朱鷺船
一
濡れ色を含んだ曙の霞のなかから、しっとりとした姿かたちの女を、片腕を引っ担ぐように背負いながら、一人の青年がとぼとぼと歩み出てきた。
顔色は真っ青で、目が血走り、伸びた髪が無帽の額にかかって、ところどころボタンのちぎれた埃まみれの薄汚れた背広を着て、よろよろしながら歩いている。
どこからか女を助け出してきたように見えるその姿は、山道や野道の茨のなかを夜を徹してさまよっていた落人が、やっとの思いで夜明けを迎えたようでもあるし、命がけの喧嘩から全力で抜けだしてきたところで精根つきて、疲れ果てているようでもある。しかし、女と駆け落ちをしたにせよ、喧嘩に巻きこまれたにせよ、彼が出てきたところは、そこから逃げるとか、こっそり抜けだすとかいった場所ではない。背後には村も里も松並木も畷道も、家すらもないのだから。
そこには、峰だけを残して山を崩したように、昔の城址の天守だけが残っている。天守は翼を広げて中空を翔る鷲のようにそびえ立ち、その甍が突き抜けた雲は、鷲の白い胸毛にも思える。夜明けの空を動きはじめた霞の上に、天守と同じ高さに頂を並べた遠近の峰が漂うさまは、まるで水紅色と薄紫を重ね、浅葱色と紺青を配色した絵であるかのよう。なかにはかすかに積もった雪を、明星のなごりのようにきらきらと輝かせているものもある。……このような山中で、いったいだれと喧嘩して、どこから駆け落ちしてこようというのか?……
女はというと、青年に担がれた腕の手先は袖にくるまって、はたしてそこにあるのかないのか。もう片方の袖もふらふらと垂れ下がり、中身がないようにも見える。蝋に白粉を塗ったかのような、ほとんど血の気のない顔を正面に向けて、二重瞼で黒目がちな、ぱっちりとした目をいっぱいに見開いて、瞬きもしない。男の耳と女の鬢がすれすれになって並んでいる様子からすると、男の方も小作りというわけではないから、かなり背の高い女だと思われる。
そうかと思えば女の帯から下はげっそりと肉がないようで、細まる裾先を内側から乱すこともなく、力が感じられない。踵を浮かせながらふわりと担ぎ上げられている。
やがて乱れかかった枯れ蘆が二人の膝の上のあたりまでを覆い、さらに地を這う霞が足もとを隠した。
とはいえ道なき道を歩むというわけではない。背後には、いまだ覚め果てぬ暁の夢が残した幻のように、真正面から見あげた天守がそびえ立っている。二人が歩いてきたのは城址の正門からだらだらと下っていく大手道で、その左右は、半ば埋もれた濠である。
水の干上がった空濠というわけではない。しかし、天守へ向かう大手門跡の左右に連なる石垣は、いまだ高く切り立ってはいるものの、濠の岸は段をなして土に埋もれて浅瀬になり、その土手からは道を包みこむほどの蘆が森のように生い茂っている。長きにわたって鎌が入ったこともないのである。枯れ葉のなかを透かしてのぞいた水の色は、霞を溶かしてどんよりと淀みながら日の出を待っている。やがてそこから、さまざまに姿を変えて、あちらこちらにふわふわと彷徨い出るであろう陽炎の源が溜まっているかのようである。
その蘆におおわれた大手道を分け入りながら、女は早朝の微風にさえも揺すられるといったありさまで、男がふらつけばふらつきながら下りてきている。もしこのまま二人が黙ったままであれば、彼らの姿は、今朝最初に現れた陽炎だと思えたであろう。が、青年は息を切らしながら、こんなことばを漏らしている。
「寝るなんて……寝るなんて、まったく、どうしたんだろう。気がついたときは自分でも驚いた。空は白んできたが、いつの間に夜が明けたのかさえ、さっぱりわからない。お前もどうにかしているぞ。打ってでも揺すってでもして起こしてくれればいいのに。……しかし、疲れた。私はひどく疲れてしまった。お前と別れ別れになって以来、まったく一睡もしていないのだから……」
はあはあと息をしながら肩を揺さぶると、女はその揺れが伝わったかのように震えながら、真っ黒な髪のなかに大理石のような白い顔をじっと埋めて、ひたすら前方を見つめている。
二
「考えてみれば、よくあんななかで寝られたものだ」
と、男は半ばつぶやくようにことばを続けた。
「言ってみれば敵中だ。敵に囲まれながら夜が明けるのにも気づかないほど熟睡していたというのは、我ながらじつに度胸がある。……いや、そうではない。いったん死んだのかもしれない。
そうだ、死んだといえば、生死もわからなかったお前の無事な顔を見た嬉しさに、張りつめていた気がゆるんで魂が抜けたようになって、それっきり意識がなくなったんだ。待ちに待っていただろう私が目の前に現れたとたん、だらしなくぐったりとなってしまって、さぞやお前は、なんていう頼りがいのない男だろうと怨んだだろうな。
本当に、安心のあまり気絶したんだとあきらめて、許しておくれ。寝たんじゃない。というより、どうして寝られるものか……実際、一刻も早くお前を外の世界に連れ出したくって、お前の顔を見たとたんに、階段を下りるのもまだるっこい、天守の五階から城址へ飛び降りて帰ろう! そんな意気込みで出かけたんだ。嘘じゃない。
だが、あの最上階から飛び降りた日には、二人とも五体バラバラだ。五体バラバラとなると顔も見られない、どうにもならない。そんなことじゃ、何を救うのやら、救われるのやら……おっと、何を言っているんだろう、はははは」
と、とりとめなく笑った拍子に、草を踏んでつま先下がりになった足もとに力が抜けたのか、女を肩に背負ったまま、恋の重荷の掛かった側の片膝をガクンと突いてしまった。ハッと手を離すと同時に、女の黒髪がハラハラと頬にこぼれたかと思うとズルリと垂れて、身体ごと前のめりに崩れおちると、細い腰を折り曲げて青年の膝に伏しかかった。
「あっ!」と慌てて青年は、女の帯の上に手をかけて、
「危ない。ああ、なんてことだ。……浦子」
と、女の名を呼んだ。
「けがはないか。どこも痛くはしなかったか。よし、なんともない」
女が、あっ、とも言わず声を出さないのを、大事ないとうなずいて、さあ、と起こそうとすると、すこしも動かない。
「起たないか。こんなところに長居は無用だ。どうした」
と、そっと揺さぶってみる。揺さぶられるままに揺れる女は、死んで水に浮いた魚のひれをつまんで動かすのと同じで、こちらが動きを止めればじっとなって、浮きも沈みもしない。
驚いた表情で、
「どうした、浦子。はてな。今転んだからといって、地面に落ちたわけでもなく、けがや間違いがあったわけでもない。なんだか意識がないようだ。さすがにどっと疲れが出たというのか。ああ、そういえばさっきから自分ばかりがしゃべっている。しっかりしてくれ。どうしたんだ」
青年はすっかり焦っていた。しゃにむに女のうなじに腕を回すと、膝に乗せた女の身体をねじ回すようにこちらに向けながら前のめりになって、ぐいっと仰向けた女の顔をのぞきこむ。
ずっと開きっぱなしだった目を閉じることもなく、美しく優しいかたちに伸ばしたままの眉を、顰めるべき悩みなど一つもないといわんばかりに、一筋の皺も額に刻まず、瞬きもしないままで、じっとこちらを見ている。
その顔と、身体を引き起こす動きに連れてひるがえって乱れた裾から、雪のように現れた白い膝……ひと目それを見るなり、
「ううん」と一言うなった青年は、枯れ蘆にドスンと腰を落とすと、投げだした足を、あたかも痙攣を起こしたかのようにブルブルと震わせて、
「違った、違った。これは造り物だ、こしらえ物だ、彫像だ。夕べ運びこんだ身代わりの人形だ。これは……おお」
おののき震える手を女の胸に押しつけてみると、襟もとのふくよかに見える肌も、ただすべすべと冷たい感触がするばかりだった。
「なんだ、またこれを持って帰るくらいなら、だれが命がけになってこんなものをこしらえるというのか。たぶらかしやがったな! 山猫め、狐め、野狸め」
と、女の人形の胸もとを片手で乱暴に引っつかんで立ちあがりざま、彼は棒のように放心して立ちつくした。哀れにも艶やかな女の姿は、背筋を弓なりに反らし、裳裾を宙に浮かせて、縊られたようにぶらりと垂れている。
三
青年は半狂乱になり、地団駄を踏んで歯噛みをした。
「おい、魔だか鬼だか知らないが、約束を破るなどとけしからんことをしていいものか。お前はなんと言った、覚えていないのか」
と、天守の屋根をにらむと、握りしめた手で空を打って、かすれた声でなじるようにわめいた。まだ明け切らない海のように広がる山中の原を背景に、大手道の坂を下りきった濠端から見れば、向こう岸の石垣は谷から湧きあがる鱗模様のようで、一方には朝方の虹がかかっている。その石垣越しに、天守に向かってわめいたのである。
わめいてはみたものの、一騎朝駆けで敵を罵るといった勇ましい様子ではない。ふらふらと横歩きをしながら、前に出たり下がったり、またよろめき、また独り言を言うのだった。
「畜生、人の女房を奪った畜生、魔物に道理は通じないだろうが、約束を破っていいはずはない。……何と言って約束をした――女の彫刻をこしらえろ、それを身代わりとして持ってこい、そうすれば浦子を返すと言ったのを忘れたか」
と、その握りこぶしで、己の膝をはたと打ったが、力余って後ろによろけると、石垣も天守も霞のなかで揺れた。
「だが、待てよ。自分がこしらえたこの木像だ。魔物がこれの価値を判断して、もしあの浦子よりも遙かに劣ると思ったとしたらどうする。まるで取り替える価値がないと思ったらそれまでだ。――ああ、そのために、本物の浦子を隠したまま、この木像を突き返したのか。夢中になっていた俺は、これを愛しい女だと思って、うかうかと抱いて帰ったのか。そうかもしれない。
それでは、劣作だと言うんだな。駄物だというんだな。こいつは劣作か駄物なのか」
胸に抱いた人形の首をこちらに引き向けて、血走った目でキッとその顔をにらみつけると、
「俺のこんな気持ちも知らずに、けろりと済ました面をしやがって。たとえ石であっても、俺の心を汲んで、睫毛に露でも宿さないか。霞ほども曇らぬ瞳は蒟蒻玉同然だ。――それもそのはず。血も通わない、魂のない、たかが木屑の木像だ」
と、冷めた顔つきになって天守を仰ぐと、またうつむき、
「なんだこれは、魔物が言いそうなことを俺が言っている。自分で言っている。われとわが口で罵っているぞ。おお、自然と敵の意に沿って自ら罵倒するような木像では、魔物が約束を守らないのも無理はない。駄物だ。駄物だ」
と、己の無力を悟った者の、よろけるような足つきで後ずさりをして、
「もう、こうなったら、浦子の形見のほうが大事だ。おのれ、よくも、ぬけぬけと浦子の着物を着やがって」
と言いながら、むしり取るように衣紋を開いて、帯を荒々しく払いのけ、袖を外すと、柔らかな肩がだらりと下がって、二の腕がふらりと垂れる。玉のような二つの乳房も一糸残さず露わにしたまま小脇に抱くと、この彫刻家の上半身には、なびく霞とともに山椿の炎かと思う緋色が赫とからんだ。
その下重ねの緋鹿子に、雪のような手足が照り映えて、女の肌は朝桜にも、薄雲を透かした日の光にも見えて、血が通うかのよう……と思えたそのとき、男の顔は蒼くなった。――女の像の片腕が、赤くささくれ立った切れ目を露わにして、肘のところから折られていたのだ。
「わっ」と叫んで、木像の喉をつかんだまま、投げ捨てようと振りあげた腕の筋を張って棒のように突き上げる。女の像は青年の肩越しに、黒髪をちらちらとさせながら、翼を乱す鶴のようにひるがえった。
しかし、そのまま振り飛ばすことはなかった。ためらう様子を見せた男は、はるかに望む石垣の只中まで、濠を越して叩きつけそうだった勢いも失せて、ふと足もとに目を移す。彼が立っていた濠の岸の低い場所からは、さほど下らないところに灰色の水が迫っている。水がじとじととにじんだ岸辺には、座礁した一艘の小舟があった。芽吹きはじめた蘆の上に、引き上げたのか、浮かべたのか。水辺だけに、名も知れぬ大きな魚が、がくりと岸に食いついたまま白骨になったかのようである。
四
ところがその船は、なにかの折に向こう岸からこぎ寄せたように、船尾をあちらに、船首を蘆の根に乗り据えたかたちになっている。……船を乗り捨てたにしても、このように逆に繋いでおくこともないであろう。さらに変わったことに、霞に包まれた船側からふっくりと浮き上がったような船尾には、頬被りでもしていそうなぬっとした様子で、向こうを向いて翼を休めた一羽の五位鷺が、そこにいるのが当然だというふうに留まっている。
人里から離れた城址のこのあたりは、鶏の声や鴉の姿より、まず五位鷺の羽色が夜明けを告げるのであろう。そう思えば不思議はないが、冠羽の真上とでもいう場所で先ほどから男が騒いでいたのだから、いかに人を恐れないとはいえ、まるでそこに作り付けられたかのようにきょとんとして、爪立てた片脚を下ろそうともしないのはどういうことか。
男はこの船のなかに、木像をどさりと落とした。
女の像は船の胴の間で仰向けになり、肩が船べりにかかって、黒髪は蘆に挟まり、胸の下から裾にかけて薄衣のような霞がなびくと、風が吹いたわけでもなく柔らかな葉ずれの音がそよそよと鳴る。船が一揺れすると、船尾に留まった五位鷺はさすがに驚いたらしい。その紫がかった薄黒い翼をはらりと開いた。
開いた、が、飛びはしない。両翼をバサリと羽ばたかせながら、うつむけに首を伸ばして、その長い嘴が水面へ届くと同時に、小舟がすらすらと動きはじめ、音もなく漕いで出た。
見ていた青年はあきれ果てて、濠端にどっかと腰を落とした。
その五位鷺の働くことといったら。なにしろ船一艘を漕ぐのだから、蘆の穂が風に散るほどの動きを見せて、ひらひらと目にも留まらず上下に翼をはためかせる。すると、やがて船は、夢の空を滑るかのように、落ち着きすまして水際を離れていく。
蘆の枯れ葉に蒼くぬめった水がぬらぬらと打ち寄せて、樺色を交えた浮き草が浮く水面を、船足が輪を描くほどに五位鷺は羽ばたいている。急に激しさを増しながらひとしきり続いたその動きは、なめらかな重い水を風で打ち、鳴り渡るばかりになった。けれどもあまりにも激しく動いたためか、羽の間からたらたらと、汗か飛沫のようなものが羽先を伝って水へポタポタと落ちはじめる。と、それが血のような真っ赤な色になって溢れだす。……
「ああ、火の粉だ、火の粉だ」と、濠端で、青年が驚き叫んだ。
そのことばどおり、五位鷺が血の汗を絞るかのように見えたのは、翼から落ちる火であった。
「飛び降りなされ、船の人、船の人、飛び降りなされ、飛びこむのだよ」
と、野良仕事で出すような大声を張りあげて、広野の霞に影を煙らせながら、一目散に駆けつけた者がいた。
驚きのあまり青年は、ほとんど無意識に、小脇に重ねて抱いていた色衣を船の火に向かってサッと投げつけた。しかし船には届かなかった衣は、朱を流したように火の影を宿す水面に浮き草のように漂いながら、袖をばたつかせ、裳裾を開いて、悶え苦しむかのように見えた。一方では本体である女の像は、このときには早くも黒煙に包まれて、大きな朱鷺の形をした一塊の燃え立つ炎となっていた。炎の朱鷺は逆さまになってもう一羽、水底にも達するように映っている。船端までもが炎に包まれた。
「ええい! 飛び込め、水は浅いぞ」
と叫びながら濠端へ駆けつけたのは、俗にもんぺと称する裁着のような股引をはいた、背の高い、六十余りの老爺だった。身体が二つあるかと思えるほどの大きな麻袋を腰から下げて、足といっしょにぶらつかせながら走ってくると、
「ああ、もうどうにもならぬ」と、つぶやいて落胆する。
船尾に留まった五位鷺の炎は消えて、船を組んでいた板がぱらりと開いた。その板が一枚ごとに幅広い煙を立てているさまは、地獄の空に消えてゆく黒い帆のようである。――女の像は影も形もなかった。
「やれやれ、遅かった。水は浅いのだから、飛びこめば助かったに。――なんとも申されようもない。旦那がお連れの方でがすかの」
青年は肩を揺すって、ただ深く息を吐くだけだった。
「飛んだことじゃ。こんな怪しげなところへ来て、素性の知れぬ船に乗るなどということがあるかい。おまけにお前さま、船頭は五位鷺じゃ……狸のこしらえた泥船よりも危ないとわかりそうなものじゃが」
五
不意に目が覚めたというふうでもなく、しばらくすると、青年の瞳はやや定まってきた。
「なに、心配には及ばないよ。船にいたのは活きた人間ではないのだから」
木こりのような身なりをした件の老爺は、怪訝な顔をして、
「やっ、活きた人間でなくて何だと言う……お前さま、あれは死骸かね」
「死骸とはひどい。……もちろん、魔物に突っ返されて火葬をされた奴だから、死骸も同然だろう。とはいえ、私の気持ちじゃあ死骸ではなかった。生命のある、価値のある、活きた者のつもりだった。老爺さん、今のは、あれは木像だ。作り物の木彫りの女なんだ」
「木彫りの? はてのお」
と腕を組んで、
「それはまた、なんともおかしな話だね。船といっしょに焼けたのが、活きた人ではないとわかって、まずは安心したのだが。木像だと聞けばなおさらたまげる。えれえ見事な、まるで生身の女のようだったけの。背後の野原さ出て見たところで、肝っ玉が飛びだしたかと思うた。――あの一面の霞のなかで、火と煙に包まれて白い手足さビクビクさせながら、濠の石垣のほうへ吊るし上がるように見えただもの。地獄の釜の蓋を開けて、娑婆へ吹き上げた幻灯かと思うたよ。
普通の女の人のように見えたっけが。まあ、人形とはいえど等身大のお祖師様の像もあれば、六丈の背丈の阿弥陀仏もいらっしゃる。なにもおもちゃ箱をひっくり返したなかから出てくるものばかりではねえ。見事な出来のものがあっても不思議はないだが。あれは、心配するな、木彫りだと言わっしゃったお前さまが持ってきて、船のなかへ置かっしゃったか」
「なに、打ち棄てたんだ」と、青年は口惜しそうに言った。
「なんと、打っ棄ったとは、重くて持て余しちまったのかえ」と、けろりとした顔で、目から離れた白い眉をふさふさと揺すった。
青年はじりじりとにじり寄った。
「で、老爺さん、君はさっき人間でなかったから安心したと言ったね。先ほどの船とは、なにか関わりがある人なのか」
「関わりもなにも、わしが船の持ち主でがすよ」
「この、魔物め」
と青年は、やはりそうだったのかと身構えて、後ずさりしながら、
「人をもてあそぶ気だな。生きるか死ぬかの間をさまよう者を玩具にするのは残酷だろう。貴様たちにも折れた釘ほどの情けがあれば、ひと思いに殺してしまえ。さあ、引き裂け、片手をもげ……」
「旦那、旦那」
「なにが旦那だ。捕虜と言え、奴隷と呼べ、弱者と侮れ。今が夢なのか、現なのか、わからん。だが俺はとても貴様たちに抵抗する力はない。残念だが、貴様に向かうと手足も痺れる。腰も立たない。
だが、助け出すはずだった女を背負ってなら……ふもとの温泉まではもちろん、百里、二百里、故郷までも、東京までも、貴様の手から救うためなら、飛んででも帰るつもりでいた。彫像ひとつ抱いて歩くのに、重くて持て余すなんてことがあるものか……
ざまあみろ、いい気味だ、と高笑いをなぜしない。木像は俺の手で棄てたことは確かだが、船へ投げることになったのは、貴様が蹴込んだのも同然だ」と、握った拳をぶるぶると震わせ、血の気の失せた唇をわななかせていた。
老爺はやるせなく瞬きをして、
「面白くもねえ。寝ぼけたことを言わっしゃるな。たしかに船を焼いたは悪いけんど、蹴込んだとは、なんたる言い草だの」
「なに、焼いただと。おお、船を焼いたのは貴様だな。それみろ、悪魔。山猫か、狒々か、狐か、なんだ魔物め。せめて俺に正体を見せてくれ。冥土の土産に見てみたい。さあ、のっぺらぼうか、一つ目の化け物か。おのれ、なんだそのいけしゃあしゃあとした田舎の好々爺面は。眉なんか真っ白に生やしやがって。その分別くさい禿げ頭はどういうことだ。その鉢巻を取れ。とぼけるな」と、目をつり上げて、さらにじりじりと詰め寄る。
老爺は自分の面を、ペロリとなで下ろした。
六
そこまで言われて、老爺は自分の顔が不気味に思えた、といったふうである。眉をしかめながら、
「まあ、まあ、若い旦那、落ちつかっせえ、気を静めなさいまし。魔物だ、鬼だとわめいて、血相を変えてござる。もうこれ以上、昂奮しなさるな。……どうも見たところ、どうやらのぼせ上がってらっしゃるが、はての」
と、天守を七分、青年を三分と上下に目を遣って見比べると、
「そうさな、お前さまはここの城址のお天守へ上がらっしゃりはしねえかの」
「しねえかじゃなかろう。昨夜貴様どこで逢った?」
「まあ大方、それでわかった」
「わかったか。いや昨夜は失礼したよ。悪魔の隊長」
「やれやれ迷惑な。わしを魔物だと思わっしゃる」
「おのれ、魔物でなくて何だというのだ。五位鷺が漕ぎだして濠のなかで自然に焼けるなどという不思議な船の持ち主が、人間であるものか」
「なるほど、お前さまは何も仔細を知らっしゃらぬようだ。その様子からしてここいらの人ではござらっしゃらぬ」
「そんなことを言ってどうする。貴様は奪っていった俺の女房がどこに泊まっていたかまで知っているではないか」
「そう慌てなさるな。お前さまはこの山裾の双六温泉へ、湯治に来なさった人だんべえの」
「知れたことを。貴様が浦子をつかみ出した、あの旅籠屋に逗留している」
「そんなら、はい、無理はねえだ」
とにっこりして、青年のほうへ身体ごと向き直った。もはや火災の煙もすっかり消えて、水面の輝きに紅蓮の炎を描くこともなくなった濠のほうを眺めながら、
「あの小舟はの、ちゃんとひとりでに動くでがすよ。……土地の者なら知っとります。で、鷺の船頭と呼んでるだ。それ、見なさった通り、五位鷺が漕ぐべいがね」
「漕ぐのは鷺でも鳶でも構わん。漕がせるのは人間じゃないのだろう」
余計なことを、とぞんざいに言い放った。
「いんや、お前さま、お天守の……」
と、老爺は声をひそめて、
「……魔の人の仕業なら、同じ鷺が漕ぐにしても、その船は光を放って、雲のなかをふわふわと飛行するだ。
たかだか人間の仕事だけに、羽のある船頭を使うても、水の上を浮いていくだけだよ。なにも不審がられるには当たらん。あの船は、わしが手慰みに造るでがす」
「ええっ、こしらえたものだと。そして魔物ではないというのか」
「そういうことだと思わっしゃれ。ひょっとこみてえな手ぬぐい被りをするような天狗様があってたまりますかい。気を静めさっしゃるがいい。嘘だと思うなら、四、五日ほど我慢して、わしの小屋へ来て差し向かいに座ってござれ。ゴリゴリ、コツコツ、削ったり叩いたりで、わしが同じ船を目の前でこしらえてみせるだ」
「ふん」と、青年は返事を呑みこんだが、その息はまだ弾んでいた。
「あんなものをどうやって作る」
「どうやって作るかって?……まあ、ちょっくら手真似で説明できるもんではねえ。この胸のなかに、機関をしまっとります」
「機関か」
「危険な機関だもんで、小さいのをこしらえて子どもの玩具にするわけにもいかねえ。が、親譲りの秘伝のものだ。ハッハッハッ」
と、浮世離れした笑い声を上げる。
「ちょっと待ってくれ、親譲りの秘伝というと……」
と、緊迫した言い方ではあるが、声の調子はかなり静まっていた。
「なに、家伝の秘法などといってもったいぶるものでもねえがね。祖父の代からやってたことを、見よう見まねでやってるだけでがすよ」
「それじゃあ、三代続いた船大工ということか」
と、青年が、すこし落ちついた声で聞いた。