バサリ
三十三
「そのなかのどれが言ったのか? 中風病みのような、老けた、舌っ足らずな口調で、
『おねんぎょ』と言った。
『おねんご』
と、また訴えてくる。……
糠雨の降る朧夜に、山中の小さな祠の前である。そこに、破れ蓑をまとってしょぼしょぼした風体の案山子たちが集まっている。その言うことが、お年貢、お年貢と聞こえて、年貢未納の罪状により水牢で責め殺された者の亡霊か、あるいは百姓一揆の怨霊か、と思った。一揆の筵旗を挙げたのが、この祠の前なのかもしれない。――しかし、なにを求めるというのか? そこがわからない。じっと見つめていると、右から左から階の前にぞろぞろと寄ってきた。蓑の擦れ合う音がして、
『うけとろ』
『受け取ろう』
『おねんご受け取ろ』という。その声はどこから出るのか。一本竹で立った地のなかから、ぶるぶる湧きだしてくる。
『おお』
私は思わず合点した。
『人形が、この彫像を受け取ろうというのか?』
彼らのなかでも笠をつけたものが、ぱくぱくと動いて頷くのが目についた。最初に見かけた三体のうちの一つらしい。
『おおそう、おぶおう、おぶそう』と大声を張りあげる。あたかも『おお、そうだ、負ぶおう、負ぶされ』と言っているかのようだ。
『よし、よし』
そう答えると私は、衣服を被けた彫像を抱きあげると、あらためて狐格子の扉を開いた。
『おお、案山子ども』
私はまじめに彼らと対話をしていた。いま思えば……言うまでもなく、まったくどうにかしていたのだ。……
『ご苦労、御厚意は受け取ったが、おれの刻んだこの女は活きているぞ。貴様たちに持ち運ばれてはめまいを起こすだろう。自分でおんぶをしていくぞ』
と高笑いをして、腕に抱いてもよかった彫像を、肩の上に揺り上げた。肩越しに見上げてみると、天井の暗がりに溶けた黒い髪に縁取られて、白い美しい顔が、上から覗きこむように見えた。そこに私はありありと、自分が彫刻家になった幼い頃の運命が、形になって表れていることを認めた。
『出かけるぞ。お前たちは道案内をするのか、後についてくるのか』と私が言うと……
案山子どもは藁を乱しながら、後先になって、煙のように付き添ってくる。そうして祠のある樹立を離れるあたりから、この異様な一行の間に、二つ、三つの灯りが点いた。けれども光の本体があるようにも見えず、かといってものを照らさないというわけでもない。たとえば月の本体が霞んでしまって、田毎に映る影ばかり、となったときに、雨脚のなかにその光がぼんやりと照り輝くようなものだ。ちょうど暮れ方に見た土器色の月のようでもあり、それがいくつにもなって現れたようだ。
その光が案山子どもの行く方向へ、進めば進み、移れば移り、路を曲がるときなどは、スイッと前へ飛んで、ちょっと止まって、土器色を輝かせながら待っている。ともすれば、曇ることもあった。この灯りは、ひくひくと呼吸をしているのだ。
二、三軒並んだ低い藁屋が、煙出しの窓も閉じて、目もなく口もないといったふうに、闇から這い出した獣のように這いつくばって、しんとして寝ている前を通ったとき、
『ばッさ、ばッさ』
案山子は蓑を鳴らしたのではない。もう聞き慣れたあの声で、遠慮のない口を利いた。
『ばっさよ、ばっさよ』
『コーコー、来ーい、来い』
と、続けてしゃべった。
ばさり、というのが、ばさり、と聞こえて、ばさり、と鳴って、その藁屋の廂から畷道へ、ばさり、と落ちたものがある。続いてもう一つ、ばさり、と落ちてくる。
鳥だか獣だがわからないが、ここにバサリと名づけられたものが住んでいて、案山子に呼び出されたのだろうと思った。やがてそれが二つ並んで、ひょいっと真っ直ぐに立つ。すぐに左右へ倒れながら、また、ばさりと聞こえた。けれども名乗ったわけではなく、ばさりというのはそれが立てた音である。それの正体は、二本の番傘だった。それがばさりと開いたのはいいが、古御所の簾みたいにバラバラに裂けていた」
三十四
「見ていると、二本の番傘は両方から柄の部分を合わせて、しっかりとつながった。それらは軸でつながった車輪のようになって、畷道をぐるぐると回って、柄と柄をつなぎ合わせたままでカタンと止まった。
三、四体の案山子が、ふらふらと取りまいてくると、
『乗っされ』
『お人形、乗っせえ』
『ははあ、ここに乗せろというのか。おもしろい』
思うに、この車を用意して、わが作品をお迎え奉ろうというのだろう。その厚意を重んずれば、輿であろうが駕籠であろうが破れ傘であろうが違いはない。そこで彫像の脇を抱いて、傘の柄に腰かけさせてみると、不思議なことに裾を開いて肩を反らせてひっくり返るといったこともない。膠でくっつけたように、ちゃんと乗っている。とたんに傘がくるくる回って、さっさと進みはじめた。……
やがて温泉の宿を前方に望みながら、あたかも銀河が砕けて山を貫くかのような谿河の流れが傍らに現れた。すると、傘の車輪は流れに逆う水車のようにめまぐるしく回転し、破れ目を水が走り抜けるように、斜めに黄色い雪のような土埃の飛沫を散らした。それに合わせて案山子どもが飛ぶこと、ひょろつくことといったら!
人々よ、これを見ろ。
月が三つ、四つに増えて路を照らすのも、案山子が飛ぶのも、傘の車が走るのも、そしてその車に、活きているかのような木像が胸を反らせて横座りをしているのも、すべてが自分の神通力せいだと感じて、寝静まった宿のほうへ拳を突きだした私は、からからと笑った。
『人々よ、これを見ろ』
そのとき、車を真ん中にした案山子の列は、橋にさしかかった。……音をたてる急流を横切って、生意気にも案山子の一行は、よろめきながらも竹の脚を橋板に、どさどさと踏み轟かせる。
『寝ているのに騒がしいぞ』
と、橋の欄干が声をかけた。
『ああ、お気の毒さま』
と、うっかり人間の私が答えてしまった。おや、と気を取り戻すと、川水がザザッと音をたてているだけである。
もっと可怪しかったのは、一行が、城山の登り口にある、私にも覚えがあるあの石段に差しかかったときで、これから一気に上がろうという前に一息つくつもりなのか、ふと動きを止めた案山子たちのなかで、怠け者らしき蓑の裾の長い一体が、石段の下で雲のように渦巻いている大木の槐の幹に寄りかかって、ごそごそと身動きしたと思し召せ。
『わあっ、くすぐってえ』と樹がわめいた。
傘はぐるぐると回って石段に差しかかった。苦もなくよじ登っていくのに不思議はない。濃やかな夜の色に包まれた石段を、雲に乗ったかのようにすらすらとすべり上がる。案山子のなかにも、せっかちで身軽なものがいるのだろう。二体、三体が傘の車を追いかけると、スイッと飛んで車の真上に上がると、あの土器色の月の形の灯をふわりと乗り越えた。
段の上には、一体の石地蔵がいらっしゃった。
『坊ちゃま、坊ちゃま』と、一体の案山子が声をかける。
『さても迷惑』
とおっしゃった地蔵は、御手にお持ちの錫杖をずいっと上げて、トンと下ろすと前へと歩み出られた。坊ちゃまと言われたのもなるほど、御襟もとに付けた涎掛けめいた布を、ひらひらと揺らしながら進んで来られる。……
それが、この野原に着いたときのことです」
――と、老爺に向きあっていた雪枝は、ふり返って左右を眺めた。――
陽炎が膝に這い寄り、太陽はほかほかと射している頃合いになった。空は晴れたが、草の葉の濡れ色は、しだいに霞に吸いとられようとするかのようだ。
「その地蔵尊が、前のほうから錫杖を支きながら、案山子の一行についてきた私とすれ違って、黙って坂のほうへ戻って行かれる。すると案山子たちもぞろぞろと引き返すんです。
番傘は、と見ると、これもくるくる回って戻っていく。しかし、まるで空っぽになって、上に乗せていた彫像が見あたりません。
……ふと目を向こうに向けると、どうです。……一頭の大牛がこちらへ尾を向けてのそりと歩んでいる。その図体は山を圧してこの野原にも幅を占めるほど、朧のなかに影が膨らんで見える。その背中に浦子の像が、紅の扱き帯を長く引きずりながら、仰向けになってふわりと乗っかっている」
三十五
「破れ傘の車の場合は、べつに侮られた、辱められたとは感じなかった。しかしいま、牛の背に乗せられているのを見ると、むごたらしくて我慢ができなくなった! 木を刻んで作ったものとはいえ、牛裂きになって関節から二つにひき裂かれそうな気がして、そう思うと生身の浦子だか人形の女だか区別もつかない。
『あっ』と叫んで背後から飛びかかった。が、手が届きそうになっても、もう一歩のところでどうしても尾をつかめない。……牛は急ぐともなく、まるでなにもかもが静止したかのような朧夜であっても、自ずと時は移ろいゆくとでもいうように、古城の大手門へ向かう路を悠々と進んでいく。
しばらくしてその牛が、去年一昨年のままだと思える枯れ蘆のなかを縫って通ったときは、俗に言う、牛は水底を踏んで通るということばどおりの、どっしりとしたものに見えた。背中で仰向けになった彫像の胸に、采を握った白いすべすべとした拳が、苦しんで空をつかむように見えるのが、痛々しくってたまらない。
喘ぎ喘ぎ、息をはあはあとさせながら、後についていく。
その牛がですよ、老爺さん」
――と雪枝は、聞き手に呼びかけた。――
「天守の礎の土を後足で踏んで、高く上に挙げた前脚を、抱くような形で棟に掛けたかと思うと、一階にある回廊のような板敷きへぬいっと上がって、その外回りをぐるりと歩いた。名高き槍ヶ岳とともに中空に並び聳えた古城は、月を懸け、太陽を迎えると聞く。……この建物はさすがに偉大い。
――朧のなかであれほど巨大なものに感じていた牛の姿も、床を走る鼠のように見えた。
板敷きをぐるりと一回りした牛は、一ヶ所だけ巌を抉ったようになった扉のなかへ、暗い影の姿になって入っていった。と思うと、折り返した階段の中ほどを、こちらに向けた灰色の背をうねらせながら上っていく。その斑の模様が見えた。
この一階目の床は、ついさっきよぎった野原のあちらこちらに扉を設えたかのように広かった。短い草もところどころに生え、矢狭間のある城壁に、黄色い月を一つ浮かべて、朧夜に菜種が咲く。
牛の尻尾が、黒雲を見上げるように、上がり口からはみ出しているのを仰ぎながら、上の段、上の段と、両手を先に掛けながら、私は慌ただしく階段を駆け上がりました。……牛の身体は、もう上がり口の上に半身を乗りだしています。
ぐるぐると急いで折り返し、取りついては追って、また上る。そのとき矢狭間から見えた月は赤かった。魔界の色であろうと思う。けれどもためらう隙もなく、すぐに三階目によじ登る。……
もはや仰ぎ見ても、覗き見ても、大牛の姿は目にはいらなかった。あとは夢中で、ぶつかれば身を引き、床があれば踏みしめ、階段があれば上る。もう何階目まで上ったのかわからない。雲なのか、靄なのか、綿で包んだように、およそ三抱えほどもあるだろう太さの丸柱が、真ん中に白く、ぬっくと立っていた。……と、ひと目見れば、その柱の根に、一人しょんぼりと立った女の姿があった。
『浦子……』と膝を支いて、すり寄ってしっかりと抱いて、思いつくかぎりのことばを、我を忘れて浴びせかけた。声が籠もって空に響いているのか、天井の上――五階のあたりで、多人数がわやわやとしゃべっている声を聞きながら、これまで積みかさねた辛苦と安心した気抜けのせいで、そのまま前後不覚に陥った。……
『やっ』
と意識を取り戻す。こんなことでは、雲を踏んでいるような危なっかしさではないか。――夫婦が活きてふたたび現世の天と日を仰ぐには、無事にいくつもの階段を下って下まで下りきることしかない。それさえすれば、と思うと、昨夜の豪胆な勢いにも似ず、爪先が震える。腰ががくつく。血が凍って肉がこわばる。
『気をつけて、気をつけて、危ない』と、両方の足の指、白い妻の脚と、私のと、それぞれ十本ずつを、ちらちらと一心不乱に見つめながら、あたかも断崖であるかのように階段を下る。天守の下は、地面が矢のように流れているように思えた。……」
――雪枝は、語り継ぐ声を弱らせながら――
「やっとの思いでここまで来て、……まず一息ついて気がつくと、こんなことになっていた。……老爺さん、身代わりの犠牲と交換で、やっとの思いでわが手に救い出したと喜んだのは、浦子じゃなかった。家内じゃなかった。昨夜持っていった彫像をそのまま突っ返されて、おめおめと担いで帰ったんです。しかも片腕がもぎとられている。あの采を持たせた手が。……ああ、私は五体が痺れる」と、胸を掴んで悶えると、雪枝はその場に倒れた。