受精卵の14日ルールと「AIがあったとしても、自分で考えることは大切」という話
以前、「受精卵はいつから『命』なのか?」という疑問を考えるためにネットサーフィンをしていると、“実験に使用していい人の胚は受精後14日まで”という取り決めがあることを知った。
それを深掘りしていくと、ある大学教授のコラムにたどり着いた(大学名となんの教授かまで覚えているが、今調べてもそのコラムが出てこないため名前は伏せる)。
なんでも、「受精後14日」というルールを変更するための有識者会議に参加したらしい。
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その教授は、変更に賛成する流れの有識者会議にて、「なぜ“14日”という期間であるのかを考える必要がある」と提言した。
すると会議は難航し、休憩を挟むことになった。
その教授を含む有識者たちは休憩のために会議室の外へ出たのだが、有識者の中には「あんな話をしていたら話が進まない」と少し憤慨していた人もいたようだ。
しかしその教授は、後のコラ厶で「だからこそ、誰かが提言しなければならなかった。」といったことを語っていた。
ルールを変更するとき、元々あったルールは何を根拠に決められていたのか、なぜそのルールなのかという、問いの前に立ち止まることは重要であり、企業利益や目先の利益に飛びつくためのルール変更は、のちの混乱を巻き起こすからだ。
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昨今はAIの普及により、誰もが、自身の主張を正しく見せる技術を獲得したと私は思っている。
今後は、何らかの議論や話し合いにおいて、「正しそうな論調」がより多くなってくると思う。
そうすると、複数の正しそうな論調によって、人は誤った決断をしてしまう。
例えば、何かと問題になる転売行為。
そのグレーな行為をAIによって正当化した論調を唱える人間は既にいると思う。
私たちはそういった“グレーな利益を正当化する論調”に「だから何なのだ?論理的に正しくとも、買えない人間の悲しみが解決するわけではない。私たちは、その行為の不当性ではなく、『買えない人間の悲しみをいかにして減らすべきか?』という話をしている。」とはっきり言えなければならない。
転売が悪いわけではない。
法で規制されていない以上、悪とは言えない(感情的に言えば悪ウンチ)。
だが、それによって買えない人間がいて、社会の悲しみを増やしていることは何よりの問題だ。それは、転売ヤーが好む「見えざる手による『自由経済』」という論調の根底にある“功利主義:最大多数の最大幸福”に反している。
だからこそ私たちは、AIを利用した正しそうな論調が増えてきたとしても、自分たちで考え、立ち止まる力が必要だと思う。
いくら論調が正しくとも、そこに多くの人の悲しみがあるならば、それ何かが間違っている。
【あとがき】
私は人間だ。
一般的に、癖が強い人間に分類されると思う。
その思いの理由としては、人が食べ物リストに入っていたり、地域環境が特別に悪い魔界で生まれたから、「人に気を使うのは道徳ではなく、自身のような危険人物を避けるため」というエピソード例に、感覚が色々とズレている自覚があるからだ。
でも、『正しいこと』が分からないわけではない。
癖が強いからこそ、自身の赴くままに動いて人を困らせないように、『正しいこと』を考えようとしている。
私は自身が街中で倒れたとしても、「誰も助けてくれない」と思っている。それは、劣悪な環境ゆえに、少年院の教官以外は私を助けられなかったという「負の経験」による盛大な勘違いだ。
そこまで分かっていたとしても、私はそう思ってしまう。いわゆる、環境による“歪み”だ。
――だが、私の中にそうした『困った人を助けない世界』という認識があったとしても、私が倒れた人を助けない理由にはならない、ということもは分かっている。
暗い体験や歪な性格を持っていたとしても、『正しいこと』は考え続けるべきだと思って生きてきて、それが周囲や自分にとっての幸せを作りだしてきたからだ。
大抵、自分の認識と現実は違う。
私が「困って助けてほしいな〜」と思っていたとしても、現実が私を助けてくれなかったように、私が思っている事と世間の事実は、大抵違うものだと知っているからだ。
だから、暗い過去や歪な性格だとしても、それが誤りである可能性を決して捨てず、『正しいこと』という光を探して歩いていくことは、本当に重要だと思う。




