祠
二十八
「狂気した、変になった、と言っているのが、ことばの端々から耳に入ってきました。しかし、私が語ったこれほど確かなことを、どうして彼らは雲を掴むことのように聞くのだろう。私が手に握って、二つの眼ではっきりと見る采の目を、この人たちは暗中に模索して、丁か、半か、生か、死か、などとガヤガヤ騒ぎ立てている。これほど可笑しなことはない。
『ハハハ、大丈夫、心配はないというのに。――浦子の居場所も、救う方法も、すべてこの掌のうちにある。我が輩が掴んでいる。要は掴んだこの手を、開くまでの時間をただ待つことだ。――いま開け、と言われてもそうはいかん。ただ開くのではない。開いて浦子の手のひらに返すんだ。いやいや、彫像の拳に納めるんだ』
と、ますますことばがこんがらがって、言っている自分もわからなくなる。周囲がきょとんとするだけ、こっちは苛立つ。言えば言うほど話の枝葉が茂って、路が分かれて谷が深く、野が広く、山が高くなって、雲が湧きだす。霞がかかる。しまいにはじれったくなって、
『みんな、これだ』
と高いところから空を切って振り下ろした拳のなかに、采を掴んでいたことは言うまでもありません。
『狂人でもなんでもかまわん。自分が命がけで愛した女房を、自分が救うというのだから問題はあるまい。すべて任せてもらおう。私がなにをしようと、するがままにさせてください。
そういうわけで、私が浦子を救うために進むべき第一歩は、どこでもいい、私に小さな家を貸してくれることだ。小屋でもいい。辻堂、祠でも構わん。なんでもいいから、周囲に人のいない空き家が望ましい。
なに? そんなところに浦子がいるのかだと。つまらんことを……浦子の居場所は居場所で話が違う。空き家を捜すのは私が探してそこに入るんだ。所帯を持とうというんじゃない。……ええ、落ちついて聞かなければだめだ。
よろしいかね、要するにこれは、空き家であればいいということだ。……ありますか、人のいない小屋はあるか。あればそこへ行く。これからこの足ですぐに行きます。――宿に帰ってひとまず落ち着けだと? 呑気なことを。落ちついて相談だと?……このうえなにを相談するんです。浦子を救うには一刻を争う。寸暇を惜しむ。早く、さあ、人のいない小屋、辻堂、祠、なんでもかまわん。そこへ行こう。行ってすぐに仕事に取りかかる。が、だれも来てはいけない。絶対に来てはいけない。いずれ、やがて、その仕事が完成すれば、浦子といっしょに、二人で皆さまにお目にかかって、改めてご挨拶をする。
しかし、私が言うことを信じないで、私に任せることを不安に思うのなら、提灯だけじゃなく松明の数も増やして、鉄砲持参で隊を作って、ラッパを吹いて捜索をお続けなさい。それは皆さまのご勝手です』
と言って、嘲るようにまたアハアハと笑うと、
『あれ、天狗様が憑依らしゃったよ』
『魔道に堕ちさしゃったものだべい』
と、ひそひそ言うのが聞こえた。
けれどももう、そんなことにかまう気はない。人間などには目もくれないで、暗いなかでそこらの樹をやたらと眺めていた。刻むのにいい枝や幹はないかと、目を光らせていたのです。……目の前で見ていた人たちには、そんな私の仕草も魔に心を通わせる挙動に見えたことだろう。
ところで、私が頼んだことに関しては、あんな勢いで言っただけあって、だれ一人親切心を発揮して心に留めたりする者もいませんでした。ぞろぞろと温泉宿へ帰っていくその一同に同行していた私は、畷道の片端を引っこんだ森のなかの、とある祠に入りこんだ……というよりは、ずかずかと踏みこんだのです。後についてきた彼らは、狐格子の扉の外で立ち止まりました。
提灯を一つふんだくった私は、三段ばかりある階の正面に立って、一揆を起こした民衆を踏みとどめさせるかのごとく両腕を大きく広げて、
『さあ、みんな帰れ。そしてだれか宿屋へ行って、私の大鞄を背負ってきてもらおう。――その中には必要な道具がすべて入っている。……私はもう、あの部屋に入って、妻が脱いだ着物や解いた赤い扱き帯を見るに忍びない。――彼女が魔物の手にかかって身もだえしながら、帯を手始めに衣服を剥ぎ取られるさまを目の前に見るようだから』
浦子の親類の一人で、インバネスを着た男がまっ先に立って、皆はぞろぞろと帰っていった。……彼らがその影をくぐっていったのは、祠の前の倒れかかった木の鳥居だったが、いつからそこにあるのか、そこに残った二、三本のしめ縄が、のたくりながらずらりと懸かって蛇のように見えました。……」
二十九
「なんとも面白い。あのしめ縄を天井を這う蛇に見立てれば、その下にしょんぼりと立った鳥居の柱は、そのまま浦子の姿と重なる。……あの柱を取って像を刻む材料にしよう。鋸で挽いて女の立像に使うぶんだけ抜いて取る。すると鳥居は祠の前でカタカナのヰの字の形になって、森の出口から田んぼ、畷道、山を覗きながら立つであろう。
そう思いながらじっと見つめていると、その柱のなかに、もう女の姿が透けて映る……木目が水のように肌をまとって。
『旦那さま、お荷物を持って参りやした。まあ、暗えところでなにをしてござっしゃる』
なるほど、狐格子に釣っておいた提灯は、いつまでも蝋燭が消えないはずもない。……気がつくと板縁に腰を落とし、段に脚を投げてぐったりとしていた。
鞄を背負って来たのは木樵の権七だった。この男は、浦子を見失って、城跡のある山中を茫然自失でさまよっていたときに宿への道を教えられて以来、ちょくちょく姿を現しては、記憶の裏に姿を刻んでいる。彼と、城ヶ沼の黒坊主の蒼ざめた面影を除いては、だれの顔もはっきりとは覚えていなかった。
『燈明を点けさっしゃりませ。洋燈では旦那さまの身体が危ないというて、種油といっしょに燈心と土器を用意して参りやしたよ。おっつけ寝具も運ぶでがすで、気を鎮めて休まっしゃりませ。……
わしらもまた、気を抜かずに奥さまのゆくえを捜しますだで、そんなに心を狂わさっしゃりますな』
と言いながら燈心に火を点して、板敷きの上に薄縁を広げたり、毛布を敷いたりする。
『わしが頼まれましたけに、ちょくちょく見回りに参りますだ。用があるなら言いつけてくらっしゃいましよ』
と、後ろ向きに踵で探りながら草履を履いて、段を下りててくてくと去っていく。
『待て、待て』と追って出た私は、鳥居をするすると撫でてみせながら、
『村一同へ言づけを頼むぞ。この柱を一本いただく……この鳥居のな。……あとでいくらでも建立するから、とそう言ってな』
『はい……ええ、東京から来なさった旦那方もそのつもりで、相談していましただ。奥さまのいさっしゃるところの知れるまでは、なんでもお前さまのすることに逆らわねえようにと言うだで、どうでも好き放題にさっしゃるがようがんす。だが、その、鳥居の木柱をどうするだね』
『これを刻んで像を造る、女のな。それは美しい、いわば弁天様といったような像だ。お前にも見せてやろう。びっくりするなよ』
権七は、あきれ顔を手のひらでベタリと撫でる。ここに一人でやってくるほど性根の据わった奴だから、いきなりその場で腰を抜かすなどということはなかったが、目もとを覆って、顔をそむけて、
『おかわいそうに。ごもっともでござります』
と言いながら、のそのそと帰っていった。……やっぱり浦子を掠われたせいで、私が気が違ったと思ったらしい。いや、これだから人間が来るのはうるさい!
……しかし、その後も祠に来て、三度の食事、水なり火なりを用意してくれたのはその男でした。場合によっては二時、三時もそばにいて、私の仕事をじっと見ている。口も出さず、邪魔にはならん。で、下仕事の手伝いぐらいの役には立ったんです」
――雪枝はあらためて言った。――
「そんなわけで、一刻も早く仕上げてしまおうと思うから、飯も手づかみで、水で飲み下すような勢いです。目を見開いて働くので、日も時間も、昼夜の区別もほとんどつかない。……女の像の第一作は、まだ手足まではできていなかったが、顔のかたちが備わって、胸から鳩尾へかけてふっくらとした形ができた。木材に乳が並んで、目鼻口もとが刻まれて、ふと一息つきながら、
『どうだ、だいぶものになったろう』と、いささか得意になって目を上げて、ちょうど居あわせた権七の顔を見ると……。
日に焼けて色黒の権七が、さらに恐ろしく真っ黒になって、額が突きでて、唇が長く反って、目ががっくりと窪んでいる。その目がピカピカと光って、フッフッ、ハッハッと喘ぐような息をしている……」