『人の幻想』を、もう一度整理する。
昨日、『人の幻想』についてのエッセイを上げたが、あれは読みにくい。魔法と幻想(=認知バイアス)の話をするために例え話を入れているが、そこから感覚的な説明になっていて分かりにくい。意味が分からない。
だから、もう1度整理する。
念のため断りをいれておくが、これは私が孤独という話ではなく、「なぜ人は仲良くできないのか?」という思いが文章の根底にある。
私は、アスペルガー症候群やADHDなどの遺伝や脳機能の特性が要因と言われているものを、「聞き取りで診断する」という行為に疑問がある。
アスペルガーやADHDという概念には、「遺伝的要素や生まれつきの脳機能の特性」という要因も含まれているわけだから、患者にアスペルガーと診断を下したとき、「“脳の特性による”アスペルガー症候群」という意味もついてくる。
しかし、目の前の患者が本当に「遺伝や脳の特性」によって、アスペルガー等の症状が出ているのかは分からない。
たとえば、幼い頃から落ち着きがなく、忘れ物が多い人間がいたとする。これは典型的なADHDの症状に当てはまるが、睡眠不足の症状にも当てはまる。
医療としては、「原因は分からないが、困ってるからADHDと診断して対処するよ」という方針なのだろうが、ただの寝不足にコンサータ(=ADHD症状を抑える薬)を処方したところで、改善することはないのではないかと、素人目線としては感じる。
現に、ADHDと診断され、コンサータを長期的に服用しているのにも関わらず、副作用が出るばかりでADHDの症状が抑えられていない人間がチラホラいる。
副作用が出ているということは、コンサータは身体に取り込まれていると思うが、肝心のADHD症状を抑えられていない。
これは、脳の特性による単純なADHDではなく、寝不足や虐待などの他の要素が、ADHDに似た症状を作り出したり、一般的な困りごとを『障害』と呼べるくらいに、強化してしまっている可能性があるのではないかと思う。
私は、信じている人が誰かの怠慢で報われないということには、非常に腹が立つ。困っている人間を、医師のような専門家が救えないなら、その人たちの心はどこに向かえばよいのかと、強く思う。
◇
こうした考えがあるから、私は昨日「人の幻想」について考えた。
私のエッセイを好む人は、すでに私の特徴を感じとっているかもしれないが、私はアスペルガー的な傾向がある。
ものを構造的に考えたり、厳密性にこだわったり、人が普通しない話(=人を食べ物と認識する、自分の暗い部分など)をしたりと、極めてアスペルガー的と言える。
――が、医師や心理師が言うには、私はアスペルガーの傾向を持つがアスペルガーではない、ということだった。
その理由を要約すると、対人能力が高く、暗黙の了解などの理解にも問題がないから違う、ということらしい。
当然、「専門家で分からないなら、私はなんなのか?」という疑問が出てくる。
そこから私は、「人の数だけ世界(=個人の認識上の世界)がある」という考えを発展させ、いまは「人同士の世界と世界が重ならないのはなぜか?」という疑問を持っている。
その疑問の延長線上に出てきたのが、昨日の「『魔法』による幻想の有無」という話だ。
◇
私は一応、高知能に分類されるわけだが、一般的な高知能者とは行儀の良さに大きな違いがある。
私は以前、「なぜ、『高知能である』と言うのに独自のエピソードを語らないのか?」というエッセイを書いたことがある。
高知能者は孤独を抱えやすい傾向があるのに、当事者である人間が表面的な話をしていては、同じ孤独を抱えた高知能者の孤独を癒すことなどできない、と自身の経験から思ったからだ。
私は独自のエピソードを語る。それが事実であり、それに悩まされ続けたからこそ、語るだけの強い思いがある。
しかし、巷にいる高知能者は「人より勉強ができた」「小さい頃、〇〇ができたらしい」という具体と当事者性に欠けたエピソードを並べる傾向が強く、一般的な人が思う『高知能者』という枠を出ないよう、無意識に気を払っているように見える。
その様子は、独自を語り、人の認識を揺さぶる私とは正反対で、行儀よく納まる高知能者と私の世界は重ならない。
この重ならない要因に、昨日のエッセイにある『魔法』が関係していると私は考えている。
この『魔法』という言葉は、「世界は安全だ」、「明日は来る」、「家族は大切なもの」、「人は嘘をつかない」といった“幻想(=認知バイアス)”を作り出している作用の名前だ。
そして、人と幻想を繋ぐ、正体不明のものを、何と呼ぶべきか分からないために、私は『ナニカ(仮)』と呼んでいる。
◇
医師や心理師は、私のアスペルガーのような特徴をアスペルガーではないと言う。かといって、一般的な高知能者とも毛色が異なる。
そうなると、私をアスペルガーのように見せ、毛色の異なる高知能者として示す要因を作り出している基があるはずだ。
私はその要因の基の構成に、「魔法による幻想が効いていない」ということが大きく関係していると考えている。
たとえば、昨日のエッセイでも話したが「加齢により性欲が高まった女性を死の象徴」と感じるのは明らかに変だ。
「異性の高まった性欲=好ましいもの」という幻想が、私には効いていない。
この様子を考えることは、人と幻想を繋ぐ『ナニカ』を知る手がかりになり、大きなショックによって幻想が破れてしまった人を、再び幻想の中へと返す方法を見つけることができると私は思っている。
何らかの不運によって幻想が破れた人間は、ずっと幻想の中に生きていたはずだ。
そうすると、幻想無き、ありのままの『外の世界』(自分の気持ちの強さと明日の生死は関係ないなど)は、刺激が強すぎる上に、それを言葉にする余力も残らないだろう。
言葉にできないから、誰にも救われない。
その状況は、精神的な落差地獄であると私は思う。
【あとがき】
私には、「長く生きることは、めでたい」という幻想は効いていない。40歳、そこそこでこの世を去るのがベストだと感じている。
そう聞くと、悲しくなる人や驚く人もいるだろうが、私は一般的な市民として、十分な社会貢献を果たし、自分の力を試す機会も得られた上に、劣悪な環境にいた1人の人間をほんの少しだけ、幸せにすることができた。
1度きりの人生に、これ以上、何を求めることがあるのか分からない。
――という夢を聞くと、「やっぱりこの人は変な人だ」と思うだろうが、この独特な感性を作り出しているものが、「魔法による幻想が効いていない」という状態だ。
面白い価値観だよね。
明日さ、覚悟があるなら、社交辞令とかのテンプレートに、テンプレート返信を使わないで返答してみてよ。
幻想がほんの少しだけ破れて面白いよ。




