供揃え
三十
「いや、その息の臭いことといったら。それだけではない。立つでも座るでもなく中腰になってしゃがんでいた山男の膝は折れかかった朽ち木のようになり、節くれだってギクリと曲がっている。腕組みをした肘のあたりを胸にくっつけて、どてらの袖のなかに手先を縮めて両方に跳ねあげた腕は、まるで翼のようだ。
『権七じゃない! 小天狗が天守から見張りに来たな!』
そいつはいきなり突っ立つと、作りかけの像を覗きこんで、角を平らにしたような鼻の小鼻をヒクヒクさせて、フッフッ、ハッハッと息を吐いていた。そのうちに、上を向いて尖った口をひとたびブルッと震わせたかと思うと、いきなり頭を振り下げた。
その嘴で、彫像の眼球をグサリと刺したのです。
ハッと思ったときには、烏ほどの真っ黒な鳥が一羽、虫食いだらけの格天井をサッとかすめて、狐格子の扉から飛びだした。……
目を一つ抉られたら半身を削り取られたも同じこと。この事件のために、第一の作は無駄になった。
あまりのなりゆきにただ呆然として、終いには涙を流したのだが、いやいや、ここまで造った未完のこの作は、作業半ばにして早くもどこかに破綻を生じて、私が描いた理想に対して満足のいかぬところがあったのだろう。――なるほどそう思えば、一つ残った瞳を見ても、浦子のそれよりも情けを宿してはいない。いや、少しも帯びてはいない。……手足が完全にできあがった段階になってから斧で砕かれても、相手が鬼神では文句も言えないはずだ。力を注ぎ尽くさないうちに前もってその欠点を指摘して、ひと思いに未練を断ち切らせたのは、むしろ少なからぬ慈悲を恵んでくれたのだといえよう。
そこで直ちに木材を伐りなおして、第二の像を刻みはじめた。けれどもまた、この作に対する妨害は、並大抵ではなかった。猫が来て、踏んで通り抜ける。鼠が囓る。とろとろと睡って目を覚ますと、犬が来てペロペロと舐めている。胴体に蛇が巻きつく。冬眠から目覚めたばかりらしい家守が来て、上下に鼻を這いまわる。……そのうちに私自身の身体を狙って、手を揺さぶる、襟首を取って引き倒す、なんだかわからないものがキチキチと鳴いて、腰の下をくすぐってくる。
そんな状況でも命を懸けて、やっと五体を調えたのだが、なんとも無残なことに、指が折れる、乳首が欠ける、耳がもげる。……けっきょく第二作は、自らの手で打ち砕いた。その斧をふるったとき、細かく砕けて木屑となっていく彫像からは、骨を裂くような音がして、飛騨の山々に凄まじく谺しました。
その夜更けからしばらくの間、意識を失っていましたが、いつとも知れず我に返ると、すぐさま第三作を作りはじめた。……そのときはもう祠の前の鳥居は倒れて、朽ちたしめ縄はほろほろと断れて、跡形もなくなっていた。……
そして今度の作は完成した。内股に組み立てて肉づきも締まった、膝や脛の釣合もよいその脚で、支えになるものも置かない彫像が、本堂の正面にすっくと立ったとき、冴えた小刀の仕事によって、木の肌はまるで雪のように白く見えた。……伝説もなく縁起もなく由緒もない、それでも風流そのものである女神の姿が、祠の扉を開いてまざまざと現れたように思えたのです。すぐそばの棚には、古い幣が斜めに立てかけて残されていましたが、それが示す神の威光にも引け目を感じさせない神々しさでした。
折から来合わせた権七に見せると、顔色を変え、口をとがらせ、目を光らせて見つめている。その面は烏にもならず、脚は朽ち木にもならず、袖は羽にもならない。
今回は魔物の邪魔が無いことを確かめた私は、自分で背負うなり抱くなりして、その彫像を城址の天守まで運ぶことにした。途中で汚れるのを避けるため、覆い代わりに浦子の着物を着せようと思って、権七を温泉宿まで取りにやったのです。
その後、この祠に籠もって以来、幾日の間かは鳥居より外に出ていなかった身体を伸び伸びとさせて、大手を振って畦道から畷道へ出た。――
それほど遠くもない城ヶ沼のほうへ、なんとなく足が向いて、ぶらりぶらりと歩いたが、自分の家を出てそこらを散歩するような、祠の家には浦子がいて、留守番をしていて、私のために燈火のもとで針仕事でもしているような、そんな楽しい気分になった。……散歩用の細いステッキを持っていないのがもの足りなく思えたほどでした。
風もふわふわと木の枝をくすぐって、はらはらと笑わせて花を咲かせようとするらしい。まるで壺中之天の物語の世界にいるようで、山国の春の夜は朧。――」
三十一
「たとえて言えば城ヶ沼を裏返して、空へみなぎらせたような夜の色でした。まだ寝たりなくて寝ぼけ眼をしているような肥った月が、田の水にも映らず、山の姿も照らさず、そうかといって松並木に隠れるわけでもなく、谷の底にも落ちないで、ふわりとなにもない空に、土器色をして浮かんでいます。畷道も畦道もぼうっと明るいのに、粘りを帯びたなま暖かいこぬか雨が、月の上からともなく、下からともなく、しっとりと落ちてきかかると、中空でむらむらと立ち消える。髪も衣も濡れもしないで湿っぽい。けれども手で撫でてみても、雫で濡れた感じはない。――雨が降るのではない。月があくびをする息がかかるのであろう。……そんな晩には獺が化けて出るというが、山国だからそれもなかろう。イワナが化けて坊主になって、念仏唱えて殺生禁断の説教までやりだしそうな。……
そんな夜道を歩きながら、だれ一人にも逢わなかった。逢ったとしたら女でも山猫でも、みんな坊主の姿に見えるだろうと思った。
とある松の木の陰で、ふと通りかかった私の足もとで、コンコンと狐が鳴いた。……犬の声ではない。
コンコン、コンコンと鳴くその鳴き声に、虫の音を聞くようにふと耳を傾けて立ち止まると、なにかことばを話しているようで、
『コンクヮイ、クヮイ、来ぬかい、来ぬかい』と、こう鳴いている。
『来ぬかい、来ぬかい、案山子、来ぬかい案山子』と、また聞こえる。
聞いているうちに、畦の蔭から、なにかがひょいと立って出た。藁束の胴に竹の脚で、痩せさらばえた姿である。……木枯らしにも吹かれないうちに、不意に雪国の雪が来て、そのまま焚きつけにもならずに残り、冬のあいだは真っ白な寝床にもぐって、突っ立ったままぬくぬくと過ごしたあとも草枕で寝こんでいたそれは――飛騨山の案山子だった。
この案山子おやじは、破れ蓑の毛を垂らして、しょんぼりとした様子でひょこひょこと動いてきて、松の幹によたりと寄りかかると、そこに立ち止まった。
『来ぬかい、案山子、来ぬかい、案山子……』と、例の声がなおも続けて呼ぶ。
やや離れた畦道を伝って、向こうからまた一体、ひょいひょいとやって来ると、先の案山子に頭をバサリと寄せて、同じく立ち止まる。さらに真っ直ぐな畷道を、別の案山子が一体、よたよたと危なげではあるが、それでも竹の一本足で小刻みに急ぎ飛んでやって来る。
そのあとに来たのは、どこで手に入れたのか、竹の小笠を横っちょにかぶり、その笠をもったいぶって、歩くにつれてパクパクと上下に揺する奴だった。
その三体が、三本組んだところから土瓶を釣って番茶でも煮そうな形に集まると、なにかがまた鳴きだす。
『コーコーコー、急ごう急ごう』
バサバサと左右に分かれた案山子は、後先に入り乱れながら飛びだすと、やがて三体が畷道に並んだ。
そのとき樹の上から、なにやら鳥の声がして、
『何処へ行、何処へ行!』
と言うと、がさりと枝を踏んだ音がした。どうやら長い嘴をしたなにかが、畷道を見下ろす気配がした。
『ほこらだ』
『ほこら』
『ほこらへ行くだ』
と、ひょっこり、ひょっこりと歩きだす。案山子どもの向かうのは、祠のほう、つまり私が来た路の方角にあたる。私が向かっていた方を目指して、城ヶ沼へ身投げに行くのではないらしい。
いや待てよ、そこらと言ったのか、ほこらと言ったのか、よくわからない。そんな具合に、声を伝える生ぬるい夜風もぼやけている。とりあえず帰り道なのだからと引き返すかと、ついつい私もそぞろ歩きの踵を返した。
『く、く、く』
『ふ、ふ』
『は、は、は』と、形の定まらない、むにゃむにゃとした海鼠のような影法師が四つ、五つ、案山子の足もとをむらむらとまといつきながら進む。
それは狐か犬らしい。それとも鳥かなにかがいて、上をふわふわと飛んでいたのかもしれません」
――と、雪枝は老爺に言うのだった。――
三十二
「忘れもしない。この温泉へ来たときに、夫婦で俥に乗って通った並木道です。そこを、どうです、魔物が勝手し放題でのさばっている。
来るときは気がつかなかったが、帰りがけにふと、案山子の歩く後ろから見ると、途中に一里塚のような、松の枝が垂れて梢が低くなった小陰が見える。そこには、塚の上に足を組んで座し、小首を傾けて頬杖をついた如意輪観音の石像があった。あの頼りない土器色の月は、ぶらりと下がって、仏の頬の片方を照らしたその白い光の形は、木蓮の花を手向けたかのように見えた。
その仏の前を、一列になってふらふらと通りかかって、
『御許され』と一体の案山子が言うと
『御許され』
と別の案山子も同じことばをくり返す。
『御許され、御許され』と声が交じって、がやがや騒がしくなったと思ってください。
『大儀じゃ』
と、まさに如意輪が仰せなさった。
『はッ』と言った一体は、でこぼこ道の石ころにその一本足をはっしと踏み掛けた真ん中の案山子で、脚でカタリと音をたてると、伸びあがったようにひょいっと上に飛びだすとすぐに下がって、背丈を合わせた三体が、またひょっこりと歩きだす。
人間が前を通るとき、如意輪のお姿は、スッと松陰にやや遠ざかり、暗く小さく拝まれた。
雨は細雨となって降ってきた。
三体の案山子の蓑からも、びしょびしょと音がしはじめる。――なかでも小憎たらしいのは列の最後にいた奴で、笠をかぶっているのが得意な様子で、ものものしく左右を見まわしながら、よろめいて進んでいく。
やはり彼らは、祠を目指していたらしい。
畷道を横へ逸れた田んぼ道の向こうに、一方が山の裾、片側を一叢の森で仕切られた真ん中が広々と開けていて、朧月に雲が簇がるような具合に草の生えたその奥に、祠の狐格子を漏れる灯が細雨に滲んでいる。それを見た案山子たちはためらうことなくそちらへ向いて、いったん体を斜めにして田んぼ道へ折れ曲がると、列をなして祠へ向かった。
そのときになって気づいたのだが、祠の前を階から回廊の下にかけて、三体、五体どころではない、七体、八体、いや十体あまりのものの姿が、どれも土器色の法衣に黒い色の袈裟をかけた、あたかも今宵の空模様のような奴らが、背の高い坊主と低い坊主、大きな坊主と小さな坊主が入り交じってむらむらとして、うろうろと動きまわっている。……
『おい、浦子を弄ぶ気か』
と、まっ先に彫像の安否を心配した私は、前を行く案山子どもを追い抜いて一気に駆け抜けると、いきなり階に飛びついた。そこでふり向いてみると、僧形に見えたその場のものたちは、どれもこれも同じような案山子どもで、さても寄ったわ来たわというありさま。――割って入った人間の袖に煽られて、よたよたと左右に散っていった。なかには回廊に倒れかかって、もぞもぞと動くものもある。
階から伸びあがって向こう正面を見ると、向こうからひょこひょことやって来る先ほどの三体の案山子も、他と同じような坊主に見えた。
扉を開けて入ると、無事であった。浦子に生き写しの彫像は、揺らめく灯につれて瞳を動かしながら、人待ち顔に立ちくたびれて、横になって寝たそうにも見えたっけ。
下に敷いた白い毛布の上には、鑿や鉋が所狭しと置かれて散らかり放題。最初はこの毛布にくるんで夜道を城址まで運ぼうと考えていた。まだ時鳥が鳴くほどの夜更けでもないのに毛布に包もうとしたのは、この彫像が肉体を離れた浦子の魂を容れているように思えたからだった。少し前に城ヶ沼の縁で旅僧の口から魔界の暗示を伝えられたおかげで、粗雑に扱うのがひどく忌まわしいことに思えたのです。
権七に取り寄せさせた着替えの衣は、あたかも祠の屋根に咲きかかった藤の花の影を、月の光が破れた廂からそこに落としたかのように、そこに置かれていた。そのうえに、燃え立つような緋色の扱き帯は、たったいま彫像の腰のあたりをするすると滑り落ちたかのように、足もとに置かれている。
彫像に手をかけると、その掌に秘めた采がころころと鳴った。
『ござるか』
『……』
『ござるか、ござるか』
と、蚯蚓の這うような声が、階のところから聞こえる。
『だれだ』
と、うっかり言って、扉を出て、つい忘れていたことに気がついた。……ずらりとそこにいたのは、案山子の大群だった」