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人さし指

三十九


「おおっ、御坊?」

「いつかの晩の!」

 雪枝と老爺(じい)は、左右から同時に呼びかける。

「御身もあのときの若い人じゃな」と、雪枝のほうを向いて、坊主はまた、片頬(かたほお)に影を落として薄笑いをした。

「血気にはやって、うかうかと老爺(じい)の口車に乗らぬがよい。……その気になって城址(しろあと)に根を生やして、天守と根比べをやろうものなら、御身は(あし)のなかの鉋屑(かんなくず)(かえる)の干物と成り果てようぞ。……この老爺(じい)は、なかなか手に技がある! 蝙蝠(かわほり)を刻んで飛ばし、魚を彫って泳がせるが、その代わりこの年紀(とし)になって()しからぬ色気がある。……あるはいいが、うぬが身で持て余した色恋を、(なまず)のようにぬっぺり抜けて、人におっかぶせようとするではないか。(じょう)(ぬま)の闇夜を思いだせ!

 もしかすると自分がこの天守の主人(あるじ)から、手間賃の前借りをしておって、その借りを返すのを投げやりに怠惰(なまけ)ていて、恰好(かっこう)(おり)だからと若い者をあおり立てて、身代わりに働かせようという気かもわからん」

「これ、これ、御坊、御坊」と、老爺(じい)は言って、結んだ口先を尖らせる。

 それに向きあった坊主の口は、三日月型に切れ上がって大きい。小鼻に筋を寄せると、思いきりニヤリと笑って、

「いや、あの闇夜を思いだせ。沼に向けてあてのない経を読ませて、食事を出せとまでは言わぬが、渋茶一つもふるまわず、すんでのところでわしゃ一生、坊主の水車になってあそこに(さら)されるところだったわい」

「む、出家の役目じゃと思うて、まず断念(あきら)めさっしゃい。そこまでいっぺんに説教されては、返すことばもねえ。……けんども、精だして人の色恋の始末で、やきもきと気を()むのが、ぬしたち道徳の役だんべい。おっ()んだ魂を導くのも勤めなら、持て余した色恋の裁きをつけるのも法ではねえだか、のう、御坊」

「されば……いや、口の減らぬ老爺(じじい)め、身勝手なことを言う。が、一理ある。――ところでな、あの晩の四手網(よつであみ)の番をしたのが悪縁じゃ。御身が言うとおり色恋の裁きを頼まれたことと思え。

 ほかでもない、この若い人の内儀のことでな」

 雪枝はキッと向き直った。

 坊主はその様子を尻目にかけつつ、続けて老爺(じい)に向けて、

「……その夜、夢幻(ゆめまぼろし)のように(こと)づてを頼まれて、証拠の品として(さい)を受け取ったは、さて此方衆(こなたしゅう)も知っての通りだ。……頼まれたことは都合よく片付いてしまったでな、翌朝すぐにでもここを出発と思うたが、なにか気になる。……温泉宿、村里を托鉢(たくはつ)して、なんとなく、ふらふらと日を送った。若い人の様子を聞けば、私が(こと)づてた通り、なんでも身代わりの彫像を一心に刻んでいると聞く。……それが出来上がったという昨夜(ゆうべ)のことじゃ。若い人が人形を運んでいくのを、後になり先になり、天守へ入って四階目へ上った。すると、柱の根もとで、その木像を抱きしめて、死んだように睡っている。

 はてな、内儀をいまだ返さぬか。いったいどんな魔物が棲むのか。――そこへ行くまではなにも目についたものはなかったによって、なおこの上か、ともう一つ五階へ上ってみた。そこで様子は知れた。」

 と、(うなず)いて言った。

「なにが、何者がいるんだ」と、雪枝は苛立(いらだ)ってひしと詰め寄った。

 坊主はそれを(さえぎ)るかのように身を斜めにして、

「いや、なにかはわからん。なにかが見えたわけではない。しかし五階に上り切って、堅い畳の上に立ったときじゃ。冷たい風が(ひや)りときて、左の腕がぴくりと動くと、引っ張り上げられるようにぐいっと上がって、人さし指がぶるぶると震えた。そうするとな、なにかが口を利くのと同じに、魔物の心がわしの耳に通じたのだよ。……

 天守の主人(あるじ)は、御身の内儀の美艶(あでやか)容色(すがた)懸想(けそう)したのじゃ。理屈もなにもない。(ごう)の力で(つか)み取って、(ねや)のあたりに幽閉(おしこ)めた。眷属(けんぞく)どもがよってたかって、吊り上げては下ろして責め(さいな)む。(むち)打ちの責めは魔界の清涼剤(きつけ)じゃ、静かに放っておけば人間は気病(きや)みで死ぬといってな。……

 言うまでもない、肉を切り裂きその血を(すす)るに躊躇(ちゅうちょ)はないが、この女の夫は香村雪枝だという。あっぱれ一芸の()えを発揮して、その技をもって妻の代償とせよ! 魔神を(なぐさ)め楽しませるものが、美女と交換()えるに十分であれば、たちどころに返し得させる。――

 いいかな、ここまでの主旨は御身の内儀からわしが頼まれて、先に御身に伝えたものと同じじゃ」



四十


「活けて(なが)めようと思う花を、包んだままで部屋に寝かせておいてまでして待ちかまえていたのだ。なのに、差しだされた(つぐな)いの品を見てみれば、あれはなんじゃ! 耳も聞こえず、口もきけず、目も見えず、鮫肌で腰も立たず、針金のような縮れっ毛、()きこめた香が人肌に香り立つわけでもなく、屋根板の臭いがプンとする、がに股で腕も(すね)も節くれ立った木像女がなんになる!……(こぶし)(さい)を持たせるような悪あがきなどして、表現しきれぬ不思議で神秘な宇宙の精神をなんとなく()めたつもりでいるのが可笑(おか)しい。笑止千万な大馬鹿だ!」

「なにっ」とばかりに雪枝が下唇をびりりと噛んで、思わず(つか)みかかろうとすると、坊主は余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)と破れ法衣(ごろも)(そで)を開いて、翼で目隠しをするように、雪枝の視線を(さえぎ)(あお)ると、

「と、な。……天守の主人(あるじ)が言われるのじゃ。……それが、なにもない天井から、この指にぶるぶると響いて聞こえた」

 坊主は(きょ)を突いて、天守の(むね)を貫く勢いで、人さし指を空に伸ばした。雪枝は蒼くなって、ばったりと膝を()いた。

 負けん気の強い老爺(じい)は、腰に力を入れて前屈みになると、

「わかった、わかったよ、御坊。お前さまが仏でも鬼でも、ただの人間でもええ。言わっしゃることは()に落ちた。早い話が、この人の持っていったのは腹を出した(ふな)だったで、奥さまとは取り替えぬ。(ひれ)を立てた魚を持ってこい、それならば返してやると、そういうことだんべい。

 さあ、それじゃい! それじゃによって、わしが後見助言をして、(すぐ)れた、(まさ)った、新しい――いいかの、生命のある――肉づきもふっくらとして、脚腰もすんなりとした、肌もきれいで、月に立てば玉のよう、日に向かえば雪のような、へい、魔王殿がひと目見たら、松ヤニのよだれを流して、魂が夜這星(りゅうせい)になって飛ぶ、乳の白い、足には赤い爪紅(つまべに)をしたやつを製作(こさ)えると言うんじゃい!

 御坊はなぜ、若い者をそそのかして無駄骨を折らせるなどと言うのじゃ。飛騨山(ひだやま)の菊松が、烏帽子(えぼし)をかぶって、向こう鉢巻(はちまき)をして手伝って、みごとに仕上げたらどうするのじゃ」

「されば、言うとおりに仕上がったとして、それでその木像が動くかな。目を動かすかな。指す手が伸びて引く手は曲がるか。足はどうじゃ、歩くかな」

 皆まで言わせず、老爺(じい)の眉は白銀(しろがね)のような光を帯びて、陽光をあびる目を輝かせた。腰の麻袋をぱたぱたと、手拍子を打つように叩いて、鬼に向かって尻を()いてみせる大胆不敵な態度を見せた。

「天守の魔物はいつから()んどる? 飛騨(ひだ)の国の住人、日本の彫刻師(ほりものし)()()菊之丞(きくのじょう)の孫の菊松、行年(ぎょうねん)積もって七十一歳、極楽から釣り銭を貰うような年になって城ヶ沼の女の影に憂き身をやつすおかげもあって、動く、動く、彫刻は活きて歩く。独りですらすらと天守へ上がって、魔物の(ねや)に推参する。しかしその女には、意地も張りもついておるぞ。逆に突っぱねられて嫌われぬ用心をさっせいと、御坊に(こと)づてを頼もうかい」

「よい、よい」

 坊主はニヤニヤと両頬に影を落としながら、あの三日月型の大口を、唇を反らせて結んだまま、(うご)めかせた舌の赤い裏がちらつくほどに口もとをひくひくとさせた笑い方をすると、

「おもしろい! 旅の者じゃが、それも噂に聞いた。そなたが手遊びで(こしら)える五位鷺(ごいさぎ)の船頭は、翼で(かじ)を取り、(くちばし)()いで、水のなかで火を吐くとな……」

「天守の上からご覧なされ。太夫、ホンの前座の芸でござります、ヘッヘッヘッ」と幇間(ほうかん)のものまねで、老爺(じい)はちょんと頭を下げて、()み手をしながら言った。

「おお、その面魂(つらだましい)は頼もしい。まんざらの嘘とも思えぬ。なるほど、そなたが造った像は、(まばた)きもしよう、歩きもしよう、嫌なものにはすねたりもしよう。……されば御身は、若い者の後押しをして、石になるまで働けと励ますのじゃ。自分ではそそのかしているとは思うまい。無駄骨を折らせるともわかるまい。じゃがわしは、無駄じゃ、やめい、と勧める。……その理由(わけ)を言うてきかせよう。そこでじゃ、老爺(じい)

「おう」

「御身が言う、その像には血が通うか」

「血が通うかだと?」

「さればよ。針の先で点いても生命(いのち)を絞る、あの、人間の美しい血が通うかな」

「……」と、老爺(じい)は、ここに至って、はじめて眉を(ひそ)めた。



四十一


 黒坊主はその勢いに乗じて、

「さらに聞きたい。御身が作のその肌は滑らかじゃろう。が、肉はあるか。手に触れて温かみがあるか。木像の身は冷たくないか」

「はてね」と、その問いかけの意図を怪しむうちに、老爺(じい)がちとひるんだのが、表情に出た。

「最も大事なのは口を利くかどうかじゃ。御身の作は声を出すか、ものを言うかな」

「馬鹿なことを、無理無体じゃ」

 と、老爺(じい)はあきれ果てた様子であった。

「理屈ではない。はじめから人の妻を(つか)み取ったうえで注文をつけてくる、悪魔の所業(しわざ)じゃ。無理も無体も奴らには当然と思え。ここをよく聞けよ、二人の人。……御身たちが言う通り、いま新しくやり直せば、いくらか勝れたものは出来よう。だがな、それはただ前のものに(くら)べて、ちと(まさ)るというだけじゃ。

 それもよかろう。なにも持たない、(むな)しい(とぼ)しい者にとっては、御身たちが作り改めるというその木像でもないよりはましじゃ。品によっては、美しいとも、珍しいとも思われるかもしれぬ。

 けれどもな、天守の主人(あるじ)は、すでにその手の内に、活きた、生命(いのち)がある、ものを言う、血の通った、艶麗(あでやか)な女を握っておるのじゃ。よいか、それに代えようというからには、(ほたる)と星、(ちり)と山、(つゆ)一滴と大海の(うしお)ほどの差をつけて、抜群に(すぐ)れて立ち(まさ)ったものでなければ、なにをまた、物好きにも美女を木像と取り換えるものか。

 彫刻()った(ふな)が泳ぐのもよい。おもしろうないとは言わぬが、煮る、焼く、あるいは生のままその肉を(くら)おうと思う者は、料理をしても炭や灰になるだけの木切れなど、なんの足しにもならんと考えよう。

 悪魔は、人間の肉を欲する、血を求める……釈迦(しゃか)が鬼女を降伏させたときでさえ、人肉の代わりにと、柘榴(ざくろ)を与えたというではないか。

 すでに目指す美女を(とら)えて、思うがままに勝ち誇っている相手に向かって、あれこれ(つぐない)いの手段を講じるなど無駄なこと。

 どうじゃ、それとも御身たちに、煙草の吸い(がら)を太陽の炎に変え、悪魔の煩悩(ぼんのう)を焼き滅ぼして美女を助ける妙案があるか。それならば話は別じゃが、よもやあるまい。あるか、なかろう。……

 それが、わしが言う無駄骨ということよ。必要もない仕事三昧(ざんまい)に明け暮れることなど打棄(うっちゃ)って、若い人は妻への思いを断ち切って立ち帰れ。老爺(じい)もいらぬ後押しをせず、素直に妻を捧げるように、若い者を説得せい。

 木像を刻みたければ、勝手に刻め。あっぱれ、出来(でか)したと思うなら、それを自分の女房の代わりにして、(あきら)めるのが分別のしどころだ。みごとだ、美しいと認めるように敵方(あいて)に強いるのは、そっちの無理強いじゃ。わかったか」

 と、不意に指を上げて雲を指した。

「天守の主人(あるじ)(こと)づては以上の通り。あらためてその証拠を示そう。……先刻(さき)にも申したように、鮫肌(さめはだ)の、縮れ毛の、醜い汚い木像を、訳ありなものに装うた心根が苦々しくてならず、へし折ってねじ切った女の片腕を、いま返すわ、受け取れ」

 と、法衣(ころも)の破れ目を(くぐ)らせたように、(ふところ)から抜いてポーンと投げだした。

 坊主はまた、いきなり指を立てながら、一足の幅を後ろに退(さが)った。それぞれがうなだれた二人の間に、あわれなことに甲を草につけて、しかしそれでも優しく(なま)めかしい、女の腕が仰向けに落ちていた。

 雪枝はただ自分の肩を抱いて、身を絞った。

 さすがに老爺(じい)はまだ気丈で、魔物がそこまで口汚く罵り(あざけ)る、新弟子の作品がどんなものかを、はじめてきちんと手に取って確かめようと、じっと見て、弱ったという様子で顔をしかめながら、しばらくは無言でいた。薄くはなったがまだ消え果ててはいない、底光りのする目を細くして、

「いや、御出家」

 と、声の調子を変えて、

「虫の居所が悪くてカッともしたがの、考えてみればお(めえ)さまは、ただ(こと)づてを頼まれただけのことよ。なにも()ってかかるには当たらなんだ。……が、それでも(めえ)さまとてもこの若い人に、(うら)みも(おん)(むく)いもあらっしゃるわけではねえ。……ところで、ものは相談じゃが、なんとかして、その奥さまを助ける手段はねえだか。のう、御坊。人助けは僧侶の勤めじゃ。ひとつ折り入って頼むだで、考えてくらっせえ」と、がらりと態度を変えた。



四十二


 これを聞くと、坊主は気色をやや和らげて、さもあらん、という表情を浮かべた。

「されば、そう言われるとわしも弱る。天守からは、『うまく片をつけろ。もはや女を思い切るよう、若い人を(さと)せ』と言われておる。しかし御身たちは生命(いのち)に代えても取り戻したいと切実に願っておる。

 で、それを取り戻すただ一つの手段(てだて)というのが、身代わりの像を作ることじゃ。その像が、御身たちに……」

「ええ、ええ、もう、ようわかった。わしがなんぼ鉢巻(はちまき)をしても血の通った暖かい彫刻(ほりもの)を作る自信はないで……なんとか、別の妙案を頼むだ。もう、こんなものは……」

 と、見切りをつけたしるしに、手にした女の腕を叩きつけようとして振りあげた。するとその腕の(こぶし)から、ころころと(さい)がこぼれて、草のなかの蟋蟀(こおろぎ)の目のような、一か六かという采の目が出た。

 三人がじっと見つめた。

 坊主がまず、

老爺(おやじ)……」と、老爺(じい)の様子に気づいて呼びかけた。

「はあ、これじゃ」

 と、采を振る(つぼ)(ふた)をするように、老爺(じい)は目の上に手をかざして、

「ちょっくら思い当たることがある。待たっせい、御坊……」

「……」

「若い人もどう思う。お前さまが子どものころ、姉様(あねさま)と呼んで慕ってらしたという木像からの縁続きで、こないだ奥さまの行方がわからなくなったときから巡り巡って、采粒(さいつぶ)がつきまとう。いまここに采がある。……この山奥に双六(すごろく)(いわ)がある。そこも魔所じゃと名が高い。ときどき山が(くう)になって(しん)とすると、ころころと采を投げる音が木樵(きこり)の耳に響くとやらの噂があるで。天守にも主人(あるじ)があれば、双六巌(すごろくいわ)にも(ぬし)()もう。どちらも似たり寄ったりの魔物だ。早え話が親類同士のつき合いがあろうかも知れぬだ。魔界のことはまた魔界の者同士、話のつけ方もあろうと思う。どうだね、御坊」

 坊主も二度三度と(うなず)いた。そしてその広い額を深く下げた。

「いや、よいところに気がついた。……なんにせよ、この上は、各々(おのおの)()を張らずに人頼みじゃ。頼むのならば、なるほどそのへんであろうかな」

「行ってみるべい。方角は北東(きたひがし)(やり)(たけ)を目印に、辰巳(たつみ)に目をやると、あれあれ綿で包んだような天守の森があって、その枝々の下に峰が見える、川が見える、また峰が見えて、川が曲がる、また一つ峰が頭を出している。あそこの空が紫がかって、ほんのり桃色に薄く見えるべい。――ちょうど都合のいいことに、麻袋には昼飯の握り飯を余るほど詰めてある。山芋を掘って横囓(よこかじ)りしても、一日二日は(しの)げるだ。やってみろ、さあ行くだ。若い人、お前さま、その采を拾わっしゃい。御坊はどうする」

「乗りかかった船じゃ。わしも行く」

 話はまとまり、連れだって、天守の森の外回りを、(ほり)を越えて、しばらくは石垣の上を歩いた。

 そのとき、十八、九人の一行が、野を越えてぞろぞろと駆けてきた。なかには巡査も交じっている。彼らから見れば、(ほり)の向こうの高い石垣の上に、森の枝を伝うかのように見える雪枝の姿が、小さな鳥になって雲に入って行くようにながめられたであろう。

 手を挙げ、帽子を振り、ステッキを振りまわしなどして、わあわっと声をあげたが、そのうちに、草に落ちた女の片腕を見つけた者が一人いた。一行はそこからひとたまりもなく陣形を崩して、真っ昼間の山の野原を一目散に、雲を(かすみ)と逃げ戻っていく。

 森の幕がサッと落ちて、双六谷が舞台のように目の前に開けたかのように、雪枝は思った。……悪所難路をたどりはしたが、さほど時が経ったとも思われず、そのために疲労(つか)れが増したわけでもない。足を運んでいるうちにたどり着いたから、あたかも城址(しろあと)の場所から、森が土塀(どべい)だとしたら、塀を一つ隔てた背中合わせの隣家を訪ねたぐらいにしか思えなかった。――もっとも、案内をすると言っていた老爺(じい)よりも、坊主のほうがすたすたと先に行って歩いていたが。

 ある巌陰(いわかげ)を出たときであった。三人の目に、明け方の明星(みょうじょう)を見るようにサッと映ったのは、煙のようにたなびき、(かすみ)のなかに朦朧とした光を放つ、一枝の桜だった。


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