉強しないとわかんねえよ」
そう言って妹を見てアルドは笑った。
「そんなふわっとした感じで、こんな難しそうな勉強なんか始めていいものなの?」
「勉強なんか、好きにやればいいんじゃないのか。変なことを聞くよな。目的なんかなくても、していいと思うぞ?」
「……だって、お金持ちのやることじゃん」
小さく俯き、膝を抱え込んだ妹を見て、アルドは妹の頭を優しくぽんっと撫でた。
「ああ、なるほど。俺も、そう思ってた」
「お兄ちゃんも?」
「うん。だって、生活することしか頭になかったんだから。無理だろ」
「……でも、お兄ちゃんは今は勉強してるじゃん。あの家に来てたあやしい人たちの影響?」
妹は悲しさのこもった声でアルドに尋ねた。以前、家に怪しいフードを被った三人組が訪問してきたことがある。あの頃から、明らかに兄は変わってしまったのだ。そして、このスラム街も徐々に変わっていってしまった。今までのように、兄と妹二人と楽しく生活していれば、それだけで幸せだったのに、妹はもやもやした気持ちをどう消化して良いのかわからなかった。
「まあ、きっかけはあの人だな」
「やっぱり」
アルドは淡々と答え、妹は、さらにおもしろくなくなった。なんとなく寂しそうな妹に向け、アルドは話を続けた。
「でも、今、勉強しているのは半分以上自分のためだ」
「……自分のため?」
妹は顔をあげて、アルドを見た。
アルドは妹に向けて、こげ茶色の前髪の隙間から灰青の瞳を覗かせ、にっと笑った。
「ああ、俺は、おまえたちがスラム出身だって胸をはって言えるようにしてやりたいし。ある人と約束したから、対等に立てる人間になるって、そのために勉強を始めた。でも、今は、単純にできることが増えていくのが楽しいんだ」
「……」
そう話すアルドは、悪知恵を働かせていた以前と同じ兄の顔だった。
妹はアルドの顔を見ながら積まれた本を一冊手に取った。そして、しばらく無言になったあと、兄を見た。
「……お兄ちゃん、私も字くらい覚えられないかな」
特に勉強を始める目的はなかったが、何となく変わっていく兄を追いかけてみたくなった。兄が楽しいと思う勉強。それがお金のかからないものであれば、それを始めてみることも悪くないかもしれない。そうすれば、少しだけ兄に追いつけるだろうか。
アルドはふっと笑い、傍に置いてあった絵本を一冊取り出した。物語に沿って簡単な文字を紹介する、貴族から平民まで幼い頃に広く読まれている本だった。アルドはペンを取り出し、不器用な文字で本の表紙に『アニカ』と書いた。
「?」
「これ、おまえの名前の文字」
「……私の名前」
アニカは、兄に渡された本の表紙の自分の文字を、そっと撫でて嬉しそうに笑った。
おわり




