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(解説にかえて、古城の天守ツアー)

 この小説、『神鑿(しんさく)』に出てくる双六谷は、飛騨山脈を流れる神通川の支流にあるのだという実在の土地で、画像検索をすると、たくさんのアウトドア好きが訪れて、まさに深山幽谷という美しい写真がアップされている。その近くには(ばん)の石というものもあって、これが作中で描かれる双六巌(すごろくいわ)のモデルなのだろう。ただし実際の盤の石は80cm×60cmという小ぶりなサイズで、本作三十七節に書かれている「(おおき)さは()れば、畳三畳ばかりと見ゆる」という大きさとはずいぶん異なる。この畳三畳というサイズにも問題があって、同面積の正方形だとすると一辺が2mを超えてしまう。そんな大きさだと手が届きにくく、戦況も把握できずに遊びにくいし、タンポポやスミレの花では双六の駒にするのに小さすぎてしまう。

 初出単行本の口絵を任された鏑木清方も、これには困ったのではないだろうか。口絵に描かれた双六巌(すごろくいわ)は、「畳三畳」の半分くらいにしか見えないサイズに縮小されている。

 もっとも、本作が書かれた時代には、双六谷の近辺は人が足を踏み入れることのめったにない秘境だったらしく、作中の温泉宿の主人が言っているように、地元住民でもはっきりしたことはわからなかったのだろう。自国内に未踏の領域、ファンタジックな想像力の源となるような土地や事象がふんだんに残されている状況というのは、逆に羨ましくも感じられる。

 国書刊行会の鏡花コレクションの須永朝彦による解説には、鏡花が双六谷に関心を持ったのは、江戸時代の紀行文作家、橘南谿の『東遊記』がきっかけだったと書かれているが、その記事の内容や双六谷の伝説については、青空文庫収録の木暮理太郎『渓三題』という文章の終わり近くで触れられている。

 https://www.aozora.gr.jp/cards/001373/files/57030_57593.html

 上の記事からすると、『神鑿』の作中で何度か登場する大牛や(まだら)の化け物は、どうやら双六谷の(ぬし)だったらしい。

 ちなみに双六巌で美女と怪僧の対戦が行われる双六という遊びは、現在遊ばれているような「絵すごろく」ではなくて、「盤すごろく」とも呼ばれるボードゲームの一種。

 https://www.fcp.or.jp/mahoron/taiken/11/11_sugoroku_r.htm

 日本では、古代から江戸中期まで遊ばれていたらしい。貴族の間で大流行をして、賭博性が高いという理由から、早くも七世紀には禁止令が出た記録が残っているというのだが、その時々にどういうルールで遊ばれていたかは、よくわかっていないという。

 以前、貴族と鬼の双六対戦が描かれた鎌倉時代の絵巻物「長谷雄草紙(はせおぞうし)」の関連書を読んだときに、遊び方を再現したアプリのあるサイトを見つけてしばらく遊んでいたのだけれど、サイコロの運に任せる以外は、最善の動きに従う以外にやることがない。いわゆる運ゲーというもので、コンピューター相手ではすぐに飽きてしまった。双六のお姫様(ひいさま)も、独りで遊びながら、さぞかし退屈していたことだろう。



 明治42年9月に発表された『神鑿』は、前年に『草迷宮』、『沼夫人』、『星女郎』(すべて明治41年)があり、直後に『白鷺』(明治42年)、『歌行燈』、『國貞ゑがく』(ともに明治43年)などが並ぶ充実期に書かれている。有名、あるいはマニアック向きのそれらと較べて遜色ないところが決して少なくはない傑作であるし、ストーリーテリングの斬新な試みがなされたことにかけては、群を抜いた意欲作だと思う。いや、それどころか、母恋以外のテーマでかなり直接的に作家自身のリアルな心情が吐露された重要作としても読みたくなってしまうのだけれど、なぜそんなことを思うのかは、以下で追々書いていくことにする。

 五階目まである天守になぞらえて書けば、最上階にはやはり恐ろしいことが待っている気がしてならないのだが、まずは、その一階目から。



【一階目/叙述】


 同時期に書かれた、世評の高い『草迷宮』や『歌行燈』などと比べて『神鑿』のような作品が軽んじられてきたのは、やはり旧時代の草双紙や読本の延長にあるかのような中身が(わざわい)しているのだろう。たしかに、いまも読まれている近代文学作品のなかに人形奇譚活劇のような本作の筋書きを並べてみると、ぎょっとするほど古めかしく思える。中身だけではない。荒涼とした城址や深山幽谷たる双六谷、双六巌がある谷の桃源郷の描写には、絵巻物を見るような、古歌や漢詩を読むような修辞が尽くされているし、執筆当時の現代のことを書くにしては(いかに田舎が舞台だとしても)過剰に古風な、わざと擬古文的な語彙や文体が多用されている。

 けれども、いかにそれが定型的な修辞であっても、ここまでことばを重ねれば逆にリアリズムを感じるというほどに執拗に厚塗りされた描写が要所要所に配されて、深山幽谷、魔界、仙境の描写を統合し刷新する勢いすら感じさせる。

 その一方で、ところどころに、近現代の小説らしい表現も散らされていて、現代のことばに置きかえてみると、ちょっといかめしい字面のなかから、洒落た言い回しが採掘されるように現れたりもする。

 たとえば十八節の温泉宿の回想場面で、


 「巡査が…(中略)…痘痕(あばた)のある、柔和な顔で、気の毒さうに私を見た。が口も利かないでフイと門を、ひとから振もぎる身体のやうにずん〳〵出掛けました。」

 (現代語訳)「巡査は痘痕(あばた)の残った柔和な顔で、気の毒そうに私を見ていました。私はなにも言わずにフイと、人々の視線につかまっていた身体を振りもぎるように、ずんずんと門を出ていきました。」


 ……とある、「ひとから振もぎる身体のやうに」なんて、ドキッとするほど的確で斬新な表現だ。

 あるいは、双六巌での姫と怪僧の対局場面では、読点で分節に分解されていく不思議な文が出現する。


 「と眉を開いて見上ぐる天を、白い、雲が、来ては、消え、白い、雲が、来ては、消える」(四十四節)

 「消えた雲が残り、続く雲が(かさな)り、追ふ雲が結着いて、雲は、やがて、厚く、雲は、やがて、濃く、既にして、近くなり、低く成つた」(四十五節)


 読んでいて異様な感じがするのだが、これは双六の姫の魔法がかかる様子、魔法が解ける様子を雲の描写だけで表現しているのだろう。実験的叙述というべきもののように思える。

 現代語拙訳で、「、」を「……」に置きかえたのは、この特異な表現効果をさらに強調してみたくなった稚気からだった。

 ところで「……」といえば、ダーシ(――)や三点リーダ(……)を使うことの多い鏡花作品のなかでも、本作ではかなりそれらが多用されている。効果的に使われているものもあれば、なぜそこに置かれているのかわからないものもあり、かといって希には、現代文では使うだろうと思う部分に使われていなかったり、さらにダーシとリーダが役割分けされているわけでもなさそうで、ずいぶん感覚的に、思いつくかぎりというほど大量に使われている。

 現代語に移していて感じたのは、そこに省略を読み取ってほしいという読み手まかせの態度ではなくて、語り手の想念を一瞬も途切れさせたくないという執着のようなものである。ふと思ったのだが、鏡花のなかには(それが手法として誇示されることはなくても)、海の向こうの同時代人であるエドゥアール・デュジャルダンやジェイムズ・ジョイスの作品に対していう「意識の流れ」の叙述意識が共有されていたのではないだろうか。



【二階目/ストーリーと構成】

 

 小説『神鑿』はストーリーからみれば、彫金職人の子である鏡花が好んで描いた工人譚であり、初期から書き継いできた『龍潭譚(りゅうたんだん)』『薬草取』など神隠しものの系譜にあり、『幻の絵馬』『星の歌舞伎』でも扱うことになる人形奇譚でもある。それぞれの系譜上の代表作ともいえる充実感があり、長さに比して登場人物が少なく、物語の筋がすっきりと通っているのが魅力である。

 雪枝が妻の浦子失踪のいきさつを語る場面では、主人公の精神の混乱に添うかのように、過去と現在、会話と客観描写が複雑に入り乱れ、さらに語り手が作者、雪枝、老爺、(間接的に)怪僧、と頻繁に交替する。けれども、不可解な謎として提示された冒頭の状況に対して、その理由となる出来事と注釈的なエピソードが順接的に述べられるだけなので、読みながら混乱することはない。老爺に向けた雪枝の主観的な語りは、話が進むにつれて客観描写と一体化していく。おそらくは会話文だけでは擬古文的な格調を保てなくなるからで、破綻といえば破綻ではあるが、違和感なく受け入れられるように徐々に文体を変化させていく工夫をみるのも逆におもしろい。

 本作は冒頭にクライマックスシーンを配置する、現代の映画やアニメでいうアヴァン(アヴァンタイトル)のある形式で語りはじめられるのだが、当時の小説としては、かなり大胆な試みだったのではないだろうか。しかも上に挙げた、ちょっとした破綻を受け入れるまでして、強引に採用されている。

 こうした倒叙的な構成が最も際立った作品は『日本橋』だと思うのだが、これが市川崑監督によって映画化されたとき(1956年)、脚本を担当した和田夏十(なっと)は原作を場面ごとに解体して、完全に発生順の時系列に並べ直した。そうなるとストーリーはわかりやすくなるのだが、鏡花が倒叙的な構成のなかに織りこんでいた「己が命の早使い」の民話的なモティーフが放つ妖しい魅力は消滅して、映画『日本橋』は、風俗的な主題を扱った佳作となるにとどまった。

 本作でも、鏡花が無理をしてでもアヴァンタイトルを置く構成を採ったことには、読み手の興味を惹く刺激的な冒頭場面を提供するにとどまらない意図を感じる。主人公夫妻の神隠し、美女の人形の想い出、沼に出現する美女の幻影、怪僧が語る魔神の責め場、案山子の行進にまつわる幻想場面、古城の天守で体験した怪異といった雑多なエピソードが、老爺が腰に下げた麻袋に投げこまれたかのように一塊になって、終盤の怪僧との問答や双六対決と対峙することになる。対立要素が整理されて、よりドラマチックな終幕を迎える効果があるのではないか。

 もちろん、後半の「双六盤」の章頭に置かれた第二アヴァンとでもいうべき、あらんかぎりの文飾が尽くされた部分についても、同様のことがいえる。

 そして、ちょうどそれは、鏡花の文章によく見られる、文の先頭に置かれた主部や修飾部がどこに係るのかよくわからないままで読み進めているうちに、いくつかの別の修飾部を巻きこみながら結ばれる単語にたどり着いてみると、それ全体がさらに別のことばに係る修飾部になっていたりもする、あの、読者を悩ませる息の長い文の作りを、そのまま全体の構成にまで拡張したものであるかのようだ。

 さらに民話的なモティーフにかんしていえば、『神鑿』では「三つの課題」、「有用な助言者」という、あからさまに昔話的なモティーフが採用されている(別稿「泉鏡花『縷紅新草』と昔話」を参照)。

 深山幽谷の奇譚を刷新するのならば、普通の作家であればそこに科学的な視線を向けたり、人物の内的動機を掘りさげたりといったリアル化の工夫を凝らすのだろうが、鏡花の場合は、それらとは逆に物語の古層的な要素の力を借りながら、独創的な方法で目新しいドラマを創りだす。

 具体的にいえば、(ほこら)に籠もった雪枝は魔物たちに妨害されて、美女の人形を三度作ることになるのだが、昔話では主人公の三度目のトライは成功が約束されている(『遠野物語』の第二話にみられるように、三姉妹のうちの末の妹が成功する話に置きかえてもいい)。あるいは主人公の絶対的窮地にタイミングを合わせて登場する助力者たる怪僧は、必ず事態を好転させるはずである。そうなることが昔話的パターンを備えた作品の鉄則になっている。本作ではその期待が両者ともにあっさりと裏切られることによって、読み手には、抜け出せない悪夢のなかに置き去りにされたようなショックが加えられる(怪僧の正体は魔神の変化だったのか、それとも魔神にボディスナッチされた人間だったのか、どちらともわからないのも不気味である)。

「泉鏡花『縷紅新草』と昔話」で書いたことに即して言えば、ここでは、昔話と伝説の激しい落差を利用した鏡花流のドラマツルギーが、最大限の効果を上げている。



【三階目/精神病】


 本作での「神隠し」あるいは「天狗隠し」に遭って以来、精神の均衡を失った主人公の描写には、それが主観的な語りであるからこその臨場感が感じられる。いや、医学的に解説された精神病の状態とくらべても、作りごととは思えないほど真に迫った描写が随所に見られる。

 雪枝が体験する非日常的な感覚や、民俗的な怪異の一場面に思える異常現象の数々は、解離的遁走、解離的健忘、気配過敏、離人症といった解離性障害の諸症状、または急性一過性精神病性障害が見せた幻覚だとみなすことで、細部まで読み替えができる。ことに「谺」の章で、宿の人々が行方不明の浦子を捜しに出た夜に雪枝が宿で待機しているあいだの描写は、奇妙なほどに生々しく慢性期の内面を詳述している。

 直前には、女性のヒステリー症状を扱ったとも解釈できる『星女郎』や、戦争神経症、PTSDがらみの怪異を扱った『尼ケ紅』が書かれていることからしても、精神的にも追いつめられていた逗子逗留時代(明治38年7月下旬から42年2月)とその後しばらくの鏡花は、怪談というものを、自分の経験や身体感覚、あるいはなんらかの形で知った精神病の症例と照らし合わせながら、自分なりに、よりリアルなものとしてとらえ直そうとしていたのではないだろうか。

 海外では、フロイトと並ぶ精神医学の祖といわれるピエール・ジャネが、すでに解離の症例集を上梓していたのだが、それに対する関心は医学界にとどまらず、たとえばプルーストの『失われた時を求めて』はジャネの解離理論を主軸とした作品だったりもする(ちなみにプルーストの大学時代の指導教官は、ピエール・ジャネのおじにあたる、同じく心理学者のポール・ジャネだった)。

 こうした先端理論が日本に紹介されるのは、夏目漱石の弟子だった医師の中村古峡が主幹を務めた雑誌『変態心理』の創刊(大正6(1917)年)の創刊を待たなければならないのかもしれず(夢野久作もこの雑誌の定期購読者だったらしい)、すこし先の話になるのだが、その種の話題は断片的にでも鏡花に伝わっていたのではないか。

 いずれにせよ鏡花の作家的嗅覚は、古風な装いを纏ったまま、時代の最先端にも向けられていた感触がある。

 精神病を主題とする近代小説としては、モーパッサンが『オルラ』などいくつかの作品を書いているが、自然主義の旗印のようにいわれていたモーパッサンを鏡花が読んだとは思えない(後記:いや、談話「ロマンチックと自然主義」によると読んでいたらしい)。しかし、同じく精神病による荒廃を主観描写で描いたチェーホフの『黒衣の僧』ならば、たとえ読まなくても題名や概要を知っていたのではないだろうか。『黒衣の僧』の初訳は明治37年10月に薄田(うすだ)斬雲(ざんうん)訳の『黒衣僧』という題名で出版されているから、タイミング的にも符合する。

 注目すべきは、この『黒衣の僧』と『神鑿』の共通点である。ストーリーはまったく違うが、いくつかの設定と、急性期の精神病者の高揚感、あるいは、他人から見た病者と病者自身の主観とのズレから生じる恐怖といった描写が共通している。

『黒衣の僧』の主人公は精神的な疲労を感じて、少年時代を過ごした田舎で療養することになるのだが、伝説として語られている(と主人公が信じている)黒衣の僧の幻影を、その地で目撃する。


 「それにしても、なんという蒼い、恐ろしいばかり蒼白い、痩せ細った顔だろう!」(原卓也訳)


 と描写される黒衣の僧は、題名どおりの黒ずくめの姿で、竜巻とともに現れ、巨大化したりもする。『神鑿』に登場する、墨染めの法衣を纏い、蒼い顔色が何度も強調され、最後には巨大化して疾風とともに去る怪僧と、偶然とは思えないほどに特徴がかぶっている。この僧と、精神病的な主題の両方が揃っているとなると、鏡花がチェーホフの作品を着想のヒントにした可能性も疑えなくもない。

『黒衣の僧』は、医師でもあったチェーホフの冷静な筆致が読者を一直線に絶望に突き堕とすような作品だが、『神鑿』は同じような狂気を描いても、どこか浮ついた希望を伴っている。それでいて、物語性をもって病的な特徴を具体視させる技量は、鏡花のほうが数段優っている。

 似ているようで似ていない両作品ではあるが、鏡花が『黒衣の僧』を読んでいたのだとすれば、内向きにも外向きにも、過去にも同時代にも平等に、貪欲な視線を向けていたことを示す好例になるのかもしれない。



【四階目/工人譚】


 小説『神鑿』で、読み手が最後に目にするのは、いままで一体なにを読んでいたんだと疑いたくなるような、衝撃的な結末である。

 香村雪枝が最後に目にする、失踪事件の真実を伝える浦子の手紙は、引用されるまでには至らず、必要な部分の概略だけがぶっきらぼうに記されることで、ショックの度合いが増している。古城の天守に妻が囚われたことからはじまる物語はすべて、主人公の精神病的状態が見せた幻覚だったのか、あるいは教訓的な古い物語によくあるように、無事に返すということばのうわべだけ約束に従ってみせた、魔神の意地悪な仕打ちだったのか。

 こういった、客観的記述を終章で放り投げることでもたらされる技法の効果について、三島由紀夫がド・サドの『ソドム百二十日』を例に挙げて説いていたような気がするし、そういう三島自身の『奔馬』や、安部公房の『砂の女』でも使われている技法もあり、あるいは映画でいえば、フランソワ・トリュフォーが同様の効果を『恋のエチュード』や『アデルの恋の物語』などで好んで狙っている。これにかんしても、技巧第一の鏡花は手が早い。

 それらの作品では、それぞれの結末をどう受け取るのかは読者に委ねられることになるのだが、『神鑿』でのそれは、かなり積極的に、主人公の工人としての大成を暗示することに向けられているようだ。

 つまり、この作品の結末が示しているのは、工人がただの職人ではなく、名人、芸術家として大成するためには、俗人がいだく幸福感の(かせ)を破壊して、創作そのものが人生の目的となるような解脱体験を経なければならないという教訓であり、そのことを教える職人寓話としても、この小説は読むことができる。結末の直前まで長々と語られてきた物語は、主人公が大成するまでの寓話なのだから、なにがフィクション内での事実だったのか、などはどうでもいいということになる。『神鑿』は、物語としては悲劇であっても、それを寓話として語る工人譚としては、ハッピーエンドなのだ。

 後年の『天守物語』においては、そうした傾向がさらに加速することになるのだが、それは鏡花が、自分自身の職業ではなく、父親のそれとして憧れとともに敬っていた工芸というものに対して、オプティミスティックな想像力を発揮せずにはいられなかったからなのではないか。

「出来不出来は最初(せえしょ)から、お前様(めえさま)の魂にあるでねえか」(三十八節)という、菊松のことばのような直接的指導もあるのだが、工人譚としての『神鑿』の寓話に含まれた寓意を列挙すれば(やはりどこか理想主義的な気恥ずかしさが混じったものになってしまうし、言ってしまえば身も蓋もないのだけれど)、次のようなものになるだろう。


・浮かれた生の喜びを剥ぎ取られるような経験をしなければ、修行の道に画期が訪れることはない。

・自分なりに画期を認めても、それがそのままの意図で評価されるとは限らない。

・たとえ一時的な賞賛を浴びたとしても、そこで見るものはかりそめの虚像である。

・創造に取り憑かれた精神の狂騒は、いずれ醒めてしまうのだが、そこからが真の修行の始まりである。

・たとえ師匠とすべき人を見つけたとしても、自分の至らぬ部分に気づかなければ、力量不足を思い知らされるだけである。

・そのうちに、師匠もまた、迷いの途上にあることを知ることになる。

・ときには従来のやりかたを放棄することも、殻を破る手段となりうる。

・迷いを退けて、理詰めに安易な道へと導こうとする者の正体は、悪魔である。

・迷った末に真の道を示してくれるのは、結局のところ自己の初源的な芸術衝動でしかない。

・それに気づいた者こそが芸術家だといえる。しかしその時点で、現世の幸福はもはや彼の幸福ではなくなっている。



【五階目/小説家】


 工人というのは父親の職業であって、鏡花にとっては親しみのあるものであっても、想像を交えてその仕事を書くしかない。鏡花自身が小説の創作を工芸になぞらえている以上、工人の大成物語は必然的に、自身の小説家としての経歴に重ね合わせられることになる。すなわち、四階目で書いた工人の寓意は、そのまま鏡花の作家としての経歴に重なるはずである。

 ……いや、そんな気がするから勝手に想像するだけなのだけれど、たとえば雪枝が菊松に弟子入りを志願する場面を、紅葉門下に入るときの鏡花の姿に重ねたり、美女の人形を、作家の回想のなかではいつまでも若いままの亡母や故郷の少女たちのようだと思ったり、といった想像にふけるのは、とても楽しい。


「其の秘密を人に知らせまいために、天の火で()くとみせて、船をお(かく)しなさるんでせう」(八節)


 と疑いながら、じろじろと覗きこんで、あれやこれや勘ぐるのである。

 祠に籠もって作った美女の彫像が完成した夜に、菊枝が目撃することになる案山子の集団や唐傘の車、観音や地蔵が動き出す怪異は、いっけんすると意味不明に思えるのだが、これを、『夜行巡査』や『外科室』を書いた鏡花が観念小説の旗手だともてはやされた当時の状況と重ねると、なんだかニヤニヤしながら、あのころはこんな気持ちだったのかな、などと読めてしまう。案山子とは、観念小説として褒めた評論家たちで、傘の車はジャーナリズムの神輿(みこし)で、そんなときに観音や地蔵のように見えたのは、田岡嶺雲(たおかれいうん)のような有り難い支持者だったのかな……などと。

 あたかも有益な助言者のようにふるまって、反論が困難な理詰めの論法で浪曼的情熱の向かう先を潰してしまう怪僧は、もしかすると自然主義のメタファーなのかもしれない。

 雪枝が師匠として崇めることになる菊松老人のキャラクターが、たしかな腕と経験を有しながらも、血の気が多くて意外と見栄っ張りでこすっからいのも面白い。ひょっとすると、弟子入り後にその素顔に接した紅葉も、鏡花の目にはそんなふうに見えることもあったのかな……。いや、そんなことを想像してここに書いてしまうと、先生のことを侮辱する奴は許せませんと、徳田秋声がやられたみたいに鏡花に殴られてしまいそうだ。

 やはり五階目では恐ろしいことが待ちかまえていて、それは、草葉の陰の鏡花先生からポカポカ殴られるの刑であった。


(了)



今回も秋月しろうさんに、感想と、訳文のヌケ、タイプミスのご指摘をいただきました。ありがとうございました。


十節なかばの「と掻蹲いひ、両腕を膝に預けたまゝ、銜煙管で摺出す体は、嘴長い鷺の船頭、化けたるやうな態である。」という一文がまるごと訳文から抜けていたので、追加させていただきました。

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― 新着の感想 ―
[一言] らいどん氏版現代語訳「神鑿」読ませていただきました。四十六節までの長丁場、本当にお疲れ様でした。大変だったと思います。 この「神鑿」は作品としても面白く、楽しめました。「鏡花作品のなかでも、…
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