雲の声
二十二
幻の女の姿に憧れるというのは、老いの身にとって、いわば極楽を望むのと同じことである。けれどもその姿を見るためには……沼へ出かけて、四手場に這いつくばりながら、ある刻限まで待たねばならない。それも、屋根から月の光が差すのを待つような、気楽なものではない。稼ぎにもならず、生計もおぼつかなくなるなかで、毎晩、沼の番人を務める難行苦行は、あたかも極楽へ行きたいから身投げをするのと同じ。自ら命を縮めているのである。
それならば四手場通いをやめにして、小屋で草鞋でも編んでいればいいのだが、因果なことに諦めはつかない。日が暮れると心もささくれだって、魂は身体よりも先に引窓から出て城ヶ沼を目指し、ふわふわと白い蝙蝠のようにさまよいゆく。
待てよ、こうまで心を惹かれるというのは、もはやただごとではあるまい。伝え聞くところ、沼のなかには古城の天守が逆さまに宿るという。……祖父殿が造った機関船のために怪しき最期を遂げた女の因縁が、子孫の自分にまとわりつくのかもしれない。それとも弔われず浮かばれない霊が、無言のうちに供養を望んでいるのかもしれない。どうであっても独りでは荷が重い。村のだれかにでも見せたなら、怪しさも飛沫を散らすように力を弱めるのではないか。そう考えて、他人に打ち明けなかったわけではないが、城ヶ沼の三町圏内には、昼間であっても人が寄りつかない。ましてや夜中に出向こうという若い衆もいなかった。
そんな、ほとんど我が身を持て余していたころの、その夜……
「お前さまが逢いなさった坊主が来て、目の前にのっそりと立っていた。ややっ、こいつも怪しい。蒼ざめた顔色で、墨の衣をまとった妖怪加牟波理入道みたいな和尚じゃ。影の薄さも不気味であるし、鯰でも化けたのかと思うたが――御出家、かくかく、しかじかの次第じゃ――と事情をうち明けた。おそらくは回向を望む亡霊であろうと思うで、功徳のため、丑三つ時までここにござって、成仏させてほしいでがす。――旅の疲れもあらっしゃろうから、なんなら今夜はわしの小屋で休んで、明日の晩にも、と言うたが、
『それには及ばぬ。……もしや、それが真実なら、一刻も早く苦患を救うて進ぜたい。南無南無』
と口のなかで唱えるで、せめてものもてなしだと、藁など敷いて座らせて、網代の上をその黒坊主と入れ替わった。
さあ、身代わりはできたぞ! あの女をひと目でも見れば、即座に法衣を着た巌となって、すこしも動けなくなるわいと思いながら、歩き慣れた闇の夜道をすたすたと小屋に帰ってしもうた。
翌朝早くに握り飯を拵えて、竹の皮包みにして、坊様を見舞いに行ってみた……ところが、靄のなかに影もねえだよ。
はあ、もしかすると、とは思うたが、やっぱり鯰が化けてきたのか、ええ、どうにもならぬと気が抜けた。またわしが沼の番人に逆戻りかとがっかりしただが、その晩、もう一度沼に行って、待つともなく夜が更けても、いつもの影は映らなんだ。四手網を引き揚げても星もかからず、鬢の香のする雫も落とさぬ。ああ、成仏したのだな。恐れ多いことにあの方は、悟りを開いた立派な僧であったのか、と網代の藁を拝んだがの。
……とすると、お前さまは、わしが沼を去ったあとに来なさって、その坊主に逢わしゃったもんだべい。……
……とまあ、そこまではわかったが、わしが城ヶ沼の水に映る女を見はじめたのは、かなり以前のことじゃ。お前さまが湯治に来なさって、奥様の行方が知れなくなったのは、つい先頃のことではなかったか。坊様はどこで聞いて、奥様の言づてをしただかの」
「そのことも、坊様が話してくれました。その出家が言うには、
『……だれだが知らぬが、ここにいた老人に、水のなかに姿を顕す幻の女に回向をと頼まれて、それなら出家の役じゃと、宵から念仏を唱えて待っておった。と、その時刻になった
大沼の水は、ただ、風にもならず雨にもならぬ灰色の雲が倒れた、大きな亡骸のように見えていたが、しだいに水際のほうから、ひたひたと呼吸をしはじめた。ひたひたと言いはじめた。幽かにひたひたと鳴りだした。
町のほう、里の近くの川は、真夜中になると流れの音が止むという。それの反対じゃな。この沼は、その時分から動き出す……。呼吸が全体に通うたら、真ん中からむっくりと起きあがって、どっと洪水になりはせぬかと思うほどのもの凄さじゃ。
ふと気がつけば、そのなかでなにやら声がする』
……と、坊主が言うんです」
二十三
「その声が、五位鷺のゲック、ゲックという鳴き声に聞こえれば、狐の叫ぶようでもあるし、鼬がキチキチと歯ぎしりする金切り声も交じっていた。そうかと思うと、遠い国から鐘の音が響いてくるかのようにも聞き取られて、なんとなくそこいらが、がやがやとしはじめる。……雑多な声を詰めこんだ袋の口を、虚空から沼の上で弛めて、騒々しくぶちまけたようだと思っていると、
『血を洗え』
『洗え』
『人間の血を洗え』
『笞で破った』
『鞭で切った』
『爪で裂いた』
『肌を清めろ』
『清めろ』
と、高く低く聞こえる声々に、大沼のひたひたと鳴る音が交じって、夜の闇に刻みこむように響く。雲から下りたのか、水から湧いたのか、沼の真ん中あたりに薄い煙が朦朧として立つ。……
『煮殺すではないぞ』
『うでるでない』と言う。
『湯加減、湯加減』
『水加減』とわめく。
『沼の湯は熱いか』と、ぼやけた音で聞く声がある……
『熱湯』と簡潔に答える。
『人間は知るまいな』
『知るものか』と傲然とした調子で言った。
『沼からなんで湯が出る』
『この湯が沸いて殺さぬと、魚が増えて水がなくなる。沼が乾くわ』と言う。
『しゃべるな、働け』
『血を洗え』
『傷を洗え』
『小袖を剥がせ』
『この紫は』
『菖蒲よ、藤よ』
『帯が長いぞ』
『蔦、桂、山鳥の尾よ』
『下着も奪え』
『この紅は』
『もみじ、花』
『やあ、この肌は』
『山陰の雪だ』
ひいっ、と恐れおののき悲鳴をあげた、糸のようにか細い女の声が、谺を返して沼に響いた。――
――坊主がここまで語ったとき、聞いていた私は、熱鉄のような汗を流していました。
――と、雪枝は老爺に語りながら――唇を震わせて、
「なおも坊主が続けて、こう話すんです。
さあ、なにものかが寄ってたかってだれかを丸裸にした、そのとき、
びょう、びょう、うおお、うう、と遥かかなたで犬が遠吠えをして、忌まわしく夜の闇を貫いていたが、その犬は里のほうから風のように、瞬く間にサッと来て、背後から網代場の上にうずくまった。それが、法衣の袖をかすめて飛んだ。とたんに生臭い獣のにおいがした。
水の上で、わん、わん、と鳴く。……
『男は知るまい』
『ううっ』と犬の声。
『不憫な奴だ』
『びょう』とまた鳴く。
その間、ざぶりざぶりと水をかける音がしきりにした。
『やがていいか』
『血は止まった』
『また鞭打って』
『また洗おう』
『やあ、おれの手』
『わが足』
『この面にまとわりつくは』
『水に広がる黒髪じゃ』
『山の婆の白髪のように、ちくちくと痛うは刺さぬ』
『蛇よりは心地よやな』と、次第に声が風に乗っていく……」
二十四
「沼の上では姿の見えぬ犬が、空に向かってびょうびょうと凄い声で鳴く。
『犬よ、犬よ』
『おう』と吠えた。
『人間の目には見えぬ……城山の天守の上に、女は梁から吊しておく、と男に言え!』
『どうして、あの人間の耳に聞こえるものか』
『わん、と鳴いたら犬だと思うだけ。あの馬鹿が』
とあざける声で言う。その傍らから老けた声がして、
『……その言づては、犬にはできぬ。時鳥に一声鳴かせろ』
『まだまだ、まだまだ、山のなかの約束は、人間のように間違えはせぬ。いまはまだ時鳥の鳴く時節ではない』
『ただ姿だけ見せればいい。温泉宿の二階は高い。あの欄干から飛び降りさせろ。……女房は帰らぬぞ、女房は帰らぬぞ、と羽で天井をバサバサやらせろ』
『男は、女の魂が時鳥になった夢を見て、白い毛布をかぶせて捕まえようと追っかけまわすだろう……その寝ぼけ面が目に浮かぶようだ』
どっと笑った声が天守のほうへ消えたあとは、颯々と吹く風になった。
すると、田畑や野原の上に広がる空を、山の端を目指して、なんとなく暗さをおびながら、雲がむくむくと通っていった。生き物のような気配をまとったその雲が、やがて昼間見た天守の棟の上に着いたあたりで、ドドンと凄い音がした。網代に乗った僧侶の目のすぐ先、老人が沈めていった四手網の真ん中あたりへ、なにかが落ちた音が激しく響いたのである。水が波紋の輪を作って、網を越えて広がるなかに、天守の影がありありと映し出された。壁もほの白く、三重のあたりを樹々の梢に囲まれた様子が見えるほどである。
不思議なことに、その天守の壁を透かして、なかに灯りを点したように、魚の形をした、黄色がかった明かりがひらひらとしている。矢狭間の間から覗き見たように、さらに奥へと視界が左右に開けると、網の目に重ね合わせておよそ五十畳ばかりの広間が、水底から水面へと遠近感をともないながら、ふわふわと動いて見えている。
ただ一つ、灯りがあるだけで、ほかになにもなく、だれもいない。その灯りが薄く射したところが背中となり、真っ白な乳の下を透かす。……帯のあたりが薄青く水に溶けたようになり、その下のゆらゆらとした流れが裾になって、灯りから射す光で胴を切られたような姿で胸を反らせると、顔を仰向けにしたのは、ゾッとするような美しい女だった。
ところで、水に映る姿といえば、水面に映った自分の姿を覗くように、沼に向かって顔を合わせるように見えるはずだが、この場合は違っていた。――女の黒髪はこちらの岸のほうを向き、足が対岸に向いている。たとえば向こう岸にあるものが逆さまに映った影を見るようなかたちである。つくづくと見れば無残なことに、先ほどの姿の見えない声が言い交わしていたように、頭が畳の上を離れ、裾が梁からめくれている。上から逆さまに吊されているのである。……
女が身をもがくのか、水が揺れるのか、わなわなとその姿が震えている。――天守の影の天井から真っ黒な雫が落ちて、女の手足にかかると、そのまま髪の毛を伝って長く糸を引き、ぽたぽたと下に落ちた。落ちた雫は長く伸びて、回ったり、うねったりもする。魚が泳いでいるのかと思ったが、それは幾条かの蛇であった。梁にでも巣を作っているらしい。
そうかと思うと膝のあたりを、のそのそと山猫が這っている。海豚が踊るような影法師を見せているのは狐で、階段の下から上がってくるらしい。ひょいと飛びあがるのもあれば、ぐるぐると歩きまわるのもある。胴を伸ばして矢狭間からいきなり飛びだすと、天守の棟で逆立ちをする姿も見える。
ときどき烏がひらひらと飛んで、翼で女の胸をはたく。……
なかでも見るからに恐ろしかったのは――茶と白の大斑の一頭の獣が、天守の階段をのしのしと蹄で踏んで上がってくると、畳を踏みしめて人間のように立ちあがる。その影法師が女の前を横切ると、女の姿は隠れ、サッと蒼くなった面影と、ちらりと白い爪先の像が残った――そのときであった。
やがて獣が消えたと思うと、女の胸を映した影が波立ち、髪を宿した水が動いた。……
『御身が女房の光景じゃ』
と坊主が私の顔の前に、なぜか大きな手のひらを開いて突き出しました」