四五六谷
四十三
「しっ!」
老爺が、鋭く先払いのような声を放ち、口をつぐんだ。
薄紫色をしたなだらかな崖のきわに、桜がたたえたその光を霞の被衣として、ふんわりと背中から裾へ落として、鼓草と菫を敷きつめた巌を前に、その美女がいたのであった。
一行はしばらく、呼吸を凝らしていた。
見よ! 見よ! 滑らかな巌の表面は青みがかった艶を刻んで花の色を映している。あたかもそれは、紫の筋を彫った、自然の奇跡ともいうべき双六盤である。盤面には陽炎の輝くなかに、花を摘んだ大輪の菫と鼓草が、鼓草は濃く、菫は薄く、美しい色の対比をなし、十二輪と十二輪で二十四輪の駒となっている。中央の区切りを隔てて向かい合わせに、二輪、一輪、一輪、二輪と、浮き彫りをしたように並べられている。
美女はややうつむいて、その駒をじっと見ている。その黒髪にはただ一輪、白い鼓草をさしていた。この色の鼓草は、谷じゅうを見ても他にはなかった。
その黒髪を軽く戦がせに来る風もないのに、頭上の桜がはらはらと散った。鳥も鳴かない静けさのなかで、花びらの音がする。……一片……二片……三片……
「三つ」と鶯のような声をあげる。袖のあたりが揺れたと思うと、蝶がひとつ、ひらひらと来て、盤の上をすっと横切る。姫は一人で双六遊びをしているらしい。
「一つ」
美女はまた数えると、鼓草の駒を取って格子模様のなかへ置く。菫の花の駒をよけて、静かに置きかえながら、にっこりと微笑む。……
気高いなかにその美しさ。
「はっ」と、こちらに潜んでいた雪枝は、押し殺していた息を思わず弾ませた。
「だれ?……」
と、美女の声がかかる。
老爺がわざと咳をして、雪枝の背中をトンと突いた。雪枝はそれに押し出されたように、よろめきながら鼓草と菫の花のなかを歩いた。雲を踏むような浮き足で、ふらふらとしたまま、彼は双六盤の前に両手を支いて跪いたのだった。
坊主は懐から輪袈裟を出して首に掛けた。老爺は麻袋を手に取ると、ちょんと烏帽子をかぶって、あらためて前に進み出た。
美女はそっと鬢を押さえた。
声も出せない雪枝に代わって、爺がいきさつを物語った。――
坊主は、ときどき眼を開いて、聞き澄ましている美女の横顔をうかがい見ている。
「お姫様」
と、語り終えた爺は呼びかけると、
「お助けをつかわされ、さあ、若い人、お願いせよ」
「姫様」
雪枝は、やつれにやつれた人間の顔をして見上げた。
「上臈どの」と、坊主もことばを重ねる。
姫は引き合わせていた袖を開いた。そして、
「天守のお使者、天守のお使者」
とふた声、声をかけた。
「やあ、拙僧のことか」と、間を置いて坊主が答えた。
「あの、その指をお指しになれば、天守の方とお心が通じますか」
「いかにも」と片手を握って、もう一方の手を開いて蒼い頬っぺたのあたりに並べると、耳を澄ます仕草をして応じたのである。
「双六を打って賭けましょう。私は他のことはなにも知りません。……そして、私が負けましたら、それきりで仕方がありません。もし、あの、私の勝ちとなれば、このお方の、その奥さまを、恙なくお戻しになりますように……お約束ができるでしょうか」
と優しげではあるが、力のこもった声で訊ねる。
坊主は言下に指を立てて、雲を指した。
「――天守においては、『かねてから貴女と双六を打って慰みたいが、御承知されずに致しようもなかった折から、ちょうど幸い、いや、もとより望み申すところ』とある!」
四十四
姫は世にも嬉しげに、頼まれて人を救う善根功徳を早くも成し遂げたかのように微笑むと、その艶麗な顔を左右の雪枝と老爺に向けて、涼しい瞳で目配せをした。
「そんなら、私が勝ちましたら、奥さまをお返しなさいますね」
「ご心配には及ばぬ。城ヶ沼の底に湧く霊泉で浴させて、傷もなく、疲労もなく、苦悩もなく、健やかにしてお返しします」
美女は、十二輪の黄と紫を両方にサッと分けて、
「天守のお方、どちらの駒を……」
「赫耀として日に輝く、黄金の花は勝色、鼓草をわしのほうへ」
と、坊主は浮かれ気味の顔に、痩せた頬っぺたが膨らむまで笑みを含ませて、駒を二つずつ六行に、同じく姫も二つずつ六行に、紫の格子に並べる。
「紫の朱を奪う、ということばも聞く。お姫様の菫の色が、勝負事には勝色じゃ」
と、爺は盤面を差し覗いて、坊主を尻目に勇んだ顔つきである。
これに苦笑いをして口を結んだ坊主には、心を急かせた様子が見えて、
「さあ! 上臈」
「お客さまですから貴僧から」
「やっ、上臈よ、采はないのか」と、坊主が大声をあげた。
「空を行く雲の数と……」
と言いかけて、美女は晴れやかな表情を浮かべて、見上げたその空では……
白い……雲が……来ては……消え……、白い……雲が……来ては……消える。
「桜の花の散るのを数え、舞い来る蝶の翼を算んで、貴僧、私と順々に駒を進めましょう」
坊主は頷いて袈裟を揺すった。
「出ろ」
と、声高く美女が言う。
「来い」
と坊主が、合わせて一声。鶯と梟のような二人が、同時に声をかけ合わせた。
「一つ来て、二つじゃ」
と、鶴の姿の雲をにらんで、鼓草が格子を進む。
すると美女は袂を取って、袖を斜めにして視線を流した。それに応えるかのように、桜の枝から花びらがさらさらと落ちる。白い鼓草の簪をかすめるとき、花びらは紅の色を増して、受け取る袖にひらりと留まった。
「右が三つ」
と袖を返して、左の袂を静かに引くと、また花びらが、ちらりと落ちる。
「一つと二つ」
と菫の花が、白い指から格子に置かれた。
「雲よ、雲よ、雲よ」
と顔色を変えて呼びかけている坊主には、ややあせりが見えはじめた。――試合の半ばであった。
「雲が来る、花が散ると。やっ、そんな采では気長すぎるぞ。見ているあいだに斧の柄が朽ちて、玉手箱が壊れてしまうかもしれん。こうなれば若い人、その采を出さっしゃい。見とれているうちに、うっかりわしも忘れていた」
と、目の覚めたように老爺が言った。
先に気づいていた雪枝は、仏舎利塔に納めるように手に捧げて持っていた采を、そっと美女の前に差しだした。
「一つ振ったり」
と、老爺が傍らから世話を焼いて、采を盤石に投げさせた。
「お姫様、それそれ、星が一つで梅の花びらが五じゃ。采を使えば瞬きする間に十度も目が出る。さあ早く、それで勝負をつけさっせえまし」
「これはまた、天下に二つとない宝。うっかりわしもこれに気がつかなんだ」
坊主は手早く拾いあげた。
「いえ、急いではなりません。花の数、蝶の数、雲の数でなくっては」と、美女は頭を振った。
「ええい、お姫様よ! いままでの采の振りかたでは、どうやら一年に一度しか進みそうもなさそうじゃ。不思議なお力のおかげでわしらは飢ゅうもだるくもないが、これで助け出そうという肝心の奥さまの身をお察しゃれ。一息に血を一滴、一刻に肉一分は絞られる、削られる。天守の梁に逆さ吊りで、休みなく鞭打たれているわい」
「そのとおり」と、決めつけて言うと、坊主は身構えて袖を揚げた。
四十五
美女は、もうどうにもならぬという表情を浮かべた。
一が起き、六が出て、三に変わり、二に転がり、五が並ぶ。天に星が輝くごとく、采の目は疾く、駒が烈しく動く。それにつれて中空では、峰から湧いた雲が谷を飛び、消えた雲が残り、続く雲が重なり、追う雲が結びついて……
やがて……雲は……厚く……やがて……雲は……濃く……すでに……近くなり……低くなった。
たちまち美女の表情にも、一片の雲の影が映す。と思うと、谷いちめんが暗くなった。
山颪が鋭くサッと吹くと、舞い下がる雲に交じって、菫の薫りがパッと漂ったが、風に拭い去られたそれが消えてしまうと、電が空に走った。坊主は法衣で、花の色に乱れた大巌の双六の盤を蔽う。周囲の蔭は墨よりも濃い。
暗夜のようになった山の窪地を、桜の花は白い雨のように、矢を射るように散りそそぐ。その合間にくわっと輝く雷光の縫い目から、空を破って突きだした、坊主の面は物凄まじいものであった。……
と見れば、坊主の頭からは、あろうことか一本の角が生えてきた。顔面は漆のごとく黒光して、目から鼻面にかけて透きとおる紫陽花のような藍の隈を流している。額から顎までは長さ三尺、口から口の幅は五尺と、仁王の顔を上に二つ、下に三つ、合わせたほどに膨れあがって、目に余る大きさとなり、カチカチと歯を鳴らして、鰐かと思う大口をくわっと開いて上顎を舐めた。その舌は赤かった。
「騒ぐことはない。深山幽谷では時々起こる怪事じゃ。若い人、だれの顔も、どの姿も、どう変わるか知んねえだ! 驚くと気が狂うぞ。目を塞いでうずくまれ。しゃがめ、突っ伏せ、目を塞げい」
と、老爺が声をかけた。
雪枝はハッと身を伏せて、巌に吸いこまれるのではないかと呼吸を詰めた。胸の動悸が波うって高まるなか、山谷がことごとく震えるのを感じていた。
雷の音がとどろき渡る。
音のなかに、
「切る! ここに駒を置けば!」
と、美女の思い切った、細く透きとおった声音が、胸を抉って耳を貫く。
「なにを! そこを切ったとしても、もう遅い……さあ、来い!」
坊主の声が誇らしげに響いたが、
「やあ、勝った」
と叫んで、大音声でからからと笑うと、空を指した指の先へ、法衣の裾がいきなり舞い上がった。黒雲のように袖が巻き上がり、一丈に余る全身が蒼くなって、電を曳いて虚空へ飛んでいく。
風の余波に寂として、谷は瞬く間に、もとの陽炎の風景となった。
日の光もやや弱まり、吹き上げられた美女の衣がひたひたと身についた。そこに薄い光がかぼそく差して、散り乱れた桜の花びらが背や首にかかったままの姿で、女は手を額に当てて、双六盤に差し俯きながら、もの悩ましげな様子であった。
「お姫様」
老爺は風に曲んだ烏帽子の紐を結び直したが、呼びかける声にも力がなかった。
「姫様」
と、跪いたままで擦り寄ると、雪枝は伸びあがるように膝を支いて、美女の袖のあたりを拝んだ。
「頼まれたのに、済みません」
二筋、三筋、後れ毛のふりかかる顔を上げると、青年の顔をじっと見つめた美女は、睫毛の蔭に花の雫を光らせると、はらはらと玉の涙を落とす。
老爺は鼻を詰まらせた。
雪枝もまた、身を絞って湧きだすような、熱い、柔らかな涙を流していた。
「諦めます。……諦める……私は浦子を思い切ります。どうぞ、その代わり、夢のなかでもいい、夢ならいつまでも覚めずに、私をここに、貴女のそばにお置きください。
貴女、生きがいを失った私だ、罰もあたれ、死んでも構わない」
と前倒しに身を投げて、美女の手にひしとすがると、女はそれを振りはらわず、上にも手を添えて、
「雪さま」
と優しく言った。
「えっ」
いや、これには老爺も驚かずにはいられなかった。