喘息持ちが語尾を「にゃ」にして気づいたこと
表に出すつもりだった、万人に向けた文章だったもの。
私は最近、家で会話をするとき、語尾を「にゃ」に変えている。
「にゃ」と言うたびに、自分を何発かひっぱたきたくなるのだが、面白いことに気づいた。
語尾を「にゃ」にすれば、喘息で荒れている喉に負荷がかからない(気がする)。
◇
私は喘息がある。大した症状ではないのだが、インクやオレンジ系統の香料、カビがトリガーとなって喘息の症状が出る。
特にインクは困り物で、インクはそこら中にあるわけだから、「インクで喉が痒い⋯⋯」なんて言ってたら仕事も勉強も進まない。
なにより、「優しさは有限」という持論から、他人に気を使わせることを私は嫌うので、他人に優しさを使わせるきっかけとなる喘息がまったく好きではない。
自身で言うのも何だが、精神と肉体の反応にズレがあるというのは非常にめんどくさい。
そういった喘息の症状が長年続くと、喉の痒みを軽減するためなのか、私の発声方法は、自然と「肺で音を響かせる」というものに変わった。
その結果、私の声は暴力団の組長や魔王のような、空間がビリビリと響く、威厳のある喋り方になってしまった。
しかし、そうした発声をしたとしても、日本語は語尾の上げ下げや伸ばし方、あるいは切り方によって感情表現をするので、「発声の改善で喉の痒みはマシにはなったが、あと一歩足りない⋯⋯」という状況にあった。
それに、仮に語尾を使った感情表現を制限するならば、私の心は現実のどこにも表現されなくなってしまう。
◇
そんなある日、私は『ヤニねこ』という漫画を読んだ。
短い話がたくさん詰まっている形式だったが、登場キャラクターの持つ癖の濃さが「少ない代わりに味が濃い料理」を食べているように感じられ、読後感の余韻がいつまでも残る面白い漫画だった。
そんな『ヤニねこ』に出てくる主人公は「にゃ」という語尾を使う。私は漫画を読む中で、この「にゃ(nya)」という語尾がやたらと気になった。
頭の中に引っかかりが起きている、という感じだろうか。
だから私は何度も「にゃ」と言ってみた。
すると、喉にかかる負担が減っているような気がした。発声による振動が、痒い部分に伝わりにくいといった感じだろうか。
実際に口に出してみてほしいのだが、「今日の晩御飯は何にするかにゃ〜?」と言ってみてほしい。
次に、「今日の晩御飯は何にする〜?」と言ってみてほしい。
声帯の締まりに違いはないだろうか?
その締まりの違いが、喉の痒みを軽減してくれているのだと私は思う。
実際、その差を作り出しているものは、「する(sur“u”)」と「にゃ(ny“a”)」といった母音の違いだと思うのだが、少なくとも体感では、「にゃ」を使っていれば、語尾を使った感情表現をしたとしても喉への負担が軽くなっているという実態がある。
――が、これには1つ大きな問題がある。
それは、外でもつい「にゃ」と言ってしまうということだ。これは、自分の社会的信用を失墜させかねない大きなリスクだ。現に、私も外の会話で“言ってしまっている”。
私はそうした信用を失墜させるリスクを減らすために――語尾が「にゃ」になっている人間だけを集めた『にゃ街』を作ればいいと考えた。( `・∀・´)ノ
そうすればなんとなく面白そうだし、派生して「ござる街」や「ですわ街」も作られそうで、明日の変化が楽しみになるよね。
もし、みんながそうした語尾を使う社会になれば、現代社会の形式的でつまらない敬語も、相手の色が見えるようになって私は面白いと思う。
つまり⋯?
私が言いたいことは⋯⋯?
少し変なことだとしても、それを気にしない社会になるといいよね。人に危害を加えることはもちろんNGだけど⋯。
もし本当に「にゃ」のような語尾や響くような発声が喉への負担を減らすなら、そうした語尾や発声などを使うことは、喘息や喉の術後の対策として合理的だと私は思う。
胸にプリキュアやセーラームーン、あるいは呪術廻戦やハイキューの缶バッジを付けているだけで仕事の効率や接客の質があがるならば、私はそれをOKにしたほうが、よりよい社会に繋がると思う。
おじさんがロリータファッションをしたことで、仕事効率やQOLが上がるなら、私はそれを歓迎する。
自己表現ができなくて人間性の喪失が起こるならば、それは誰かの精神コストで成り立つ日本社会にとっての損失だと思うから。




