プロローグ:理不尽な人生
※本作は、主人公が善行よりも利益・合理性・生存を優先して行動するダーク寄りのファンタジー作品です。
奴隷制度、裏社会、いじめ、暴力描写などを含みますが、物語上の設定・演出として描写しており、それらを肯定・推奨する意図はありません。
勧善懲悪や正義の英雄譚をお求めの方には、ご期待に沿えない可能性がありますので、あらかじめご了承のうえお読みいただければ幸いです。
今年は客臘に比べても寒さが一段と厳しく、ガチガチと歯を鳴らしながらスマホを弄る俺の格好は半裸に近い。ボロボロのTシャツとヨレヨレのトランクスだけで街を歩く姿はまさしく不審者そのもの。
訝しげに一瞥していく通行人たちの視線は、一様に俺の下腹部へと集まる。158cmの身長に対して「208kg」という常軌を逸した体重が俺の異常性を何よりも雄弁に物語っているだろう。
あまりに歪な体型を「デブニキビ」や「汚いカービィ」と罵られるのは、日常の挨拶に過ぎなかった。
小学生時代は、弄られキャラ。中学生で、虐め。そして高校生になる頃には、俺という豚はカースト最上位の連中にとっての「生きた玩具」へと成り下がっていた。もはや虐めではなく集団リンチ。何度も自殺しようとネットで検索してたあの頃。
夏は死んだ蝉の死骸を食わされ、ロッカー裏からゴキブリが出れば「ほら、お前にぴったりのご馳走なんだから、笑って食えよ」。
主犯格の男が俺の頬を土足で踏みつけながら、そう吐き捨てた。死骸だろうが生きていようが関係ない。無理矢理に喉の奥へ押し込まれ、咀嚼を強要される。あのカサカサとした脚の感触と、潰れた内臓の苦渋い味。連中は悶絶する俺の姿を見て、涙を流して爆笑していた。
地獄はそれだけに留まらない。冬の放課後、奴らは「脂肪燃焼効率の実験」と称して俺の服をすべて剥ぎ取った。そして波打つ腹の肉を自らパチパチと叩きながら全力疾走するよう命令。一瞬理解が追いつかず、思わず聞き返してしまった。
その瞬間、耳鳴りがするほどのビンタが飛んできた。
痛みよりも先に「失態」への恐怖が走る。ずっと前から、殴られた後は笑顔で「ありがとうございます」と返すよう調教されていたのに。頬を腫らしながら感謝の言葉を絞り出す俺を見て、奴らは満足げにカメラを構え直した。
カメラの前で俺は自主的に「痩せるために頑張る珍獣」を演じさせられる。少しでも足が鈍ろうものなら背後から本気の蹴りが飛んできた。
「デブニキビ、タイキック〜」
ガキ使のあれを模した、ふざけきった宣告。どす黒く鬱血したケツの痛みと、それを「バラエティ」として消費する奴らの笑い声。必死に揺れる肉を執拗に追いかけ回して撮られたその動画は、「#珍獣大脱走」というハッシュタグと共にSNSへ放流された。
画面の向こうで増殖していくのは、無機質な嘲笑の嵐だった。
「新種の未確認生命体発見w」「実写版バイオハザードかよ」「これもう半分公共物だろ」
尊厳をズタズタにしたあの動画は、瞬く間にネットのおもちゃへと成り下がった。顔はコラ画像の素材として切り抜かれ、無様な裸体にはダンスミュージックが付けられて、24時間休まずに再生され続ける。
もはや人間ではなく、クリック一つで消費される「面白いフリー素材」。ネットミームとして弄り倒される苦痛に耐えかね、俺は高校を自主退学した。
以来、すっかり引きこもりニートと化した俺は、「ネトゲのプロを目指す」という体のいい言い訳を盾に、自室へ引き籠もるようになる。
食事は母親に用意させ、排泄はペットボトルかオムツに垂れ流す。そうして部屋の扉を物理的にも精神的にも完全に閉ざし、俺は外の世界から一切の存在を消した。
しかし、親父の遺産をガチャに注ぎ込んでいたことがクレジットカードの利用履歴から発覚。真っ赤な数字が並ぶ明細を見た六十五歳の母親は、糸が切れたように「後生だから、お願いだから死んでおくれ」と、喉が枯れるまで発狂した。騒ぎを聞きつけた弟もブチ切れ、罵詈雑言を浴びせながら実の兄である俺をタコ殴りにしやがった。
吹っ飛ぶ奥歯。止まらない鼻血。クソババァの悲鳴。
体重が150kgを超えた頃からまともに歩くことさえままならないというのに、あいつらは俺の命よりも大事なパソコンを破壊した挙げ句、「あんたは兄貴でも家族でもない。次に顔を見せたら通報する」と、俺を冬空の下へ放り出しやがった。「もう養えない」「お前の食欲は異常だ」「年金を食い潰さないでくれ」……。此れ見よがしに叫ぶ白髪塗れの母親の顔は、醜い憎しみに染まっていた。
我が家が貧乏なのは、早くに死んだ親父とパートの稼ぎが少ないお前の責任だろうが。勝手に産み落としておきながら、都合が悪くなれば捨てる。性欲に負けた奴らが、ふざけやがって。
「0721」。ようやく四桁の暗証番号を認識したスマホが、ブブブと蠕動した。ババアか弟からの謝罪連絡だろうと卑屈な笑みを浮かべた俺を嘲笑うかのように、画面には、唯一通知をオンにしていたイベントの告知が表示された。
“ SLAUGHTER'S ONLINE”――パッチノート 68.213――
通称、スロン。
その名は直訳すれば『殺戮者たちの庭』。数万人が単一のサーバーへ同時接続し、一つの生態系を構築する仮想現実(MMORPG)だ。
スロンが世に放たれた際、真っ先に注目を浴びたのは各国のレーティング審査機構が悲鳴を上げた過激なゴア表現だった。部位欠損、流血の粘度、苦悶の表情。これらは単なる演出ではない。攻撃部位によるデバフを瞬時に判別するための「情報」として機能している。
さらに極限まで最適化された課金システムは、もはや娯楽の域を超えていた。
実質的な「換金」を可能としたバイパス構造により、一攫千金を狙うプレイヤーが続出。ガチャや強化への盲目的な投資の結果、自己破産者や多額の借金を背負う者が後を絶たず、社会問題として連日ニュースを賑わせている。
RMTに起因する組織犯罪や、希少アイテムの強奪を目的とした現実世界での恐喝事件が多発したことで、CESA(コンピュータエンターテインメント協会)やCEROは本作を「青少年の倫理観を根底から破壊する有害図書」と同等に扱い、最高ランクの規制対象としたが、それはむしろ、本能を解き放ちたい若年層や、一攫千金を狙うハイローラーたちを呼び寄せる触媒となった。
しかし、スロンが単なる「悪趣味な残酷ゲーム」で終わらなかった理由は、その圧倒的な技術基盤にある。独自開発のエンジンによる超低遅延環境、数千人の同時描写に耐えうる負荷分散アルゴリズム。そして、24時間体制で行われるホットフィックスと週単位のメタ・アップデート。
これらの運営方針が、秒単位の判断が勝敗を分けるハードコアゲーマーたちの信頼を勝ち取った。今やスロンは現代のeスポーツシーンで頂点に君臨し、毎年開催される世界大会『The Grand Slaughter』の賞金総額は530万ドル――日本円にして約8億円。
もはや遊びではなく、一つの巨大な経済圏だ。
ランキング上位者の推定年収は四億円を超え、その座を狙う「スロン浪人」が世界中で急増している。
ゲームの骨子はオーソドックスなファンタジー。だが、他のMMOと決定的に異なるのは「成長」のリソースがNPCではなく「他者の命」に依存している点にある。
スロンにおいて、最もアドレナリンを稼ぐ行為はPKだ。
モンスターを倒して得られるレベル(EXP)は、HPやMPの最大値を底上げする「器」の強化に過ぎない。キャラの戦闘能力に直結する基礎ステータスを恒久的に上昇させるには、同種族であるプレイヤーを屠らねばならないのだ。
• ATK(物理攻撃力)
• DFK(物理防御力)
• SPD(移動速度/回避率)
• INT(魔法攻撃力/詠唱速度)
• MGR(魔法防御力/耐性)
• AGL(攻撃速度/モーションキャンセル精度)
• VIT(生命力/スタミナ消費耐性)
• DEX(命中率/クリティカル倍率)
• LUC(ドロップ率/状態異常回避)
これらの数値は初期職業によって成長限界や補正値が設定されている。プレイヤーを倒すと、相手が積み上げてきたステータスの一部がキルした側に「熟練度」として加算されるシステムだ。そのため効率を求める者は「特定のステータスが育ったカモ」を狙うハイエナとなり、狙われる側は、死のペナルティによるデレベルを恐れ、集団行動を余儀なくされる。
この「持てる者が奪われる」残酷なジレンマを解消すべく用意されたのが、最大三十二対三十二の公式戦(PvP/GvG)である。召喚獣や私兵NPCが入り乱れる大規模な軍事衝突を、ラグなしで実行できるのはスロンだけの特権だ。
闘技場のタイマンで特定のステータスを「狩る」もよし。ギルド戦の報酬をマーケットでトレードし、巨万の富を築くもよし。あるいは農業で得た収益で傭兵を雇い、自らの安全を金で買いながらスローライフを送ることも不可能ではない。
スロンはもはや、仮想世界に構築されたもう一つの「現実」。
欲望が数値化され、血が金へと変換されるこの庭では、今日も数多のプレイヤーが、最強という名の頂を目指して互いの喉元を狙い合っている。
野球やサッカーのスター選手と同じ、選ばれた者だけが立てる華やかな舞台。俺はあと少しでそのプロになれたはずだった。
こみ上げる苛立ちをぶつけるように「くそっ、くそっ」と何度も地団駄を踏む。ヨレヨレのTシャツからはみ出た腹が振顫し、ふと気づけば、自分が衆人環視の中心に立っていることに思い至った。
怪訝な目で一瞥をくれるサラリーマン。集団でヒソヒソと揶揄する女子高生。携帯で写真や動画を撮る奴までいやがる。妄想の中であれば俺に勝てる奴などいないが、現実で浴びせられる悪意に満ちた視線に、足の震えが止まらない。俺は逃げるように近くのコンビニへと逃げ込んだ。
自動ドアを抜けた瞬間、レジに立っていた若い店員の顔が、汚物でも見たかのように引き攣った。
「……無職以下の底辺が、そんな顔で見てんじゃねぇぞ」
ぼそりと、本人には聞こえない程度の声で皮肉を吐き捨てる。どうせそのうち、弟か母親が血眼になって俺を捜しに来るだろう。それまで立ち読みでもしながら、暇を潰せばいい。
雑誌コーナーへ向かう途中、ショーウィンドウに映った自分の姿を見て、足が止まった。
それは、目を覆いたくなるほど酷いものだった。胸元まで伸びた不潔な髭。頭頂部は薄くなり、顔中に広がるニキビ跡のせいで肌は猿のように真っ赤だ。――ああ、これは気持ち悪いな。
肥満、ハゲ、童貞、無職、ワキガ。ネットでレスバをする時は高学歴を偽っているが、現実の姿なんてこんなものだ。
ガラスに反射する自分の背後――店の外を通る国道から、突き刺さるような悲鳴が聞こえてきた。直後、「逃げろぉっ!」という怒号が響き渡る。
反射的に視線を向ければ、巨大なダンプカーが制御を失い、フロントガラスの向こう側からこちらへ暴走してくるのが見えた。
十トンの鉄塊が店をめがけて突っ込んでくる恐怖は、筆舌に尽くしがたい。だが、俺の体重は二百キロを超えている。その上、日頃の不摂生が祟り、非常事態だというのに足がすくんで動かない。ただただ、眼前に肉薄する巨大なフロントグリルを、間抜けに凝視することしかできなかった。
次の瞬間、全身を凄まじい衝撃が突き抜けた。
宙を舞うカップ麺や雑誌。意識が途切れる直前、俺の視界を最後に掠めたのは、巨乳のグラビアアイドルが表紙を飾る、ひどく場違いで、鮮やかな笑顔だった。




