城ヶ沼
十九
「その入道がのそのそと身動きするのが、暗夜のなかに見えました。雲の裾が低く舞い下がって、空気にびっしょりと水がにじんだように、ぼうっと水蒸気が立ち籠めていたせいで、朦朧として見えたのです。
『目の前は沼じゃ。気をつけやれ』と、ぶっきらぼうに言います。
『沼であろうが海であろうが、女房がいるなら入らずにおけない』
イライラしていた私は、ふてくされてつっかかったのです。
すると入道は、耳を貫き骨髄に徹るような一言を発しました。
『ははあ、ここにいたのは、御身の内儀か』
『ここにいたのが……私の……女房だと?……』
『おお。わしがいま出逢うた、水底から仰向けに顔を出した女のことじゃ』
『やっ、溺れて死んだのか』
と絶望した私は、ばったり膝から崩れました。すると入道は網代の上から覆い被さってくるようにこちらを覗いて、
『待て、待て。死体を見たというのではない。じゃが、現実のものではなかった。……いわば影じゃな。声があり、色がある影法師じゃ。……その者から、御身に逢うて話してくれいと、わしがことづけをされたよ……。
なにかな、御身は遠方から近ごろこの双六の温泉へ、夫婦連れで湯治に来て、ふと山道でその内儀のゆくえを見失い、半狂乱になって捜してござる御仁かな』と、ずけずけと訊ねてきました。
女房を見失って半狂乱だと!――」
と雪枝は思いだすのも口惜しそうに歯噛みをして、
「察してください。……わずかでも手がかりを得たいという一心から、怒りを呑みこんで、
『ええ、その者です』と返事をしました。
『やれやれ、気の毒なこと』
と言うと、さらさらと法衣の袖を掻き合わせる音がして、
『わしは旅の者じゃが、この沼は城ヶ沼というんだそうじゃ』
老爺さん、そこは城ヶ沼というところだった」
雪枝は激しく息をして、大きく息を吐いた。と、老爺は煙管の火を払い落とした。吸い殻の落ちた小草の根の露が、油のようにじりじりと音をたてて、煙が立つと、ほかほかと薄日につつまれる。雲はようやく薄くなった。しかし天守の棟は、聳え立つ峰よりも空に重くのしかかる。
「ええ、城ヶ沼とな。はあ、そこらじゅうを夢中で駆け巡らしったものとみえる。……それは山の上ではない。お前さまが温泉へ来さっしゃった街道端の、田んぼに近い樹林のなかにある大きな沼よ。――なんでもそこの水は、谿河の流れをせき止めたのではのうて、昔からこの……ここにある濠の水が地の底で通っているというでがんす。……
お天守の下にも穴が通って、お城の抜け道じゃという不思議な沼での。……わしが祖父殿が造った船で、殿様の妾を焼いた話をしたが、そんときにその幻影が城ヶ沼にありありと映って、空が真っ黒になったというだ。……それさ真実かどうかわからねえが、お天守の棟の影は、いまも明らかにその沼に映るだね。水の静かなときは甍の影が大きい角の竜が底に沈んだように見えて、風がさらさらと吹くときは、水の面を腹を見せて走る竜の鱗を見るみたいにお城の様子が覗けるってだから、以前は沼の周囲に御番所があった。
とはいえ、あそこはな、殺生禁制の場所でがんしたよ。そのうえ、沼の主が住んでるというて、いまもってだれ一人釣りをする者はねえから、鯉や鮒の多いことといったら。……
お前さまが温泉の宿で見なさったはずの、囲炉裏の自在鉤のような奴さ。山蟻が這うように、沼の中をぞろぞろと泳ぐ。
あの沼かね。――ちょっと待たっせい」
と、また眉毛をぴくぴくさせる。
「四手網を張って仕掛けを拵えるのは、近郷近在、わしのほかにはおらぬはずじゃが。……お前さまが見なさった城ヶ沼の四手場の網代の上の黒坊主といえば……はてな……その坊様は大柄なわりに、蒼ざめたような顔色ではなかったかの」
二十
「そう、蒼ざめた顔の……」
と、雪枝は身を起き直して言った。
「鼻が丸く、額が広く、口が大きい……その顔を、闇夜のなかで不吉な色の火が燃えたので、その明かりで見ました。……坊主は狐火だと言ったんです」
「それそれ、その坊様なら、宵の口にわしが頼んで四手場にいてもろうた人じゃ。はあ、そこへお前さまが行き逢わしゃったとは。はて、どうも観音妙智力、不思議な巡り合わせ。旦那さまとわしは縁があるだね」
「たしかに師弟の縁があると思います」
と雪枝は慇懃に言った。
「まあ、冗談は置かっせえ。……ところでその坊様はなんと言ったでがすね」
「ええ、
『わしは旅から旅でふらふらと渡り歩く者じゃが』と、その坊様が言うんです。――
『日が暮れてここを通りかかると、いま、わしが御身に申したように、沼の水は深いぞと注意した者がいた。この四手場に片膝を立てて、暗い水面をじっと見つめていた老人じゃ。漁の具合はどうじゃと問うたら、漁はできておるが魚は少しも捕れぬと言う。
おかしなことを言うものじゃ。それはどういうことかと訊ねると、老人が答えるには……
この城ヶ沼の鯉鮒は、網で掬えば漁はできるが、魚籠に入れるとすぐに消えて、一尾も底に溜まらない。泥鰌一尾獲物はない。ないのを承知でここに四手網を仕掛けるのは、夜が更けると水に沈めた網のなかに、なんともいえない美しい女が映る。それを見たいがために、独りこうやって構えている……』
とその坊主が、老人から聞いたと言っていたんです。……
それでは老爺さん、その老人が貴方なら、貴方が坊主に話されたというその話は、本当のことですか? 老爺さん」
すべて事実だと老爺は答えた。
はじめのうちは、獲った魚は帰り道で魚籠のなかから消えていた。荻や尾花の茂る道、木の下を通る道、茄子畠の畦道、いちめんの藪のなか、丸木橋……城ヶ沼で漁って、老爺が小屋に帰る途中には、穴もあり、祠もあり、塚もある。月夜の蔭や銀河の絶え間で、闇夜に加えてうっかり見落とす場所もある、その要所要所で、道々、狐、狸のやからに魚を奪い取られるのである。そう気づいてからは、煙草入れの根付けが軋んで、腰骨が痛くなるまで下っ腹に力をこめ、八方に気を配ったのだが、瞬きをすれば一つ消え、鼻をかめば二つ失せ、くしゃみをすればフイになる。
しかし、帰りの魚籠が重いうちは、まだ張り合いがあった。そのうちに畜生の化け物どもは横取りし放題で、宵のうちからちょろりとかっさらう。漁るはしから食いつくす。……網代の上で四手網をもたげたところをひったくる。
もっともそんなときは、なんとなく身辺に何者かが襲い来る気配がする。左の手がビクリとするときは左からちょっかいを出し、右の腕がブルッとするときは右の方から狙うらしい。襟首や背筋がヒヤリとするのは、後ろに構えてござる奴がいるとき。頭の上からゾッとするのは、思うに親方がご出張かな。いやはや、そうとはわかっていても、ササッと持っていかれてしまう。
とはいえ身体を蓋に魚籠を抱いて守っていれば、いかに神通力のある畜生といえど、まさか骨を通して魚を奪うこともなかろう。そう思って一心に守っていると、沼の真ん中にひらひらと火を燃やす。はあ、変だわと気が散ると、たちどころに鯉が消える。その手がだめならやり口を変えて、真夜中にどこからともなくアハハアハアハと笑い声をたてる。びっくりすると鮒が消える。
それならこっちもやけっぱちだと腹を据えて、脇の下を少々くすぐられてもじっと堪えて魚籠を守れば、さすがに尖った面や長い尻尾を現して襲ってくることもないけれど、さてそこまでやった日には、網代を組んで四手を沈めて身体を張って、体よく賃金なしで城ヶ沼の番人に雇われたも同然。魚を獲って儲けるどころか、寝酒の足しにもなりはしない。
二十一
魚がかかったと見れば、網を揚げる。網を両手でぐいっと引いてみると、ただの水に目も心も奪われていただけだったと、気づいたときのみじめさ。ガサリと音がしたので、慌てて魚籠をうつむけにひっくり返すと、捕った魚がひらりと刎ねて、ザブンと水に入ってスイスイ泳ぐ。これでは、化け物に取られたほうがましである。
あまりの他愛なさに、無駄な殺生はやめにしようと慈悲心を起こした晩のことだった。これが最後だと網を引くと、大きな四手網が縦に張って、張り裂けそうになった。城ヶ沼一面の水が翻るかと思うほどだ。持ち上げた網が沼の水面を離れると、網の目を濯いで落ちる水が輝き、両隅からザッと、星の輝く空高くに光が映えて、四手網は霞のかかった大きな鏡となる。そのなかにうっすらと、女の姿が映っていた。
「はい、これは、よく噂に聞く水死体が掛かったようだね。こうやって、その網を引っぱって……」
と、老爺は身振り手振りを交えながら、手でつかみ、腰を反らしながら言うのだった。――
「そうやって引きかけたところでがすがな……鮒一尾入った手ごたえもねえで、水がざんざと暴れるだけで。人間が突っこんだ重みはねえだ。そんで網を持ったまま、身体ごと大揺すりで網を揺らしたらば、女の姿はやっぱり揺れて、衣服だか、鰭だか、尻尾だか知らないが、網のなかの女の姿がふらふらと動くだ。はて、変だと手を離すと、ざぶりと沈むだ。その網の底のほう……水んなかに、ちらちらと顔が見える。……その、お前さま、白い顔が真っ直ぐにじっとこちらを見るだよ。
やっ、気がつけば魚籠が網代から落っこちて、泥の上にうつむけになってる。へい、そいつが足を生やして沼へ駆けこまなかっただけでもめっけものだで。畜生どもめ、今夜はこの術でやりやがった。
なんであれ、もう二度と来ることはないと、きっぱりと執着を棄てて帰りました。けれどもおかしなことに、眉がどうだとか目がどうだとかいうわけではねえが、なんともいわれねえ、その女の容色だで。……色も恋もないけれども、絵を見るようで、なんともその美しさが忘れられぬ。
化けてでたなら化けてでたでよし。今夜は蛇になろうかも知れねえが、もう一晩出かけて見るべい」……
そんなわけで、またてくてくと沼へ出向くと、水面に一刷け塗ったような霞の上へ、遠山の峰より高く引き上げた四手網を解いて沈めたが、どの道持って帰られぬ獲物を狙っているのだから、鯉が黄金に光っても鮒が銀に光ってもいっこうに気にとめず、水にまかせて夜を更かした。
風が吹き、風が凪ぎ、水が動き、水が静まる。大沼の時刻も、村里と変わりない。やがて丑三つになったと思う、昨夜と同じころである。それそこに、と網を手に取ったが、その晩は上に引き上げるまでもなく、網代の上から水を覗くと、またありありと顔が映った。
――と、老爺が話す。――
「聞かっせえまし、肩から胸のあたりまでうっすらと見えるだね。ものは試しだと思って、ヤッと引き揚げるとやっぱり網に引っかかって水から出ようとする。……今度はゆっさゆさと手荒く揺さぶると、もみ消すようにスッと消えるだ。――そこでザブンと網を沈める、とまた水のなかへ顕れる。……
そんなことが三夜、四夜と続いたが、いつもその時刻にきっと映るだ。馴染になって通い重ねると、声が聞こえるわけではないが、沈めた朝顔を見るように、襟も咽喉もどんな色だか次第にわかってくるじゃ。目つきといい額つきといい、ぶったまげるほどの別嬪が、いつのまにやらいつもの時刻に、わしと顔を合わせると、水のなかでにっこり笑う。……
その笑顔を思い浮かべるとのお、地団駄踏んでこらえても小屋で寝て過ごすことができぬ。雨が降れば蓑を着て、月の良い夜は頬被り。一晩さえも欠かせねえで、四手場もこの爺も、岸辺の巌のように居着いている。
さて気がつけばおかしなことじゃ。沼の主に魅入られたか、なにか前世の約束で、城ヶ沼の番人になっただかな。どこで死ぬやら考えれば、心細い身の上じゃが、なんとしても思い切れぬ……。いい年をした爺が女色に迷うなどと思わっしゃるな。持たぬ孫の可愛さも、まだ見ぬ極楽が恋しいのも、この女の愛しさと同じことと考えただね。……
さて困ったのは、寒ければ、へい、寒いし、暑ければ暑いと思う生身の身体じゃ。飯も食えば、酒も飲むで、昼間寝て、夜出かけて、沼の姫様を見るのはよいが、それだけでは生きていられぬ」