「心で感じる」ってなに?
私は「心で感じる」ってのがよく分からない。
人の心が無いわけじゃないけれど、人間って「Yes or No診断」のような、ルート分岐で生きてるんじゃないの?
なに?
「心で感じる」って?
たとえば、「人間はいつか死ぬ」という思いに囚われている人っているよね。
それって、心で恐怖を感じているから?
私はその恐怖を「『死』という未知のタスクによって、情報処理のエラーが出ていることを伝える通知」だと考えているのだけど、みんなはそう思わないの?
その未知のタスクを解決するために、死について調べたり、悩んだりするんじゃないの?
「 死ぬのが怖いから 」
心で恐怖を感じるの?
◇
他の話だと――私は付き合っている彼女がいる。
彼女の「打算しない性格」を世界から守りたいと思うから付き合っている。
抱きしめたりすれば唾液が分泌されるから、脳にセロトニンが出ているのだろうなと思うけれど、『心』として「好きという気持ちが止まらない」という感覚が分からない。
そうだ。思い出した。
私は小さい頃から「感情のコントロールをしなさい」と、両親や祖父母、教師や教官といった大人に言われて生きてきた。
それをするために『感情』の分析と言語化を長年行ってきた。
分析と言語化が進むごとに感情はただの情報に成り下がった。
んー、少し過激かもしれないけど、仮に「〇〇を殺したい」と考えたとき、必ず『心』に感情的な引っかかりが起きるよね。
私はその引っかかりを「無闇に人を殺さないためのシステム」と解釈するだろうから、自分の感情(=意志)をコントロールするために、きっとその引っかかりを突破すると思う。
これは恐ろしいことだ。
感情が情報に成り下がった以上、感情という反応情報の書き換えは、幾らでも、ある程度は好きなようにできる。
これは「感情のコントロールの成功例」と言えるのではないか?
ただ。
成功しているからこそ、他人の命を守るためにある「道徳的システム」も機能しなくなってしまった。
だから私は、道徳や倫理観を情報として学ぶ必要があって、「食べ過ぎはよくない」という情報をたまに思い返しては、すぎたことに反省している。
つまり、過ぎたるは良くないという話だ。
このエッセイを執筆してみて、子供の能力を見ずに、抽象的な「間違えないが個別では正解にはならない育児論や通念」で育てると、大変なことになるという情報も分かった。
面白かったね。
これも、心ではなく結果に対しての感想だ。
心は、そこに何もないように無風で、私はまったく何も面白いと感じていない。
【あとがき】
私は生まれたときから感情が無かったわけではない。
「感情のコントロールをしなさい」と大人から言われていたように、幼少期のころは激烈な感情が確かにあった。
曽祖父の一周忌で笑う人々を「曽祖父の話もせずに世間話で笑ってるのはおかしい」とすごく怒ったりした。
嬉しいことが起こると、幸不幸のバランスをとるために泣きながら不幸なことを起こしたり。
やや変わっているけれど、こんなふうに感情はあった。そこから、年齢と共に感情の解析が進んだのと離人症のような感覚が私の感情を消しているように思う。
しかし、いま考えてみると、私の変わった様子を見て、一般的なことしか言わない周りの大人は「調べるのがめんどくさい」という怠惰感情のコントロールができていなかったのではと思う。
「抽象的なことは、目の前にある具体的な問題を解決してくれない」という話のいい例だと思う。




