谺
十五
あそこに見える燈が温泉地だ、と私に教えた若い男は山間の崖を、背負っていた、丈の伸びた雑木の薪を引っかけないように身体を横にしながら、樹の茂った細い道へ、ザッと音をたてて入っていった。
しばらくの間、その音がざわざわと聞こえていた。
なんだか急に寂しくなって、酔い醒めのような身震いに襲われた。燈火を目指して急いで駆け下りる。すると思いがけず、往には覚えのない石段があって、それを下りきったところが、宿の横を矢を射るように流れる谿河だった。――驚いたことに、女を見失った山と城址の山を二つに分ける真ん中で、温泉街を貫いて流れるその川を、いつの間に越えてこの城址のほうへ来たのか、まったく覚えていなかった。
川岸に添って岩を踏みながら後戻りをして、橋の手前にある宿に帰ってきた。この橋というのは、さきほど渡って、対岸から山道を登ってあの婆さんの店に行った橋のことでである。
「お帰りなさいまし」
と、廊下の向こうから早足で、すたすたと来かかった女中が一人、雪枝を見て立ち止まった。
「ごゆっくりさまで」と、左側の畳五十畳ばかりのだだっ広い帳場の、真ん中にしつらえられた大きな炉にかかった自在鉤の、尾ひれを刎ねた鯉の蔭から、でっぷり肥った亭主が、赤ら顔を出していった。
「連れは帰ったろうね」と聞いたとき、雪枝はそれで間違いのないことを信じながら、なんだか胸をドキドキとさせていた。
「奥方さまで。はあ、おい、ちょっとお見申せ」と顎を向けると、そこにいた女中が、
「ご一緒ではなかったのでございますか」
と言うと、ばたばたと廊下を行くと、すぐに二階へ駆けあがった。
なぜか雪枝は他人を訪問したような気持ちになって、上がり口の広土間にぼんやりと突っ立っていた。
山道から後をつけてきたらしい嵐が、袂をひらひらと煽って、炉端へサッと吹きこむと、下伏せになった燈火が暗くなって、炉のなかが明るく燃える。それが壁に並んだ提灯の箱にあかあかと照り映えると、温泉の薫りがぷんとした。
五、六段の階段を残した廊下の高いところから、女中が顔を出して、
「まだ、お帰り遊ばしません」
「下りてきて、ちゃんと申さぬかい、なんじゃ、無作法な」と、亭主が炉端から上を向いてにらみつける。
雪枝は一文字に亭主の前を突っ切ると、女中とすれ違いながら階段を駆けあがり、
「そんなはずはない。そんな、お前」と、たしなめるように言いながら二階へ飛びこんだのである。
「それともお湯へおいでなさいましたのでしょうか、お部屋にはいらっしゃいませんでしたよ」と、女中も小走りでついてくる。
もとより女中が冗談を言うわけはない。いないものはいないのである。部屋を見ると、外出後に掃除をしたらしくきちんと片付いて、点けたての芯を細めた台ランプが大きな影を床の間へ這わせている。二間に畳んで片隅に置かれた六枚折りの屏風がいかにも寂しげに見える。
そしてだれもいない八畳の真ん中に、あの双六巌に似ているという紫縞の座布団が二枚、差し向かいに置かれているのを見たとたん、雪枝は頭から水を浴びたようにゾッとした。ここへもサッと突風が廊下から追ってきて、座敷を吹き抜けて雨戸をカタリと鳴らす。
こうして浦子と別れるのは、あらかじめ決まっていた運命ではないかと思った。……
「『浴場だ、浴場だ。見ておいで』と、倒れこむように部屋に入って、廊下を背後にして火鉢にしがみつくと、ぶるぶる震えていたんです、老爺さん」
――と、雪枝は胸を抱くように片手をそえながら話した。――
「亭主が二階に上がってきました。
『ええ、ちょっとご紹介申し上げます。この男があの、明日双六谷の途中までご案内しますので。さあ、お前、お近づきになっておけや』と、障子の蔭にしゃがんでいた山男に顔を出させました。するとこれが、つい今しがた温泉地の場所を教えてくれた、あの若い男じゃないですか。……しかしこっちはそれどころじゃない」
十六
「こうなると、もう見栄も外聞も構ってはいられない。化かされたのか、たぶらかされたのかして山道を夢中で歩いていたことを話すと、皆まで恥を明かさないうちに、その若い男が、半ば事情は知っていると頷いたんです」
さあ、亭主もとんでもないことが起こったという顔をする。姿が見えないといって、湯殿や便所のあたりを探すのでは追いつかなくなった。
「権七や、おぬしはまず、婆さまの店に走れ。旦那さま、さっそく人を出しますので、お案じなさりませんように。ぬしも働いてくれ、さあ来い」
と若い者をつれてどたばたと外に出ていくころには、部屋の前から階段の上にかけて、女中をまじえて人の姿が絶えないほどに、一階も二階もなんとなく騒がしくなる。
雨戸を開けて欄干から外を見ると、ひんやりとした山の空気が満ちた闇を縫って、橋の上を提灯が二つ、三つ、どやどやと人影が道を左右に分かれて、風に吹き立てられるように飛んでいく。
ものの半時もたたず、まっ先に帰ってきたのは、案内人の権七だった。とはいえ足をつま先立てるようにして待っている身にすれば、夜中までかかったように感じられる。
婆さんに聞いたところ、夫婦連れの客は、うちで采粒を買わしゃっしゃると二人で顔を見あわせながら来た道を戻って、向こうの崖の暗いところに入ったが、それから先は覚えておらぬという。視力の弱い年寄りの目で、暮れ方でもあり、そのまま暗くなってしまったのだろうと、権七は言った。
ただそればかりで、手がかりは何もない。
「やっぱり私と同じように、化かされて道に迷ったのだろうか」
「そんなこともござりますまい。その、奥様は、お前さまを捜し歩いて、それでまだお帰りにならないのでございましょうて。天狗様も二人いっしょに掠わっしゃることは滅多にねえことでござります。いまにお帰りになることでござりましょう。宿でも心配をしておりますで、一晩中寝ねえで捜しますで、お前さまは、まあ、休まっしゃりましたがようございます」
気が気ではないからいっしょに探しに出かけようというと、いやいや山道に不案内な客人が闇の夜道を歩いたんじゃ、崖だの谷だのに気をつけさせて、かえって足手まといになるという。……案内人に雇われた自分が、何も知らない前に道案内をしたというのもなにかの縁だと思う。人一倍精を出して捜すから静かに休め、と頼もしいことを言って、権七はすぐに階下へ下りていった。
ひとしきり騒々しかった宿のなかが、ばったりと静かになって、いつもよりよけいに寂しく夜が更ける。……さあ、一分一秒、血が冷え、骨が刻まれる思いである。時が経てば経つほど、それだけ浦子が帰ってくる望みがなくなっていくのである。九時、十時、十一時を過ぎても音沙汰がない。ときどき廊下を行き通う女中が通りすがりに、
「どう遊ばしたのでございましょう」
「うむ」
「ご心配でございますね」
「ああ」
――まともな返答もできず、ため息をつく雪枝の顔を見て、二、三人の女中が逃げるようにすり抜けていった。
やがて時計が十二時を打った。女中が床を整えに来て、蒲団を一つ延べ、二つ延べようとしたので、
「敷かなくてもいいだろう」と言ったときは、我ながら変な声だと思った。――もちろんその蒲団に寝たわけでもなく、例の座布団を枕もとにずらして立て膝で座っていた。落ちつかない気持ちで、なにを聞くともなく耳を澄ますと、谿河の流れのザッという響きに、落ちた、流された、打ち当たった、岩に砕けた、死んだ――ということばが混ざるように聞こえる。
「ああっ」と忌まわしい妄想を手で払うと、座り直してそこらを見まわす。とそのとき、そっと座敷を覗いた女中が、黙ってスーッと障子を閉めた。――夜も更けたから寒いだろうと、親切心から閉めただけだろうが、未練たらしいから諦めろと愛想づかしをされたように思えて、カッと顔が熱くなる。
背中にゾクッと悪寒が走った。背後を見ると、床の間に袖畳をした女の羽織と、輪にしてまとめた扱帯が、なんとなく色が冷たくなったようで、記念のように見えてきた。――持ち主がいなくなると、かえってそんなもののそれぞれ一つずつが生命を持ちはじめたように感じられて、ちょっと触るのもはばかられる。
どこかでシュッ、シュッと、風が鳴っている。……
十七
「うら悲しい、不安げな、いやな声で、
『お客さまぁ』
『奥さまぁ』と呼ぶ声が山颪の風に響いて、耳へカーンと谺を返してズズンと脳をえぐる。
『お客さまぁ』
『奥さまぁ』……と、声を聞くのもしのびない。その声が少し裏山近くまで来たかと思うと、女の声が交じって、
『奥さまやぁ』と呼んだ。これがヒイッと悲鳴をあげるような声で、家内が絞め殺される叫びに聞こえる。……もうたまりません。
裸足で廊下に出ると、階段の上から逆さまに帳場を覗いて、
『ご主人、ご主人』
と、海が凪いだあとでぶるぶる震える波のように見える畳の上に、男だか女だかが二人ばかり打ち上げられたふうに突っ伏した黒い人影の真ん中に腰を据えて、手酌でちびりちびりとやっていた亭主が、むっくりと頭を上げて、
『まだお休みになられませんかな』と言いながら四、五段上ってくると、中途の上下で手摺越しに顔を合わせました。
『また交替して捜しに出てくれたのかね。ああ言って呼んでいるのは』
『へい、そうではなくて、山奥まで行った者たちが、近場に引き上げて来たのでござります』
『まだ行方はわからんのだね。ああして呼びかけてるのをみると』
『へい、なにしろ、もともとが山も谷も数が知れない土地でござりますけな……』
と言って嘆息をすると、頭を振ってくしゃみをしました。
『しかし、あれでござりますよ。なにぶん夜も更けたことですし。道案内をする者も明日まで捜索を控えるでしょうし。また、奥方さまのほうも、どの道おくたびれでござりましょうから。いずれにせよ夜が明けましたらわかるに違いありません』
『わかるとは? 死体の場所がわかるというのか』
『ええっ?』
『死んだらそれまでだ』と、やけくそなことを言って、寝床のある部屋へ戻ってぶっ倒れた。
『お客さまぁ』
『奥さまぁ』と呼ぶ声を十回ほど聞いたその後に、門口の戸がガラガラと大きく鳴って開きました。私は着物の襟を押しつけて耳を塞ぎました! たとえだれかが無事だと知らせてきても、もう聞くまいと拗ねたようになって……もちろん、なんとも言ってはきません。
そのくせ、ガラガラとまた、今度は大戸の閉まる音がしたときには、これでもう、家内と私はあの世とこの世で別れ別れになったのだと思って、思わず知らず涙が落ちました。……
すると先ほど、敷かなくてもいいと言ったけれど、それでも女中が敷いていった隣の寝床の掻巻の袖が動いて、目を覚ませとばかりに揺さぶってきます。
『おおっ』と飛びつくように返事をして蒲団から顔を出しましたが、もとよりだれもいようはずがない。枕だけが寂しく置かれていて、こんなに悲しい思いをするなら、いっそ枕のない木賃宿にでも泊まったほうがよかったなどと思う始末でした。
じっと枕を見つめていると、意識がぼんやりとして、並べた寝床の家内の枕の両脇にするすると草が生えてきます。その短い、萱だか薄だか蘆だかわからない草がみるみる伸びて、覆いかぶさるほどの丈になりました。……そのなかへ掻巻がスーッと消えると、大きな蛇がのたりと横たわって、私のほうへ鎌首をもたげた。私はといえば、ぐったりして手足を動かす元気もありません。首を締めて殺すのなら殺してくれと思って、蒲団から這い出るようにして首を突きつけると、蛇は真っ黒なかたまりになって、小山のような機関車がズズズッと頭を轢いて通っていく。すると、柔らかいものに包まれたような気持ちになって、胸がふわふわと浮きあがると、身体を反らせて、手足をだらりと下げて、自分の身体が天井にくっつく、と思うとハッと目が覚める。……夜はまだ明けないのです。
同じようなやるせない夢を何度となく見続けて、半死半生の体になり、やっと我に返ったときに亭主が来て、
『お国許へ電報をお打ちになさりましてはいかがでござりましょう』と言いながら、枕元に座っていました。
『ばかな』
と、一言のもとに退けたんです」
十八
「けがや事故、病気ならともかく、どうして自分の愚かさから起こったことを……」
――雪枝は老爺にそう語るとき、濠端の草にあぐらをかいた片膝に、握りこぶしをぐいっと支いて、腹を波うたせるほどの気勢をこめて言った。――
「女房がいなくなったなどと、親類知己へ電報は打てない。
『なんにせよ、もうすこし手がかりが見つかるまで、電報は見あわせよう』
『で、ござりますが、念のために、お国許へお知らせになりましてはいかがなものでしょう』
『いいから、死体でもなんでも見つかったときにすればいい』
『へい、その……死体がどうも』
『何だ、死体がどこにあるかわからないと言いたいのか』
私は亭主のことばが釋に障って、胸が張り裂けるようでした。電報を催促するのが、もう死体になっていると決めつけたように聞こえて、奴の言い草がなんとも忌まわしく思われたのです。
『おれが見つけて持って帰る。死体が来るのを待っていろ』とにらみつけて、蹴り立てるような足どりで廊下に出た。
――帳場に人がたくさん集まって、なかには上がり框に腰をかけた草鞋履きの巡査の姿もあったのは、やっぱりこの件についてらしいのです。巡査は痘痕の残った柔和な顔で、気の毒そうに私を見ていました。私はなにも言わずにフイと、人々の視線につかまっていた身体を振りもぎるように、ずんずんと門を出ていきました。
雲は白く山は蒼く、風のように、水のように、サッと青く、サッと白く見えるだけでした。女の黒髪を思わせる濃い緑、紅色の褄に見紛う山椿の一輪といった手がかりさえ、一つも見つかりません。
目がくらむほど腹が空いたので、よたよたと宿に戻って
『おい、飯を食わせろ』
そうしてまた、宿を飛びだす。崖でも谷でもかまわずにほっつき歩く。――雲が白く、山が青い。……それ以外に見えるものはなにもない。目が青く、脳が青くなってしまったかと思うほどです。ときどき黒いものがスッスッと通りますが、犬だか人間だか区別がつかない。
……客人はおかしくなった、気が違った、という声が、嘲るかのように、憐れむかのように、呟くかのように、また呪詛うかのように耳に入ってきます。……
『お客さまぁ』
『奥さまぁ』と呼ぶ声が峰から伝わってきます。それが谺を返して谷へカーンと響きます。――雲が白く、山が青く、風が吹いて水が流れる。
『客人は気が違った』と言っているのがわかる。
よし、なんとでも言え。二世を誓って契りを結んだばかりの恋女房が、ふとかき消すように行方不明になった。それを探すのが狂人なら、飯を食う者はみな狂人、火が熱いというのも変で、水が冷たいと思うのも可笑しい。温泉が湧きだすなんてのは、狂気の沙汰の限りを尽すというものだ。ハハハハハハ」
――と雪枝は、額にかかった髪が揺れるほど、膝を抱えて高笑いをした。――
雲が動いて、薄日が射して、反らした胸と仰いだ額をかすかに照らすと、雪枝はため息をもらし、酔ったかのような表情を浮かべたが、唇は白く、目は血走っていた。
――聞いていた老爺は小首を傾けた。――
すると不意に雪枝は、まるで幼い子がするように、両方の目を両掌できつく覆うと、がっくりとうつむいた。背中に暗く、雲の影が映している。
「そのうちに周囲が真っ暗になった。暗くなるのは夜になったからだろう。夜の暗さが広いのは、自分が田か畑か平地にいるからのようだ。野原かもしれない。……一望して際限のない夜のなかに、墨がにじんだように見えたのは水のようだった。……が、水でも構わない。女房の行方を捜すためなら、火のなかだって厭いはしない。そのままずかずかと踏みこもうしたそのとき、
『ああ、水は深いぞ。だれじゃ、水に入ろうとするのは』
暗がりからしゃがれ声をかけて、私を呼びとめた者がいました。
闇を透かしてみると、背丈の高い大柄な坊主が、地上三尺ばかりの高いところにいました。まるで宙で胡座をかいているかのように思えましたが、よく見ると水辺に網代の仕掛けを組んで、魚を追いこむ場所に板を渡してあり、その上に腰を据えて、身構えていたのです。
あろうことか、出家のくせに魚穫りとは。……手前の水のなかには、大きな四手網が沈めてあります。……
老爺は眉毛をひくつかせた。
「はての」