技芸天
九
「父はある県の書記官でした」
雪枝はポケットに手を差し入れて、
「ある年、この地を巡回したことがありました。私が七歳のときです。まだそのころは、今の温泉はなかったようですね」
「温泉の開けたのは最近のことでがすよ。そうでがんすとも。前から寂れてはいましっけど、お城の周囲にまだ町の形が残ってたころは、温泉はなかったっけの。
酷え地震が起こってから、まともに残ったのはお天守さまだけじゃ。人間も家もおっ潰して、濠も半分がた埋まりましたっけ。冬のことでの。その前兆であろうか八尺あまりも積もった雪が一晩で融けて、びしゃびしゃと消えた。あれ、青い松が見えたわと言ってるうちに、天も地も赤黒くなって、生き物という生き物はみな、泥の上を泳いでたでの。
その地震の揺れで今のところへ温泉が湧き出した。酷い目を見させたとて、天道人を殺さずというものかね。生命だけは助かっても飲み食いの立ちゆかなかったところを、温泉で賑わってきたもんで、どうやらこうやら人並みに暮らせるようになった。その代わり、元から名所だったお天守さまのこのあたりは、人の寄りつかぬ凄いところになりましたよ。見さっせえ、いまに太陽さまが出なさっても、濠端にかけての城址には、お前さまとわしのほかには人間らしい影もねえだ。たまに突っ立って歩く者がいても、性悪な野良狐か山猫だよ。
こんなところへ、ぬしはなんのつもりで姉様の人形をつれて来さっしたか」
「それを順にお話しましょう」
と、雪枝は一度塞いだ瞼をパッと開けて、
「父がこの土地を巡回したときのことです。どこかの山陰の小さなお堂に、美しい二十ばかりの女の、珍しい彫像があったのを見つけて、私の玩具にさせようと、堂守に金をやって、供の者に持たせて帰りました。姉妹がいるわけでもない私は、姉さんが一人できたように、負ぶったり抱いたりして遊んだのです。大きな彫像で、食事時などに並んで座ると、七歳だった私の坊主頭よりもずっと上に、髪の垂った島田髷が見えたんです。衣服は白無垢に水浅葱の襟を重ねて、袖口と裾先は、同じく白い地に常夏の花を散らした長襦袢を着て見えるようにできていて……それは上から着せたのではなく、木彫りに彩色をしたものだった。しかし不思議なことにその白無垢は、どうやって置いていてもちっとも埃が溜まらず、虫も蠅もついぞ集ったことがない。花畑にでも抱いて出ると、きれいな蝶々が帯に飛んできて留まったものです。もう一つ不思議なのは、立像として刻まれているのに、膝を柔らかに曲げてすっと座ることです。
両手は乳のあたりで、両方の袖が合うように重ねられていたんですが、重ねた手の甲がふっくらとして、なかになにか入っていそうで……。
駆け寄って『姉さん』とつかまったときなど、肩が揺れると、ころりん、ころりんと、じつにそれは、なんとも微妙な、幽かになにかの鳴る音がする。父母をはじめ、それを聞いた者は、なんだろう、なんだろうと言い合ったが、指を折らなければわからないから、むろん開けてはみず仕舞いになった。
その彫像は……ですね、父がストーブにくべて焼いてしまうことになったんですが、とうとうそれでもわからなかったんです。
ちらちらと雪の降る晩方でした。……私は、幼児のむら食いというやつで、欲しくないと言ってましたが、先に両親が差し向かいで晩飯を食べていました。そこへ彫像をおぶって、食卓のある西洋間に入っていったんです。ドアを開けようとしながら『姉さん』と言って仰向くと、上からもうつむいてこちらを見たように思いました。……黄昏どきの、長い廊下のドアのところで、鬢の毛がむらむらと、そのときはそよいだように思いました。眉の下でぱっちりとした目が、黒い睫毛を動かして瞬いたようで。……
その顔を見上げながら、そのままドアを開けると、小さな私の背中で、裾のあたりを後ろ抱きにしていた彫像が反りかえって、天井のあたりまで聳えて見えた。
そのとき、室内履きの先を反らせた母親の白い足が、テーブル掛けと絨毯の間で動いた。窓の外には、雪にその光りを撫でられて、さらさらと音をたてていそうな月が浮かんで、植え込みの梢がちらちらと黒かった。燃えさかるストーブのほてりで顔を赤くしながら、ナイフを持ったまま顎杖をついて仰向いていた父がひょいとこちらを向くと、その顔が真っ青になりました」
十
「東京駿河台にあった家の、その二階でした」
と、青年は言いかけて、左右を見た。野と濠だけではなく、黙ったまま、不審顔をしている老爺がいた。……雪枝には、それが現実であることをことを確かめて得心したという表情があった。
「父がすっくと立ちあがると……
『おのれ!』と言って、つかつかとやってきましたが、私の身体を一回転させた拍子に、肩から逆さまになって女が落ちた。裾のところがまだ肘に懸かって、反り橋のようなかたちになって彫像の頭が床に着いたんです。仰向けになったその白い喉を、父がナイフでざっくりと、斬ったのだか、突いたのだか。
『きゃっ』と叫んで、私は鉄砲玉のように飛びだしたが、廊下の壁に額をぶつけて、ばったり倒れました。……気の弱い母も、引きつけをおこしてしまったそうです。
母は、父がその木像の胴を真っ二つに折って(案外たやすく折れてしまったといいますが)、いきなり頭からストーブに突っこんだのを見た。その折れ口にふと目を留めると、内臓がすっかり刻みこまれていた。まるで生身の人間のそれのような長い腸が青い火に包まれるのを見て、あまりのことに気絶したのだと、のちに語りました。
父は歳を取って亡くなるまで、そのときのことについては一切口にしませんでした。もっともそれがあって二ヶ月ばかりは、ともすると一室に籠もって、だれとも口を利かずに考えごとをしていたそうですが、それ以外に変わったこともなかったんです。
ただしそのときから、両親は私を男にしました。それまで、先に生まれた子どもが三人とも育たなかったので、私を女として育てていたのです。だから雪枝という女のような名前がついていました。
その名前をそのまま号にして、今では彫刻という仕事をするようになったのも、幼い頃からその像のことが、目からも心からも身体からも離れなかったせいなんです。
こんな辺鄙な温泉へ来ましたのも、じつは、懐かしい、忘れられない、という気がしたからです。どこかはわかりませんが、その木像は、父がこの土地から持って帰ったというじゃありませんか。
山も谷も野も水も、この地に心ひかれぬものはなく、そこには私の師匠がいると信じていました。そして貴方にお目にかかった。
――あの、白無垢に常夏の長襦袢、浅葱の襟をつけて島田に結った、両の手に秘密を蔵した、絶世の美女の像を刻んだ方は、貴方のその祖父さまではないでしょうか」
雪枝はじっと相手を見つめた。
「それとも、あなたかもしれない、あなたかもしれません。先生、おっしゃってください。一生のお願いです」
「若え旦那、祖父殿のことはわしも知らんで、いま言わっしゃったような悪戯を、なにかしたのかもわからねえ。わしはといえば獅子鼻や団栗目、御神酒徳利の口なんて、ひょうきんな顔なら真似もできようが、弁天様のような美女となると手に負えねえ……まあ、そんなことは措かっしゃい。じゃが、お前さまは山が先生、水が師匠というそれだけの理由で、わしらにとっては天上界のような東京から、はるばると飛騨の山家まで来なさったのかね」
と、しゃがみこんで両腕を膝に載せたまま、くわえ煙管で身を乗りだす様子は、先刻目にした、嘴の長い鷺の船頭が化けた姿のように見える。
雪枝は、しばらくためらっていたが、
「仮にも先生と呼んだ貴方に向かって、嘘は言えません。……一度は来てみよう、ぜひ見たいと、雪枝の身体とは生まれる前からの許婚の約束があるようなこの土地です。仏教信者が善光寺や身延へ巡礼をしたがるほどに願っていたのに――今度こそ行こう、というときになると信仰心が鈍って、観光のような気持ちで来ることになった。
それが悪かったんです……。
家内と二人連れで来たんです。しかも結婚式を挙げたばかりだというのだから」
婚礼の杯を納めるなり汽車に乗って家を出た夫婦ゆえ、人間だか蝶だかわからないほどに浮き足立っていた。はるばる来たといわれても、なんの決意があったわけでもなく、きまりが悪いだけである。気も魂もふらふらで、全国津々浦々の菜の花の上を舞い歩いても疲れぬほどの元気。それでも、脇目もふらずに夜昼かけてこの地を目指した、仕事のことも気にかけていた、というのなら山にも水にも申し訳が立つというものだが、あっちへ二晩、こっちへ三晩と、泊まり泊まりの道草ばかりして来たのだ。――ところどころの温泉では、花には紅、月には白くといわんばかりに嫁の姿で景色を彩ると、前後左右から額縁を掛けるように見とれながら付き添って、木を刻んで作ったものなど、こうも美しくはなるものかと、自ら彫刻家であるのを嘲るといった始末。
十一
斧も鑿も忘れた者には、木曽、碓氷、寝覚の床を訪ねてみても、旅だか家だか区別もつかず、そんな男がどうしてこの山や谷を、神聖な技芸の天、芸術の地と思うだろうか。
ここに来てみる以前は、こう考えていた。峰は雲に、谷は霞に、永遠に封じられて、ただの修行者ではなく、自分たち、芸術の神を崇め、渇望する者が、我が身を削る思いで精進の鷲の翼に乗らなければ、分け入ることのできぬ土地であろう。流れには斧の響き、木の葉には鑿の音、白い蝙蝠、赤い雀が麓の里を彩って、辻堂のなかなどには霞がかかって、花の彫刻が施されていもいよう。
そこまで信じていたのに、恋しい女といっしょに来たせいで、嶺が雲に日を刻み、水が谷に月を彫った、偉大な彫刻と見るべきこの地の風景をながめても、女が挿した笄ほども目に留まらなかった。温泉宿へ泊まった翌日も、以前ならばなによりも先に、これこれこういったお堂はないか、それらしい堂守はいないかと、父親がかつて持ち帰ったあの神秘な木像があった場所の心当たりを探していたはずだが、そんなことは気にもかけず、忘れてしまっていた。
実際、温泉宿の亭主を呼んで、まず尋ねたのは、噂に伝え聞いた双六谷のことだった。
「老爺さん」
と雪枝は嘆きつつ、話を続けた。
温泉の町の渓流に沿って遡ると双六谷というところがある――そこには一座の大盤石があり、石の面には自然の力で双六の目が刻まれているのだというが、事実なのか、と聞いたのだった。
亭主が答えるには、いかにも、このあたりで噂するには、それは春の曙のように蒼々と霞んだ盤石で、藤色がかった紫の筋が、寸分たがわず双六の目になっている。
「まさしく、いま申し上げたような具合だと思われます」
そのとき座っていた座布団が、青みがかった甲斐絹の生地であり、ちょうど濃い紫の縞があった。そのことに気づいた夫婦は顔を見あわせて、まるでもう、その双六盤の石をはさんで差し向かいになっている気になって、思わずほほえんだ。
――雪枝は話し続けた。――
この旅に喜びを感じたとはいっても、それは神の斧による崇高な製作の技を会得した、などというたぐいのものではなかった。実際のところ、合戦の雄叫びのような流れの音も春雨のささやきかと思えるほどに、温泉の煙が暖かにたなびき、山国ながら紫の霞のたちこめるなか、菫の花を満たした池に喩えたい寝室で、蒲団のなかの寝物語に、鴛鴦の夫婦が語りあっていたのは、こんな他愛のない話だった。
主従は三世、親子は一世、夫婦は二世の契りだというが、
「ほんとうに生まれ変わっても、また結ばれるのでしょうか」
と、浦子が言った。
内心では、二世どころか三世までもと雪枝は思っていたものの、ことばの言い合いを面白がって、
「なに、来世なんてものがあるものか。魂は滅びないとしても、死ねば夫婦は別れ別れだ」
とはぐらかすと、浦子は褄を引き合わせながら起き直って、
「私は今世だけじゃいやです」
とツンとした。
「それでは二人で、夫婦は一世か二世か賭をしよう」
仮にも来世があるのかどうかなどということを賭にするのである。菫の花を引っかけあって草相撲でもするような勝負では、神聖を損なうことはなはだしい。聞けばこの山の奥には天然の双六盤があるという。その仙境で一局手合わせをしよう。そしてその勝敗を記念にして、ひとまず今回の蜜月旅行を切り上げよう。
けれどもその双六盤は、たんなる土地の伝説かもしれない。本当にあるのなら奇跡というようなものだから、念のためにその翌日、温泉宿の亭主に聞いたのが、先に述べた青石に薄紫の筋が入った、あたかも二人が敷いていた座布団に似ているというその石であった。
「案内人でも雇えるだろうか」
それを聞いた亭主は、とんでもないといった顔つきで二人を見たが、それにはこんな理由があった。
十二
双六という場所は確かにある。天が作った奇跡のゆえに、その地は四五六または双六谷と呼ばれ、それにあやかって温泉も双六という名で世に聞こえている。しかし、谷奥までを探検して盤石を見た者は昔からだれもいない。土地の名所とはいいながら、案内人を連れて気晴らしに行くといった、簡単に踏みこめるような場所ではない。双六盤は実在するとはいっても、それがそこにあるというのは、月に玉兎がいるというのと同じだ、と亭主は語った。
土地の者が、あそこの空だと眺める谷の上には、白い雲が行き交い、紫や緑の日の光が差しこみ、月明かりの下では黄や桃色の霧が立ちのぼるのが時々は望まれる。珠か黄金か世にも尊い宝が潜んでいると、押さえがたい憧憬に駆られても、風に木の葉が鳴るほどの、少しのことすら知れてはいない。緋葉を分け入る道も知らない。……ちょうど燦爛として五色に煌めく天上の星を指さしても、手には取れないのと同じである。
ただ深山で木を切る樵夫が、ともすれば、自らが木を伐る音の谺ではなく、ころりん、からからと、妙なる楽器を奏でるような、怪しく、幽かな、心惹かれる響きを聞くことがある。そんなときは、森の枝の一つ一つが黄金白銀の糸になって、その音を伝えるかのように感じるという。盤石で魔神が向きあって、骰子を投げる響きなのかもしれない。なんといっても飛騨谷随一の秘境、近づきがたい魔所である、と重ねて亭主は語ったのである。
話を聞いた二人は、双六谷が聞いたとおりの他界であると信じると同時に、いやが上にも双六の賭が意味深いものになったことを喜んだ。もちろん、谷へ分け入ることについて躊躇したり、恐怖を抱いたりするようなことは少しもなかった。
――と、雪枝は続けて語った。――
「そのうえ好奇心に駆られてもいましたから。すぐにでも草鞋を買ってくるように言おうと思ったけれども、もう日が暮れたことでもあるし、宿の主人に無理を言って途中までの案内人を付けさせることにして、その日は晩飯を済ませました」
翌早朝には双六谷へ出発しようという意気込みで、今夜も一世か二世かの賭は勝敗をつけないまま、仲睦まじく過ごすのであろうと思っていました。しかし寝るにはあまりにも早い。一風呂浴びたあとで、二人でぶらりと山道へ出てみることにしたのです。ちょうど、狐の穴には灯りは点かないが、猿の店には燈火も点るだろうといった時刻で、なんとなく薄ら寒い。そこらにたなびく霞も、遠山の雪に照り返されているようで、夕餉の煙がもの寂しく谷へと下っていく。五、六軒の藁屋が建ち並ぶなかでも、とりわけ間口の狭い、掛け小屋のような小店で婆さんが一人、穴のなかから通りに目をこらすようにして商売をしていた。その店に並んでいたのは、獣の皮や獅子の頭、狐、猿の面、般若の面、二升樽ほどもある座頭の首――いや、それが白い目をぐるりと剥いて、亀裂の入った壁で仰向いているのは、あまり気味のいいものではなかった。だれか拵える者がいて、それを直売しているらしい。破れた筵の上は、藍の絵の具や紅殻だらけで、婆さんの前垂れにも、ちらちらと霜のように胡粉がかかっていた。その他、角細工も多種多様であったと雪枝が言うと、
「ハッハッ、それは婆様の家じゃ」と老爺は不意に笑いだして、
「茶でも飲ってこられたかの」
「ああ、お知己の店なんですか」
「昔の恋人でがす。あれでもの、お前さま、若い盛りの時分もあったもんだ。人形を欲しがるような年ごろじゃ。山鳥は尾羽に恋を映すというが、あごひげ撫でながらおらの尻を見せたところで、娘の気は惹けやせん。木の枝に登ってのこぎり引きながら、猿の脚と並べて見せる尻じゃ。そこで、人形やら、おかめの面やら、ご機嫌取りに拵えて、持っていってはにっこりさせて、その顔に他愛なく見とれていたものでがす。ハハハ。はじめのうちは納戸の押し入れに飾っての。それを見るなと隠していたら、恐ろしい、男を食って骨を隠しているのかと村の者がからかったっけの。……それが今じゃあの狸婆が、昔の色仕掛けでわしを強請って面を作らせ、商売にしてるんでがんす。ほんに孤家の鬼女になったようなもんじゃ。旦那、なにか買わしゃったか、たんと値切らっしゃればよかったのう」