天守の下
三十六
雪枝は語り終えた。
飛騨の国の工人菊松は、そこに仰向けに倒れて、いまも悪い夢にうなされているような、日向にさらされた青年の顔を、額に脂汗を浮かべた悩ましげなさまを、さも気の毒そうに見守った。
「聞けば聞くほど、へい、なんとも言いようがねえ。けんども、お前さま、お若えのに、そのくらいのことにそう気い落とっしゃるもんでねえ。たかが、あれだ、昨夜持って行かっしゃったその身代わりの像が、お天守さまの……どこだか腑に落ちねえところがあったで、約束の通り奥さまを返さなかったってことでがんしょ。だで、もう一つ拵えさっせえ。美しい女の木像さ、またやり直すだね。ええ、お前さま、相手がしち面倒くさいだけに張り合いがある。……案山子じゃなんねえ。素襖でも着た手合いが玉の輿を抱えて『へい、お迎え』と下座するような木彫りを作らっせえ。ええい!っと元気を出さっしゃりまし」
「そこです、老爺さん」
と雪枝は草をつかんで起き直ると、
「いまも苦しみ続けている浦子を救うために製作えたんです。ありったけの元気も出した、力も尽くした、もうどうしようもない。しかし、ここで貴老に出会ったのは、天の引き合わせだと思うのです。
いや、それよりもこの土地へ来て、夢とも現ともわからないいろいろな事件があったのは、ほかでもない、女のために仕事を忘れた眠りを覚まして、謹んで貴老に教えを受けさせようとする、芸の神の計らいなのかもしれない。私は跪きます。その草鞋を頭上に押し戴きます。……どうぞ、弟子にしてください。教えてください。そして浦子を救ってください」
「いや、さっき船のなかで焼けるのを向こうから見たときにはな、活きた人だとびっくりしたっけの。お前さまはひとかどの腕をもっておる。べつにわしみたいなのに相談しなさるには及ぶめえが、奥さまのお身の上のこともある。できるならお手伝いせずにはいられぬじゃ。年の功だけでも取り柄があるなら、今度作らっしゃるに助言などすべえさ。まあ、待たっせえよ、わしがいま……」と狸のような麻袋を揺らしながら、腰を伸ばしてのっそりと立ちあがった。
朝日の差す野を一人、老爺は腰骨のあたりで手を組んで、なにかを探している様子で歩いていたが、しばらくして引き返してきた。……拾ってきたのは雄鹿の折れた角か、あるいは山深ければ千歳の松の根に生えると聞く茯苓という茸のようにも思えたが、なに、そんなたいそうなものでもなく……ただの木の枝である。女の腕ぐらいの細さで、一尺あまりの長さ。
そこで件の麻袋の口を開けて、握り飯でも出しそうなところを、一挺の小刀を抜き取って、無造作にサクリと枝に当てた。それがまたよく切れる。枝はスパッと二つになった。
「鯉と言いたいところだが、木がちっこい。泥鰌では可笑しかんべい。鮒を一つ製えてみっせえ。ざっと形になればええ。鱗は縦横に筋を引くだ。……わしも同じにやらかすで、較べて見るだね。ひょっとしてわしのほうさ出来がよければ、相談相手になれるだでの。いいか、さあ、ござらっせえ」
と、小刀を添えた枝を突きつけた。雪枝は胡座を組み直した。
「ひい、ふう、みいで、はじめるぞ。はははは、駆け比べのようだの。なにも、どちらが早いかに構うことねえだよ。お前さまからすりゃ冗談はよせと思いなさろうが、なんでも仕事をするには元気に限るだで。景気をつけるだ。――ええかの、ひい、ふう、みいで取りかかるだ。ひい、ふう、みい! ハッハッハッ」
笑いかけて、澄ました顔で仕事をはじめた老爺の手にも小刀が動く。並んで二挺の小刀が日の光にきらきらと煌めきはじめた。……手のひらに握った木の枝が、その小刀の輝きにあわせて、鰭をふるうかのように見える。香川雪枝も、さすがに名声を得た青年であった。
この老爺と雪枝が、朝日に向かって濠端で小刀を使う。前面の大手門のかなたには、城址の天守が群山を抜いて、雲の晴れた蒼空にすっくと立つ。鞘を払ったかのような絶頂を見せる飛騨山槍ヶ岳と、十里におよぶ遠近の景観に向きあって、二人の頭上に他の連峰を率いて古城がそびえていたことを忘れてはならない。
件の天守の棟に近い五階目あたりには、廂の下で霞を吸いながら大あくびをしている、一人の坊主の姿があった。