双六盤
三十七
雪枝は合掌をして跪いた。
彼の前には、一座の滑らかな盤石がある。
その色はといえば、あたかも千尋の縁の底に沈んだ平らかな巌を、太陽の色も白く見えるほどの霞に満ちた、一塵の濁りもない蒼空に合わせ鏡をして映したような、濃い緑に碧を交えている。大きさはそう、畳三畳ほどに見える。
これが世に、飛騨の国吉城郡の山奥に神宝があると噂される双六巌で、双六谷の地名の由来でもある。巌の表面には、上下に源氏香の図を合わせたような縞が、末端を揃えた模様になって浮いている。虹を削って描いたかのような模様の上をほんのりと霞が彩っている。
薄紫の若草に背後を囲まれた山懐に、赫耀として輝く日の光は、黄金の網をサッと投げてはいるが、人の目を射るほど激しくはない。そのとき太陽は、遠く幽かな連山に生えた、雪を被いだ白蓮の蕊のように見えた。……重なる山々はこの谷を目がけて、次第に高く迫り来るようであり、峰と峰とのはざまを埋める蒼空を縫うように流れる白い糸は、遠くは雲、やがて霞となり、目前にあるのは陽炎である。
陽炎は、村里町家に現れる、怪しい蜘蛛の巣の乱れた幻影のようなものではなく、まるで練絹を解いたようで、蝶々がふわふわと吐く呼吸が、その羽ばたきに合わせてひらひらと拡がるかのようで、しかもそれらがみな、美しい女の姿を象っている。あるものは黄の裳裾に、あるものは紫の袖に……
紫は菫の影で、黄は鼓草の花が照り添わせる色であった。
双六巌のあたりには、この二種の花が、咲き埋めるばかりに満ちている。……それら色づいた陽炎が、そこはかとなく女の風情を漂わせるなかに、それとは別に、そこにだけ雪を集めたかのような一人の美女がいる。その巌の向こう側に、卓に向かって立つといった姿で、彼女はたたずんでいた。
雪枝はその美女を前にして、双六巌を隔ててうずくまっているのである。
双六巌に浮きあがる虹のような格子模様は、美女の帯のあたりまでスーッと線を延ばして、そこへも紫が差しこみ、黄が映えている。……雲は、霞は、陽炎は、あちらこちらにことごとく満ちて、この美女の容色を整えるために、濃くもなり、薄くもなってかかるかのようだ。それらはまるで、白銀の鎧をまとって彼女を守護する勇士のように厳かに働きながら、姫にかしずく侍女のように優しく寄り添っている。
美女の背後には、山間の窪地にただ一本、古歌の風情をたたえた桜が、浅葱でも墨染でも白妙でもなく、薄紅に一重の花を咲かせている。
花色は美女の瞼にさし、花影は美女の衣を透かしている。
雪枝が路を分け入り、巌を伝い、流れを渡り、梢を攀じ登り、桂の下を這ってこの山陰にたどり着いたとき、初めて見たのはこの桜だった。
さて、美女のもとに集まった一行は、雪枝と老爺と別に一人、背の高い、色の蒼い坊主であった。
話は少し前にさかのぼる。雪枝は城址の濠端で老爺と並んで、ほとんど小学生のような態度で、熱心に魚の木彫りを刻んでいた。同時に製作しはじめた老爺の手先を見ようと、そっと脇見をしたのだが、ふとその目を逸らしたとき、天守の矢狭間から、そこに湧きだしてきたかのような黒坊主の姿を見た。しかしとっさにそれは、梟か烏だと思った。
そこは妻が囚われた魔の城であり、大牛もいるはずだ。……よし、たとえ見えたのが天狗であっても、気を散らしている場合ではない。ここで下ろす一刀は、妻を救う一歩である。そう思い切ると潔く木屑を散らして、ひと思いに刻み終えた。
「どうよ、見せてみなせえ」
先に自分の小刀を袋に納めて、顎杖をついて待っていた老爺は、雪枝の作品を手のひらに載せて、煙管をくわえた。
「おお、よく出来た。ぴちぴちと刎ねるようだ。……いや、やりなさるるとは思っていた……みごとなものじゃ。乾かしておくとおっ死ぬべい。それ、勝手に泳げ!」
と言って、雪枝が作った木彫りの魚をひょいと放ると、濠の水にばちゃりと落ちた。けれども落ちた魚は腹を出して、きらきらと光る油膜の浮いた水面にぷかりと浮きあがった。
三十八
「そりゃ。若い魚の元気を見習え。ぬしもばちゃばちゃと泳げい」
と言って老爺は、今度は自分が刻んだ魚を、こちらは、ぶざまにひん握ったまま、同じように投げた。すると飛沫が立ったが、こちらの魚は浮き草をサッと分けて、鰭を縦にしたまま薄影のなかにとどまって、水際に沈んでスッと留まる。雪枝の作品と比べてみると、こちらはちょうど、釣り糸に結んだ浮木が、かかった魚に引かれているような動きだった。
なにをやっているのかと不思議に思った雪枝は、立ちあがると岸辺に立って、枯れ蘆の茎越しに濠を見つめた。水面に浮いた油膜の上と下に、明らかに両者の秀劣を刻みつけられたのを悟ると、思わず、
「はあっ」と嘆息した。
老爺はもんぺの膝に落ちた小刀屑をはたきながら、眉をふさふさと揺すって笑い、
「ハッハッハッ、ひい、ふう、みい! わしの勝ちじゃ。見さっせえ、形は同じような出来だ。だがの、お前さまの鮒は水に入れると腹を出したで、死んだ魚よ。わしの鮒は、泳ぎはしねえでも、鰭を立てたれば活きた奴。俎に乗せても、なんとしたところで人間の口では食えねえけども、翡翠が来て狙うたら、ちょっくら潜って逃げべいさ。
囲炉裏の自在竹に引っかける鯉にしても、水へ放せば活きねばならぬ。お前さまの鮒のように、へたりと腹をだすようじゃいけねえ。木を削るときの釣り合い一つで、水に入れたときの浮き方が違うでねえかの。縦に留まれば生がある。横に寝れば死んだりよ。……難しいことではねえだ。
しかし、お前さま、この手際では、昨夜造りあげて、お天守へ持ってござった木像も、やっぱり同じことやったんではねえかい。……寸法が同じでも脚の筋が痙ってはおらぬか、それでは不自由じゃ。右と、左と、腕の釣り合いも悪かったんべい。頬っぺたの肉がどっちか違えば、片がりべいという不具じゃ、それでは美しい女でねえだよ。
もし、へい、五体が満足な彫刻物であったらば、真っ昼間にお前さまとわしとが面をつき合わせた真ん中に置いても動きだしはすめえけれど、月の黄色い小雨の夜中……お前さまがいま話さしった、案山子が歩くなかに入れたら、ひとりで褄を取って、しゃなりしゃなりと歩くべい。なにも、破れ傘の化け車に骨を折らせて運ばせずとも済むことよ。普段ならともかくじゃ、おまけに案山子どもが声を出して『お迎い』と言う世界なら、そもそもお前さまがその像を担いで出ることもあるめえ。なんで、さあ、木像、歩けと言えるほどの気構えにならっしゃらない。……
それでは魔物が不承知じゃ。受け入れずとも無理はねえ。気に入るも入らぬも……出来不出来は最初から、お前さまの魂にあるでねえか。
そこにかけてはわしの鮒じゃ。案山子が蓑をさばいて捕ろうとするなら、ぴちぴち刎ねる。みごとに泳ぐぞよ。老爺が大げさに吐いてるわけではねえ。なんの、橋の欄干が声を出す、槐がくしゃみをすべえなら、わしの鮒は鱗を光らせ、雲を巻いて、踊りを踊るわ。
やり直さっしゃい。新たにはじめろ。も一つ作れさ。
どうやらお前さまよりわしのほうがましだんべいで、できることさ助言もするべい。していいところは手伝うべい。腰につける道具もそろう」
と、武具を誇るように、麻袋を叩いて言った。
「すかっと斬れるぞ。残らず貸すべい。兵糧も運ぶだでの! 宿へも祠へも帰らねえで、ここへしっかり胡座をかけさ。下腹へうんと力を入れるだ。雨露をしのぐなら、わしが小屋がけをして進ぜる。大目玉で天守をにらんで、そこに囚われて魔界の業苦にあって、一刻ごとに長い髪一筋ずつ生き血を垂らす、愛おしい奥さまの苦悩を忘れずに、どこまでもやれさ。倒れたら介抱すべい」
雪枝は満面を紅に染めて、天守に向かって、峰より高く握りこぶしを突き上げた。
そのとき、二人の背後にぬいっと立って、
「若い者をそそのかして、いらぬ骨を折らせるな。娑婆っけな老爺めが」と言ったのは……。
苔を生やしたような薄毛の頭に、笠もかぶらず、朽ちた大木に月光の射すようなぼやけた色の墨染の扮装で、顔色の蒼い大入道である!
ふり向いた老爺の顔を見下ろして、
「覚えているか、闇の晩を」とほくそ笑んだ。頬に蔭が落ちる。