第五十話 Panda ☆ Knight(視点変更有) (最終話)
(佐竹風花視点)
オスロから、鉄道と船を乗り継いでベルゲンまで行く。夏休み、遅ればせながらの大学合格祝旅行だ。私は第一志望こそ逃したが、薬草学を学べる大学に合格していた。
「風花、ここからしばらく汽車だから、少し眠っておいた方がいいんじゃない?」
母親が、心配そうに私を覗きこんだ。
ノルウェーには昨日着いたばかりだ。時差ぼけしたのか、はたまた飛行機での心労がたたったのか、私はぐったりしていた。
オスロ上空、飛行機は何度も旋回を繰り返した。最初は、ん?と思った程度だったのだ。飛行機の窓から見下ろす風景に首を傾げる。ここはさっき通った場所……だよね?それが何度も繰り返されて……私は、この飛行機が何度も同じ場所を旋回していることに気がついた。飛行機が着陸できない?私の中で最悪の事態がグルグル渦巻く。胴体着陸?ハイジャック?もしかして、私はもう尚吾に会えないの?
パ、パ、パラシュートっ!
なんのことはない、オスロ空港は離発着で混雑しやすく、上空で待機させられるのはいつものことなのだそうだ。その証拠に、周りの乗客はのんびりと機内販売などを物色している。並びの席がとれなくて、少し離れて座っていた両親に、知ってたなら言ってくれれば良かったのに~と、着陸後文句を言うと、機内放送があっただろ?と父親に軽くいなされた。パパとママはすっかり新婚旅行気分にでもなっているらしく、私のことはほったらかしだ。私は一人ぶ~垂れる。聞いてないし、日本語じゃなかったし~
尚吾と初めてキスした夜、
何度も何度も口づけを落とした後、尚吾は、私の首筋に刻まれたキスマークを優しく舐めた。怪我をした獣を仲間の獣がいたわるように、慰めるように、何度も……何度も……
ミントの香りと尚吾の温かな体温に包まれて、私は、泣きたいくらい満たされていた。それが今にも溢れてしまいそうで、幽かに喘ぐことしかできない。そんな私に、尚吾の不機嫌そうな掠れ声が聞こえた。
「おまえ、色っぽすぎ……あおり過ぎだろ?」
「?」
色っぽい?私が?私は潤み始めた瞳で尚吾の翡翠色の瞳を見上げる。尚吾は観念したように溜息をつくと、いきなり私のセーターをタンクトップごと脱がせた。レースをあしらったベビーピンク色のブラが現れる。
「っ、尚吾っ?」
私は動揺して隠そうとするが、両手首を掴まれたままベッドの上に押し倒された。
「や~だっ、尚吾、やめてっ」
じたばたしながら睨みつける私に、尚吾が楽しそうに笑って言った。
「ふふん、いつもの風花に戻ったな」
尚吾の、いつもの上から目線の言葉に、私はあっけにとられる。な、なんなんだ~、その「ふふん」ってのは~。呆然と見上げる私を柔らかく押さえつけたまま、尚吾が耳元で囁く。
「少し大人しくしてろよ」
更に口づけを落とされて、首筋を舐められて、耳朶を甘噛みされて、私は再び心が痺れて始める。あっという間に抵抗する力が霧散していった。
「やばい、俺、おまえのこと食べちゃいそうだ……我慢できないかも……」
耳元で密やかに囁かれて、頭の中心が痺れ始めて体中が熱く火照ってくる……
と、その時、玄関のドアが勢いよく開く音がした。
「風花ちゃんが来てるんでしょぉ?」
トーネさんの弾んだ声が部屋中に響き渡った。二人して見つめあったまま凍りつく。慌てて起き上った尚吾は、手近にあった自分のセーターを私に被せると、一人リビングへ出て行った。
数日後、尚吾とした初めてのキスは涙味だったよ~と言った私に、尚吾は小さく笑ってから、俺が風花と初めてしたキスの味は月光味だったよと言う。それってどーゆーこと?月なんて出てないよ、外は雪が降ってたのに……
理由を聞いて私は唖然とする。ファーストキスって……意識がなくてもやっぱりファーストキス?カウント?ノーカウント?
後日、なんとなくママとファーストキスの話になった。ママは、パパには内緒よ?と言いつつ自分の体験を話してくれた。ママのファーストキスの話を聞くなんてびっくりだ。でもそれをママは照れ臭そうに、でも誤魔化さずに、きちんと話してくれた。そして、気の毒そうに、こうつけ足した。
「風花は可哀そうよねー、ファーストキスはパパに奪われちゃったもんね」
なんですと?
私が生まれてすぐ、初めての娘に感激したパパは、誰かにとられる前にと、さっさと済ませてしまったらしい。私は呆然とする。私のファーストキスって……一人絶句する。
その話を尚吾にしたら、尚吾はお腹を抱えて笑い転げた。それって、笑いごとなの?ひとしきり文句を言った後、尚吾が、あんまり楽しそうに笑うので、つられて笑ってしまった。
もう、いいか~、どうだって。愛があれば順番なんて……う~ん……
フロムで鉄道を降りてグドヴァンゲンまで船に乗る。ここは入り組んだフィヨルドの一角だ。山奥に来たような気がするが、ここは紛れもなく海なのだ。湖のように凪いだ海面。船底を隔てた海、船底から海底まで千メートルもの距離があるなんて信じられるだろうか?ガイドの説明を聞きながら、私はポーンと床が抜けて一キロにわたって沈んでいく想像をしてしまい、メチャクチャ心細い気分になってしまった。一刻も早く尚吾に会いたくて仕方がなかった。
(一之瀬尚吾視点)
風花たち家族よりも一足先にノルウェー入りした母と俺は、オスロに住んでいる祖母と悠吾と一緒にベルゲンへ向かった。ベルゲンで風花たち家族を出迎える為だ。俺の祖母は、もともとベルゲンの出身だ。生家があるので、ノルウェーにガールフレンドが来るのなら、是非ベルゲンへ招待しなさいと提案された。(命令されたとも言う)
生家は時々管理人が見てくれてはいるが、掃除をする必要があるので(これが祖母の真の目的ではないかと悠吾は疑っている)、早々に来るべしとの命令も下った。祖母の命令には、母を含めて俺たちは、誰も逆らえないのだ。
ベルゲンはノルウェー南西部、オスロの西三百三十Kmにあるノルウェー第二の都市だ。町はノルウェー海に面し、周辺にフィヨルドや島が多くある。古代はバイキングの拠点で、十二~十三世紀までは、ノルウェーの首都でもあった。十四~十五世紀にはハンザ同盟の重要都市として栄えていた。
「よく来たな」
俺は風花の頭をグリグリと撫でてから、風花の両親に挨拶をした。俺がちょっと目を離した隙に、一緒に出迎えに来ていた悠吾が、風花を抱き上げてクルクル回っている。
「風花ぁ、よく来たなー」
「悠吾君、この前は相談に乗ってくれてありがとう」
「役にはたてなかったけどな」
悠吾は風花をすとんと地面に下ろすと、ギュウギュウ抱きしめた。油断も隙もないやつだ。俺は悠吾の背後から近寄って頭をはたく。パチンと小気味良い音がした。
「いてっ」
悠吾は頭をさすりながら俺の顔を見て、にやりと小さく笑った。悠吾が、わざとやってるのは分かってる。でも俺はそうと分かっていても、俺以外のやつが風花に触れるのが嫌だった。例えそれが、俺とほとんど同じような顔のつくりをした弟でもだ。
実は、今まで感じたことのないこの感情に、自分でもほとほと手を焼いていた。
「気やすく触んな」
俺は仏頂面で言うと、風花の腕を引っ張って悠吾から遠ざけた。
「おまえ、変わったよなー」
悠吾が破顔して言った。
去年のクリスマスイヴの夜、風花が俺の元に戻って来て以来、風花は俺の母親のマンションに時々泊りに来るようになっていた。風花が大学に入学してからは、更に頻繁になった。風花が合格した大学は、風花の実家がある街から都心を通り越して、更に隣の県まで行く必要がある。帰りが遅くなった時は、危ないから自分ののマンションに泊らせるようにと、母が風花の両親を説得したらしい。まるで風花を母親にとられてしまったみたいだ。俺は一人深いため息をつく。
去年のクリスマスイヴの夜のこと、
「風花ちゃんが来てるんでしょぉ?」
理性がほぼ吹っ飛んで、風花を捕食しかけていた俺は、玄関が景気良く開く音と、母親の弾んだ声に硬直した。奥の部屋に風花を残したまま、慌ててリビングへ行った俺は、期待に目を輝かせ、大皿にサンドイッチをてんこ盛りに盛りつけた母と目があった。
「なんだよ、それ」
喜びに輝いた母の顔と大皿を、俺は呆然として交互に見つめる。
「だってー、さっきメアリーちゃんが、外套も着ないで外に出て行くあなたを見たって言うのよ。どうしたのかしらって心配して見てたら、しばらくして自分が着ていたセーターを被せた小柄な女の子の手を引いて戻って来たって言うから、私、絶対風花ちゃんだって思って……そうなんでしょ?あなたが、わざわざ自分が着ていたセーター脱いで着せる女の子なんて、風花ちゃん以外に思いつかないし……」
メアリーちゃんと言うのは、母の友人で、インテリアコーディネーターのおばちゃんだ。純日本人のくせに、自分のことをメアリーと呼ばせる変わった人なのだ。俺の頭の中を昔聞いたコントのセリフがよぎった。
壁にミミあり、障子にメアリー
「で?どこにいるの?風花ちゃん。風花ちゃーん、風花ちゃんの大好きなサンドイッチ持って来たわよぉ」
母は部屋の中を見回して、ピーピーと口笛を吹いた。俺は唖然とする。風花を犬かなんかと間違えてないか?ところが、更に唖然としたことに、口笛につられたように風花は出てきやがったのだ。おいっ。
「トーネさんっ」
「風花ちゃんっ」
母は、サンドイッチの大皿を俺に押しつけると、風花と抱き合った。
「トーネさん、お久しぶりです~」
風花は、母にギュウギュウ抱きしめられながら、涙声で言った。
傍目には、母は感動の対面で感極まっているように見受けられたが、いつもどおりの冷徹さで、目ざとく風花の首筋のキスマークに気づき、俺をきっと睨んでから、ここは危険だから向こうへ行きましょうねぇと、風花をパーティー会場に引っ張って行ったのだった。俺はトホホな気分で、サンドイッチの大皿を持ったまま、二人の後を追いかけた。
パーティー会場で、おばちゃんたちの格好のいじられ対象になって、ぐったりした俺が、母親の部屋のリビングに避難して休んでいると、風花がやってきた。
「今日はもう遅いし、雪もひどくなってきたから、ここに泊りなさいって。さっきトーネさんがママに連絡してくれたの」
風花は俺にジャスミンティーを運んで来てくれたらしい。温かいジャスミンティーの華やいだ香りが辺りに漂う。良い香りに気分をほぐされた俺は、小さなため息を漏らした。
「……俺、明日、陸也に謝りに行って来る」
陸也には本当に悪いことをしてしまった。許してもらおうとも、許してもらえるとも思わないが、陸也には、常に誠実でありたいと心から思う。
「……私も行くよ」
風花が悲痛な顔で言った。俺は首を横に振る。
「いや、おまえは居ない方がいい。おまえがいたら、陸也は俺に言いたいことを言えないだろ?」
それに殴れないだろうしな。心の中で呟いて、俺はがっくりと項垂れる。
風花が、項垂れる俺をふわりと抱きしめた。
「尚吾に……会いたかった……」
小さくつぶやく風花を、俺は強く抱きしめ返した。
風花たち家族が到着した次の日の早朝、俺と悠吾と風花は、ベルゲンの朝市に向かっていた。ベルゲンの海ぎわでは、毎朝市が立つ。そこでは、新鮮な魚介類を豊富に扱っているのだ。朝食用に買ってきてほしいと、前の晩に祖母に頼まれていた。若者たちが買って来るべしという祖母の命令だ。祖母と母は、見かけこそ似ていないが、雰囲気がそっくりだ。
徒歩で海べりまでぶらぶら歩く。空は曇っていて、今にも雨が降り出しそうだ。そもそもベルゲンは雨の多い町で、一年のうち三百六十日雨が降ると言われるほどだ。海ぎわまで来た時、突然悠吾が立ち止まって、ずっと先の海べりを指差して言った。
「……俺さぁ、実は尚吾のクマの抱き枕、そこの海に捨てたんだ……今さらだけど、悪かったな。ごめん」
突然の悠吾の告白に、俺は口をぽかんと開けて、悠吾を見つめた。
「……なんで?」
怒りよりも先に、疑問が浮かぶ。
「あの抱き枕を祖母ちゃんからもらってから、尚吾、不眠症が治っただろ?このままだと日本に帰れないんじゃないかって思ってさ……つい……悪かったな」
本当に悪かったと思っているのか?と訝るくらい軽い調子で言って、悠吾は肩を竦めた。
「そんなに日本に帰りたがってたおまえは、今どこに住んでるんだ?」
俺は呆れて、でも苦笑しながら言った。
「だから、ごめんってばよ」
悠吾は手を合わせて、俺を拝む真似をする。
「へぇ~、じゃあ、尚吾、クマの抱き枕を失くしちゃってたんだね~。それならバレンタインデーのプレゼント、ワニじゃなくてクマにすれば良かったな~」
風花は少し残念そうな顔でそう言った。抱き枕のプレゼントを考えついた時、クマにするかワニにするか迷ったのだと言う。
「いや、ワニで良かったよ。クマは、ちゃんと帰ってきたからな」
俺は小さく笑った。
「?」
風花と悠吾が顔を見合わせて首を傾げる。
「Hey!Yugo」
その時、市場で店番をしていた同じ年くらいの兄ちゃんが、悠吾に話しかけてきた。しきりに新鮮なエビがあるから寄ってけと誘っている。悠吾が、彼とは最近友人になったんだと風花に説明をしていた。悠吾が兄ちゃんに強引に引っ張って行かれるのを、二人で笑いながら手を振って見送る。
その時突然、バラバラっと雨粒が落ちてきた。俺は風花の手をとって、小走りに建物の軒下に避難する。しかし次の瞬間、雲間から日射しが降り注ぎ、海の上に大きな虹が架かった。
「わぁ~虹だぁ」
風花が、海上に広がる雲がちな空を指さして、嬉しそうに叫んだ。俺は眩しい思いで、その笑顔を見つめる。この笑顔を守りたい、俺は心からそう思う。
「……風花、俺はおまえの笑顔を守れる人間になりたいよ。おまえが望むなら、俺は、おまえを照らす灯りになる、雨をしのげる大樹になる、おまえを守る騎士にだってなるよ」
俺の言葉に、風花は一瞬ぽかんとしたが、次の瞬間、快晴の日の太陽みたいにニパッと笑って、こう言った。
「じゃあ、尚吾は私のパンダナイトだねっ」
「……」
この後、風花がグーで頭を挟まれてグリグリされたのは言うまでもない。
(了)
番外編を作成中なので、まだ完結マークはつけていませんが、これにて終了です。
最後まで読んでくださってありがとうございました。 招夏