獅子の頭
四十六
「お懐かしい。私はあなたが七歳のころ、おそばにいたお友だち。……前世の縁で恋をして、いつまでもいつまでもご一緒にと思う心をつい表に現してしまいました。あの、都の如月に雪の降る晩のことです。その雪は、故郷から私を迎えに来たというのに、私は帰る気がちっともなくて、あなたの背中に寄りかかって、二階の部屋に入っていった。そのときです……。あなたのお父様がご覧の目には、急にあなたが私と年頃も同じくらいに大きくなって、ふたりはまるで夫婦のようで、じっと抱きあっているように見えて……。怪しい女の人形だと、すぐにその場でストーブの灰にされましたが、戸の外からひらひらと舞い寄る、迎えの雪に煙を包んで、月の下を、この、もとの故郷へ帰りました。
人間の情けを持たぬはずのものが恋をした罰を受けて、そのときからただ一人、いまでも双六巌の番をしています。ここで雨露に打たれていても、それでもあなたのことが忘れられない。
その思いが通じるのか、あなたのほうも、年月が経ち、日が経っても、私のことをお忘れなさらず、昨日までも、一昨日までも、思い詰めていてくださいましたが、奥さまができたので、つい他人事になさりました。
そのことをお怨み申すのではない。嫉妬もみも猜みもしないけれど……そのために天守の主人から仕事の恥辱を受けるとは、なんとも口惜しい。
雲や花びらの数を算めば、思うままの数が出て、双六に勝てたのに……ただ一刻を争って、焦ってお悩みなさるから、危ないとは思いながらも、わがままをおっしゃる可愛らしさに慎みも忘れ、心が乱れて、もしかしたらと人間の采を使ったので、どうにもならずに敵に負けました。あなたも悪い。私も悪い。
ああ、花もこうまで乱れぬうちに、雲のなかから奥さまを助けだし、ここへ並べて、蝶の蔭からあなたの喜ぶ顔を見て、その後で名告りとうございました」
と、しめやかに朱い唇が動く。まるで花がささやくようで、雪枝は恍惚と我を忘れたが、飛騨の国の老爺はそれにも増して身の縮まる思いで、
「なんたることじゃ。恐れ入ったどころのことか」と、烏帽子を掻いて首をすくめている。
「いえいえ、これも前世から定まった約束。……しかし、なおも慕わしい。奥さまを思いきり、命を懸けて世を捨てて、私のそばにいようとおっしゃる。そのおことばで奥さまは救われます。……私もまた命に懸けても、お望みを遂げさせましょう。
さあ、あなた。あらためて奥さまの身代わりとするための、木彫りの像をお作りあそばせ。勝れた、優った、生命ある人形をお刻みなさい。
天守の主人には、きっと不足は言わせません。花びらを雲にかえて、魔物の煩悩の炎を冷やす、価値のあるものを私が作らせ申しましょう……お爺さん」
と、老爺のほうをふり返って、
「あなたのお家に代々伝わるその小刀を、雪さまにお貸しくださいまし」
「心得ましてござる」
老爺は謹んで持って寄る。小刀を受け取った美女は、そっと取り合っていた手をいったんは離した。そして堅くなって動かせなくなった雪枝の指を柔らかに、優しく撫でさすりながら、小刀を手のひらに握らせた。
あたりを見まわした美女は、衣紋を直して、雪枝から見ると背後向きになって、初めは双六巌に腰かけたように見えた。しかし、菫、鼓草の駒を除けて采を手にすると、そのまま足を浮かせ、盤石の上にすらりと身を伸ばして仰向けに横たわった。
陽炎が裳裾にかかる。
雪枝は、美女が倒れたのだと思って、不意に立ちあがった。
「……雪さま、私の目を、私の眉を、私の額を、私の顔を、私の髪を、そのまま、その小刀でお刻みなさいまし」
「やっ」と老爺がびっくりして、歯の抜けた声で、
「なるほどお天守で不足は言うまいが、とんでもない。なんとも無茶苦茶な」
「雪さま、痛くはない。血も出ない。眉を顰めるほどのこともありません。突いて、斬って、さあ、小刀で、この姿を削って、さあ、……この姿を……」
「思い切る。断念めた。女房なんぞ汚らわしい。貴女のもとに置いてください。お爺さんも頼んでください。もう一度手を取って」
そう言って雪枝は、鋭利な小刀をカラリと投げだした。
「そのお心の失せないうちに、早く小刀をお取りなさいまし。……そんなことをおっしゃって、奥さまはいま、どうしていらっしゃいます」
そのことばを聞いたとたん、
「わあっ」と泣いて、雪枝は横たわった美女にすがりついた。胸を突っ伏して、ただ震えている。……
その背中をゆっくりと、姉がするように撫でさすりながら、
「こうなるのが運命というもの。……人の運は一つずつ、天の星に宿ると言います。それと同じに、日本国じゅう、どこともなく、ある年ある月ある日に、その人がだれかと逢うことになる。山にも野にも、水にも樹にも、草にも石にも、橋にも家にも、以前から定まった運命があって、花ならば花、蝶ならば蝶、雲ならば雲にも、美しくも凄くも寂しくも彩色されて描かれている。……私たちは、手を取りあって睦みあって語らいながら、二人でいられる運命ではなかったのです。
心の像となって、私はいつどこでも、あなたが思うときにそこにいる。念ずるだけですぐに逢えます。お呼びになれば参ります。
さあ、小刀を……小刀を……」
「帰命頂礼、南無不可思議、帰命頂礼、南無不可思議」
と唱えながら、老爺が拾って渡すと、雪枝はひしと小刀を受け取った。
「一刀一拝、拝め、念ぜよ、祈れ」
と、励まし、教えるかのように老爺が言う。
「姫、姫」
と雪枝は勇ましく呼びかけて、
「疵をつけたら、私も死ぬ」
と、じっと見つめて、小刀を取り直した。
美女が、もとの姿そのままに、木彫りの像となったとき、それを膝に抱えると、雪枝はきつく抱きしめて、離すことができなかった。
老爺がその手を引きおこして、そこから代わる代わる木像を負いもし、抱きもして、嶮岨な難所を引き返していく。二時ほどで双六谷に着き、城址を目指す前に、一晩、山中で野宿をした。
その夜の星の美しさ。
なかでも山の端に近い星は、美女の像の額を飾って輝いたのである。
翌朝、古城の胸の雲の切れ間を仰ぎながら、勇ましく天守に昇ると、四階目を上り切った五階の入り口を覗いたとき、暗いなかで爛々とした金色の光を放つ眼が見えた。
ひと目見て、
「やあ、祖父殿か」
と老爺が叫ぶ。……黄金の鯱の頭に似た、青面の獅子の頭が一つ、生命があるかのような木彫りの名作が、のっしりと櫓を圧してそこにあった。
祖父の作に向きあって、久しぶりの話をしたいと、美女の像を受け取った老爺は、天守に胡座をかいて後に残った。そのときに、祖父のわがままで迷惑をかけた詫びだと言って麻袋を烏帽子に入れると、そのまま雪枝に譲った。
さて、雪枝が温泉宿に戻ると、人々は彼の顔色が清々しいのを確かめた上で、一通の書簡を渡した。
それは、途中より、と表書きのある、浦子からのものだった。
「二人が結婚をしない前から、私と契りを交わした若い学生が一人いる。このたびの蜜月の旅の第一夜から彼がつきまとっていて、いつも隣の部屋にいた。……それだけでも恐ろしい思いをしていたが、ついことばのはずみから、双六谷に分け入って、二世の契りを賭けるなどということになった。聞けば名高い神秘の山奥だという。とても罪深さに耐えられないため、学生といっしょに身を隠す」
という内容である。
雪枝は、びくともせずに、この事実を受け入れた。
ああ、神は、香村雪枝を守らせたもうたのである。
これまでのことがなければ、あれほどまでに恋い慕った女を失ったとなると、気が狂わずにはいられなかったはずである。
東京に帰ってからは、呼べば応えて顕れたものをただ目を開いて見るように、双六谷の美女の像をすらすらと刻むことができた。麻袋に入っていた小刀は、自由自在に働いた。
彫像が完成したとき、北の一天はにわかに黒雲を巻き起こして、月夜であるのに霰を飛ばした。
年月を経て、ふたたび双六の温泉に遊んだとき、もう老爺はいなかった。
しかし城址の濠には船があって、五位鷺ではなく、老爺の姿が木彫りになって立っていた。それを見た雪枝は、蘆間に手を突いて、やがて天守を拝した。
船に乗れば、すらすらと漕ぎだして、焼けないばかりか、もとの位置にスッと戻る。……
(了)