采
十三
「おお、あのいろいろなものを作ったのは老爺さんでしたか」
と雪枝は、目の覚めたような顔つきになって、
「面も頭もお製作えになったんですか。……ああ、いや、鷺のお手並みを見たからわかる。軒にぶらさがった獅子頭や狐の面など、どれほど立派なものだったかわからない。が、それに気がつくほどの思慮があれば、こんな間抜けな――相手が鬼であれ魔であれ、自分の女房を奪われるような、馬鹿な目には遭わない。
失礼ながら、そんなものに目を留めることもなく、
『采はないか』
『お媼さん、あの、骰子はありませんか』
と連れの女もいっしょになって聞いたんです」――
双六巌で振るつもりの采である。よく考えれば夢のようなことだった。
「一六、三五と振る采粒かの。はい、ござります」と、隅の壁に押しつけてある薬箪笥の古びたようなものの引き出しを開けると、鼠の糞がぱらぱらとこぼれた。そのなかから畳紙に包まれたものを取りだして、ころころと手で揺すりながら軒の明かり先へ持って出た。
「猪の牙で拵えました。ほんに良い采でござります。ご覧じまし」とにこにこしながら、手のひらを反らせて乗せたものを、二人で一つずつ手に取った。
采は宝珠のように思われた。透きとおるほどに綺麗に磨かれていて、ぽちぽちと打たれた黒い目が、ふと、雪の中に影を現した連なる山々、秀でた峰、深い谷のように見えた。
「可愛いじゃありませんか」
と、連れの女は采をちょっとつまんで、手のひらに置き直すと、「お媼さん、思い通りの目が出るでしょうか」と、右の手を蓋にして胸に押しつけると、ころころと振ってみている。
雪枝はあのときのことを思いだしていた。身体を背中から抱きしめていたものが、ずるずると遠くへ持っていかれたようになった、あの感覚を。
「あのときのことというのは、父がこの土地の祠から持って帰った、あの、手のひらに秘密を蔵した木像の話です」
「おお」と頷いた老爺は、腕組みをした肩を動かした。
「ああ、それじゃあ、木彫りの美人が、父のナイフで突き刺されて、ストーブのなかで焼かれたときまで、ちっともその秘密がわからなかった、微妙な音色をたてていたのは……この采と同じものであったのかもしれない。
そのとき、そばに立った私の家内の姿が、あの木像にそっくりだと思ったとたん、遠い昔の記憶がありありと甦るようで、不思議なことに、袖を並べていたその浦子という家内の姿が、ずっと離れて遥かな向こうへ……」
と雪枝は語って、心の迷いを押しやるように手を振った。
「そのときのことを思うと、老爺さん、こんな話をしているうちにも、貴方の身体も遠くへ行ってしまう……ふらふらと間が離れていく……」――
そして、婆さんの店添いに浦子の身体が向こうへ歩いて、みるみるうちにそれが、谷を隔てた山の絶頂へ――湧きでる雲とはうらはらに、動かぬ霞のかかったなかへ、裾や袂がはらはらと夕風になびきながら、その姿が薄くなる。
あのあたりに夕暮れの鐘が響いたら、姿が近くに戻るのだろう――などと、だれに言われたわけでもなく自分で安心して、ますます追憶にふけっていると、薪を焼くのか炭を焼くのか、谷間のあちらこちらにひらひら、ひらひらと青白い炎があがった。
思わず彫像を焼いたストーブの火が心に浮かんで、なぜか、急に女の身が心配になった。
「浦子」
と読んだが、返事をしない。
「浦子、浦子」と言ったが、返事をしない。そのうちに雪枝はきょろきょろとしはじめた。やがて二歩、三歩ずつ、前後左右をばたばたと行ったり来たり……。
不安と焦燥が湧きおこってきた。
第一、浦子だけじゃない、そこにいた婆さんも見えなければ、それらしい店もない。
いや、これはおかしいぞ。一人だけがいなくなったのなら、女がどうかしたという話だが、店も婆さんも消えてしまった。とすると、妻がさらわれたのではなくって、自分のほうが化かされたらしい。
「おおい、おおい」
と、むやみやたらと呼びかけながら、山道を駆けずりまわった。
十四
「だんだんと暗くなる、もう目がくらんでいる、風が吹きだす。この風は、横面を削るように冷たく、昼間蒼く澄んだ山々のはざまから起こったその風が触れてきた木の枝、岩角、谷間に、白い雲がちぎれて鳥の留まるように見えたのは、いまだ雪が残っていたのか、と思うほどでした。
『ま、どこへござっしゃる、旦那』
と、すたすた小走りに駆けてきて、背後から袂を引き留めた、山で生計を立てているふうな若い男があった。
『お城址へ行かさってはなりませぬだよ。日も暮れたに、とんでもねえこった』と、すこし叱りつけるように言います。
煙が立って、ずんずんとあがる一筋の坂がありました。やがてその煙の裾が下伏せになって、ぱっと広がったような野末のところへかかっていました」
そこまで語った雪枝は伸びあがって、海に突き出した峰から湾の外を臨むかのように背後の広野をながめた。……明け方の雲はその野末を離れて、細く長く縦に青空の糸を引きながら登っていく。――人も馬も、そこを通ったら、点が散らばるかのように描かれるだろう。鳥が飛べばその姿が見えるだろう。――けれども天守の屋根は森が包んで霞がかかり、いまだに暗い。そのうえ、野の果てを引き上げていく雲もこちらを目指して密集してくるようで、老爺と差し向かいになっている頭上の中空で雲が厚さを増していく。その濃く暗いところから、黄金色に赤みのさした雲が、むくむくと湧きだす。太陽はそこまで上った。――水辺の蘆の枯れた葉にも、さすがに薄い光りがかかって、つのぐむ新芽もすこし煙りかけている。この煙は月夜のように水の上にも這いかかっている。船が焼けた痕跡はわからず……ただ陽炎がしきりに形を作ろうとするのがわかる。――やがてその陽炎は、野の一面に生い茂る草を伝って、しだいにひらひらと、麓に下りてさまようのだろう。
……さて、日の光が差しこむと、北国の山中とはいえ人里の背戸や垣根に、神が咲かせた桃や桜の色が、どこともなく空を照り返すことになろう。まだ早朝の空に、天守の上から広野を覆うように箕の形に雲がむらがって、ところどころに凄まじく渦を巻いて、霰でもほとばしり出そうである。その雲は、風が動かすのではない。あたりはひっそりとしている。峰に当たり、頂きに障って、山々のせいで動きを得るのである。
雲が動くとき、雪枝と老爺の姿は大きくなった。じっとするとき、彼らの姿は小さくなった。――飛騨の山のこのあたりは、土地が呼吸をするのかもしれない。
伸びあがって周囲を見まわした雪枝は、草に膝をついていた。
「そのとき私がさしかかったのは、どうも、この原の向こうの、手前だったらしい。
『お城址へ行かさってはなりませぬだよ』と言って、その若い男が引き留めました。――私が家内の姿を見失ったのは、高い山の稜線にあたるような場所でしたから、どうやら向こうが空へ上がったのではなく、自分が谷底へ落ちていたらしい。そこで傷だらけになってようやく出てきたところがこの原の手前で、さきほど夫婦連れで散歩に出た場所とはぜんぜん方向が違う。――ご存じの通り、温泉は左右へ見上げるような山を控えたドン底から湧いています。
で、婆さんの店があったのは南の坂で、この城址は北の山道をたどっていくのでしょう。
土地の男に様子を聞いて、
『ああ、化かされた……化かされたんだ。いや、薄髯の生えた面をして、なんとも恥ずかしい』
と、しきりに恥ずかしがるくせに、アハハハと得意げに高笑いをしていました。自分が化かされたのであって、家内が無事であるなら、かえって幸福だと思って喜んだのです。
『偉い。東京から来た客を欺すとは、ここいらの化け物は立派なもんだ。ひょいと抱いて、温泉宿の屋根越しに山を一つ、まったく方向違いのところへ私を移動させた手際といったら、すばらしいもんだ。このへんには、そういった有名な狐でもいるのかい?』
などと酔っ払いのようなことを言ってひょろひょろとしながら、その男に導かれて引き返しました。
『狐や狸ではござりません。お天守にござる天狗様だ。ときどき悪戯をさっしゃります』
『なに、天狗』
と言うと、その男が慌てて私の袂を引いて、
『ええっ、大きな声を出さっしゃりますな、聞こえますがな』と、男は顔色を変えながらも、足もとの木の梢から透いて見える、燈の光を指さしたんです」