誂え物
二十五
「私は息を吸って、後ずさりしたんです」と、雪枝はなおも語り続けた。
「……水のなかからともなく、空からともなく、幽かで細々とした、消え入るような若い女の声が、その出家に呼びかけた、と言います。
そして、百年このかた天守に住む、ある怪しいものによって掠われて、いま見せた通りの苦患を受けている……なにとぞこのさまを、いまも温泉に逗留している夫に伝えて、一刻も早く助けてもらい、人間界に戻りたい。私を救うには、天守の主人が満足する、自分の身代わりになるような木彫りの像を、夫の手で彫んで埋め合わせとしなければならず、そのほかに助かる術はない……と女は言った。
『都の人よ、わしが口から言うただけでは、あまりのことに真実とは思えまい。……哀れな犠牲の女も、ただこう申したばかりでは夫も疑いを抱きましょう……いま証拠の品を、と言うてな、血の気が失せた、可愛い唇を動かすと、白歯で銜えたものがある。白魚の目のような黒い点が一つ見えた。……口から出すのは不躾であるが、ごらんの通り後ろ手で縛られているから、指さえ自由には動かせない……ああ、苦しい、と全身を震わせながら、小さな口を切なそうにゆがめて開けると、揺れ動いた水にかき乱されて姿が消えた。
カタリと音がして網代の上に、大空からハタと落ちてきた物がある。……手に取ると霰のように冷たかったが、消えも溶けもしないで、破れ法衣の袖に残った。
その証拠の品がこれじゃ』
と、私の手のひらを開かせて、ころりと振って乗せたのは、忘れもしない、双六谷で私たち夫婦が来世があるかないかを賭けようと思って買った采だったんです。――
『都の人よ』
と坊主は改めて私に呼びかけました。
『御身は木彫りをやるかな』
『やります!』
そう答えたとき、私は自分が甦ったかのように感じました。暗い水も白くなり、夜も明るくなった気分でした。……浦子の行方も知れて、どこにいるのかもわかってみると、草鞋に松明で探し回ったところで、しょせん無駄だと諦めもつきました。……そのうえ、魔物の手から女房を取り戻す手はずもついた。私に身代わりの像を作れという。黄金を積め、山を崩せ、などとできないことを無理強いするわけではないのだから、前途に光明が輝いて、彼女を救う道の第一歩を確実に踏みだしたのだと、早くもそんな気持ちになっていました。
動きだした城ヶ沼の水が、この足もとから野山にかけて流れるように注ぎこまれ、天守に昇る一筋の道を、草を開いて示すのが見える。
わが妻よ、話に聞いた如くであれば、御身は肉を裂かれているという。ならばわれは腸を断とう。引き比べても劣りはしないだろう。しばらくは辛抱してくれ、製作に骨を削り、血を濯いで、その苦痛を償おう。……私はそんなことを、城ヶ沼に向かって瞑目し、ふり返って、天守の空に高く両手をかざして誓いました。
そのとき私は、浦子が唇を開いて僧の手に落としたという、猪の牙で彫った采を自分の口のなかに含んでいた。妻と同じものが舌の先に触れたと思うと、血を絞って湧きだす火のような涙があふれ、ほろりと采が手のひらに落ちました。それを自分の手で握っているのだという感覚を失うほどの気力を集中させて握りしめたとき、花の輪が渦巻くように製作の創意が湧いてきました。――閉じる、また開くといった、扇の要のような仕掛けが頭に浮かぶ。骨があり、筋があれば、手も動くだろう、足も伸ばせるだろうと、思いつくことが、風のようにことばになる。もはや私が作る木彫りの像は、活きていて動いていて、期待に胸が膨らむばかり。さてその仕掛けの要となるものは……手に握った采でした。
天が命じて、われにそれをなさしめる。私が作る美女の立像は、その手のひらに采を包んで、創作の神秘を胸にこめることになろう。いうまでもなくその面影、その姿は、古城の天守の虜となった、愛しい妻の生き写しに……突如として目の前が開けるとともに、腕には斧をふるう力がこもって、十本の指は鑿を持とうとして自然でに動く。――まさにそのとき、彫像の頭を飾るかのような星々が、雲を破って煌めくのが見えました。
星の下を飛んで帰った温泉の宿で、さっそく準備をと浮き足立つ。遠く離れた谿河の水音も、砥石を洗う響きかと、もう思えてしまうほどでした」
二十六
「そうなると、心に刻み、想像で製りあげた、城の虜となったわが妻を模した彫像が、雪が集まって形を作るように、沼の岸辺にすらりと立つ。手を伸ばせと思えば伸ばし、胸を覆えと思えば覆い、髪を乱せと思えば乱れ、結べといえば結ばれる。――ならば衣服を着せようかと思えば着る。
作品のできばえを予想して、薫を放ち光を閃めかすかのように眼前に顕れたこの彫像の幻影は、悪魔がその手で帯を解こうとしても解けず、衣服を奪おうとしても奪えず、縛られても悩まず、鞭打っても痛まず、おそらくは火に焼かれることもなく、水にも溺れないだろう。
見るがいい。同じ幻影でありながらこの彫像の影は、出家の口から伝えられたような、梁から逆さまに吊される、かよわく哀れなものではない。真っ直ぐに、正しく、美しく立つ。ああ、玉のごとき肩に柳のごとき黒髪、白百合のごとき胸よ、と恍惚となってわれを忘れた。この土地の偉大なる力は、わが手によって作られるこの傑作を手に入れたいのだ。けれども、その労力に対して支払うべき報酬の量が莫大であることに苦しんだと思われる。それならば短時間のうちに良き工匠の精力を尽くさせるように、生命に代えてもと愛おしむ恋人をひとたび奪うことで、交換すべき条件にあてる人質とするようにと、企んだにちがいない。
卑怯ではないか、土地の神よ。……雪枝が製作する美女を本心から欲するのなら、礼を尽くして請うて来るべきではないか。もしも私に払う報酬に苦しんでいるのなら、玉を捧げてくればいい。それがなければ鉱石でいい。それもなければ岩を砕いた欠片を捧げに来ればよい。一枝の桂でも、一輪の花でもいいのだ。どうして妻にやたら危害を加えて、私を進退窮まるまでに追いこむのだ。……神々よ、いまここに、たちどころに顕れた作品の幻影に対して、自らの無礼を恥じるべきではないのか。……
背後から天守に視線を注ぎながら意気高揚し、腕を組んで虚空をにらんだ。暗い夜に見切りをつけて、すぐにでも木像の美女を刻もうと、腰にはそのための一振りの宝刀を帯びた気がしている。その威力を漲らせたかのように足踏みをして、胸を反らした。
――正気の沙汰ではない。死んだほうがましかと思えるほどの責め苦を受けている女房の様子を知って、カッとなって錯乱したんです。――
自分で自分の想像に酔っているうちに、見とれたつもりの女の背中の、その美しい肌を通して、坊主の黒い衣が透かし見えている。ふと水に目を遣ると、天守の梁に吊り下げられた女を獣が襲う、その幻像がありありと見える。無残なそのさまを見せまいとするかのように、美わしいその姿はフッと消えた。
『呼ぶわ、呼ぶわ』
と坊主の声がする。
『おーい、おーい』
『お客さまぁ、お客さまぁ』
と叫ぶ声が、弱々しく遥かに光る稲妻のように夜のなかを走って、提灯の灯が点々と畷道をさまよう。
『お客さまぁ』
『旦那ぁ』
『奥方さまぁ』
ああ、また奥方さまなどと呼んでいる。……いや、そんなことはどうでもいい。このごろでは、鉦太鼓を鳴らすようなことは廃れたが、呼びかけをする土地の風習はいまも残っている。あれは天狗に掠われた者を探すやり方だ。なるほどそう考えれば私自身も、いつ温泉の宿を出て、どこを通って城ヶ沼に来たのか、覚えていない。
『御身を呼んでいるのじゃろう。行かしゃい』と坊主が、ふたたびハッとその手のひらを広げた。その勢いに横面をはたかれたように思ってよろよろとする。思うに、幻覚から覚めた疲れが出たのだろう。坊主が故意になにかをしたというのでもないようだ。
『御身の内儀からの言づてを忘れまいな』
『忘れない』
と、怒りをぶつけるように答えました。すでに鬼神に感応した芸術家に対して、坊主のことばと挙動は、なんとなく馬鹿にしすぎているように思われたからです。……そのときの私はといえば、そのまま肩をそびやかして、輝く星を空から三つ、四つ取ると、その場で額に飾りつけようかという勢い。背筋を伸ばし、足を踏みしめて沼の岸を離れると、網代に突っ立って見送っていた坊主の影は、背後から覆い被さるかのように、大きく膨れあがって見えました」
二十七
「温泉の宿に向けて城ヶ沼から引き返す途中は、気もそぞろで、すぐにも作業に取りかかろう、いや、すでに手は、なんらかの働きをしようと動き出している、新しい創作に向けた霊感の雲に乗るように、腕が羽になって星の下を飛ぶかのような気持ちでした。
ここまで衝動が昂ぶったところで、宿から捜索に出た一行七、八人の同勢に、ハタと出会ったのです。……定紋がついた提灯が、一群のなかに三つほど交じっていた。それからすると、念仏講の連中や、いつも遠出をしている宿引きが、そのまま捜索に加わったようでもある。しかし実際のところ、旅籠屋にとってはたいへんな事態であろう。――たまたま宿泊した夫婦が、女は生死も行方もわからず、男はそのために半狂乱になって、昼夜を分かたずさまよい歩いているのだから。
国許へは顔向けできない出来事ゆえ、通知はするなと私は固く止めたのですが、旅籠屋としては、はい、左様ですかで済ませてはおけない。
宿側の判断で電報を打ったようで、そこで出会った一行のなかには、浦子の親類が二、三人交じっていました。……そこに姿の見えない巡査などは、同じ目的で、べつの方向に向かっているらしい。
そんな一同と畦道で出会ったとたん、騒ぎが起こりました。なかでもわざわざ東京から出向いてきた親類の者は、ある者はなぐさめ、あるいは励まし、また注意などをするいろいろなことばを立て続けにしゃべりましたが、私はといえば、まるっきり耳にも入れません。……露地の暗闇に入ってハタと板塀に突きあたったように棒立ちになっていた私は、だしぬけに手のひらを開いて、ぬいっと彼らの前に突き出しました。坊主が自分に向かってしたのと同じことをふと思いだして、ほとんど無意識の挙動にでたのです。これは少なからず一同を驚かせたとみえて、皆がたじたじと後ずさりしました。
鑿を持ち、鏨を持つべきこの腕には、手のひらを裏返すだけで多勢を圧して将棋倒しにもする、大いなる威厳を備えている――などと思って、自ら会得したこの境地を、大声でこんなふうに口から漏らしては、からからと笑ったのでした。
『ご苦労、ご苦労。まことにお骨折りをかけて、どなたさまも相済みません。だが、もうご心配には及ばんのだ。お聞きなさい。行方知れずになっていた家内の居所は、つい先ほどわかった。……なに、無事かと? 無事か、ではない。考えてみたってわかるでしょう。かよわい女だ。しかも虚弱な体質です。ちょっとつまずいてもけがをするのに、方向もわからない山のなかで、かき消すように姿を消した者が、無事でいようはずはないではないか。
けっして安全無事ではない。まさに爪を剥がされ、血を絞られ、肉をむしられ骨を削られるような、ひどい責め苦を受けている。逆さまに吊られている』
と身震いしたが、とたんに肩をそびやかして、
『どこにいる? なんだ、浦子の居所はどこだと聞いているのか? いや、それを君たちに話してもわかるまい。水の底のような、樹の梢のような、雲のなかのような……それじゃあわからん、わからない、と言うのかね。もちろん、わかりませんとも!
我が輩にはちゃんとわかっている。位置も方角も残らず知っている。指さしてあそこだと言えば、土地の者は残らず知っている場所だ。けれどもそれを話すとなると、それ行け、助けだせ、ということになって、松明を振り、鬨の声をあげて騒ぐだろう。騒いだところで、けっきょくはどうにもならない。
だれが行っても、何者が騒いでも、とても彼女は救いだせない。
おお! 君たちにもなんとなくは想像できるか。浦子は魔に掠われた。天狗が掴んでいった。……おそらくはそうなのだろう。……しかし私はこれを土地の神の仕業だと考えている。ただし鬼にせよ、神にせよ、天狗にせよ、なんのために浦子を掠ったか、その意味はわかるまい。諸君には理解できないだろう。
ただ独り、それを知っているのは我が輩だよ。そして彼女を救うのも、我が輩でなければいけない。しかも彼女を連れ帰る道筋は、もうちゃんとついているんだ。もうしばらくの辛抱です。いやいや、けっしてあなた方が御辛抱なさるには及ばない。辛抱するのは浦子だ。かわいそうな女だ。……我慢をしてくれ、浦子。私の腕は確かだ』
と語ると、手のひらを開いて、パッと突きだす。一同はさらに、どさどさと後ずさりした。びっくりして田んぼの泥のなかへ片脚を突っこんだ者がいて、ぱちゃりという音がした。
『気が違った』
『変になった』
『本物だ』……と、人々は囁きあいました。