第三十六話 ジ・エンド・オブ☆サマー(佐竹風花視点)
夏休みはあっという間に終わった。悠吾君は花火大会の後すぐにノルウェーに帰っていった。貴重なノルウェーの夏をガールフレンドと満喫する必要があるんだそうだ。今度はノルウェーに遊びに来いと言うので、お金が貯まったら行くと約束をした。
パパのモデルハウスペンションは割と盛況らしく、半年先まで予約が入っているそうだ。ペンションに泊まるお客様のうち半分は、勇敢にもトーネさんが提案した朝ごはんイベントの卵拾いに挑戦したがるそうだ。猛鶏だってなんども念を押すんだけどねぇと母が溜息をついていた。だからうちの薬箱には消毒薬と絆創膏が欠かせない。
私は以前より頻繁に、街の図書館を利用するようになっていた。メールで連絡をしておけば、尚吾が立ち寄って勉強を見てくれる。街の図書館は勉強したい人用に個別のデスクをいくつか用意してくれているので集中して勉強ができる。もう少し頑張って成績を上げれば、私が希望している薬草を研究しているゼミのある大学に手が届きそうだ。
その日は個別のデスクが空いていなかったので、長机で勉強をしていた。数学だ。むむむむ数学め~、どうして相も変わらず私の足を引っ張るかな~。隣の尚吾にSOSを送る。ノートの隅に尚吾がヒントを書き込んでくれる。それを読んで再び考え込む。そうしているところに、一人の女性が現れた。シルクロードの彼女だ!私は目を見開く。その女性はすたすたと尚吾の席に近づいてきて、声を掛けた。
「尚吾、探したのよ。私あなたに頼みたいことがあって……」
シルクロードの彼女は尚吾の隣に屈みこむと、ヒソヒソ声で言った。尚吾が、ノートの隅っこに『OK、俺も安藤に謝らなきゃならないことがあるんだ』とすばやく書きこんだ。
『なに?』と美しい文字でシルクロードの彼女も書き込む。
『ロビーに行こう』と尚吾は書き込んでから、私のノートに『少し話してくるから、おまえは例題5まで進めておけよ』と書きこんで席を立った。
私はモヤモヤした気持ちで、だけど猛然と例題5までを解いたが、解き終わっても尚吾は戻ってこなかった。次の例題をやってしまおうか、それとも別の教科をやろうかと考えてぼんやりしていると、隣に人がやってきた。
「風花ちゃん、久しぶり。俺のこと覚えてる?」
その人はヒソヒソ声で話しかけてきた。人懐っこい瞳に、黒い短髪……
「二ノ宮さん!」
私も小声で返す。
「一人なの?尚吾は?」
私は頭を傾けてロビーを指した。尚吾とシルクロードの彼女が何やら楽しげに話しているのがチラリと見える。それを見た二ノ宮さんは、ははーんと納得した顔をして頷いた。
「もしかして風花ちゃん、彼女のことを知ってるの?」
私は仏頂面で頷いた。そんな私に二ノ宮さんは小さく笑った。
「尚吾を少し心配させてやろうぜ」
二ノ宮さんがニッと笑った。
「どうやって?」
「俺の言うとおりに書いてよ」と言うので、 二ノ宮さんの言うとおりにノートで筆談を交わす。
『一人なの?』二ノ宮さんが書く。
『いえ、連れがいます』言われて私が書く。
『お茶でもしようよ』
『いえ、結構です』
『いいじゃん』
『でも……』
私が「も」の文字を書いている途中で、二ノ宮さんが書いている方の腕を引っ張ったので、「も」がぐにょ~んと変形してしまった。
「あ~」
「よし、じゃ、貴重品だけ持っておいで」
二ノ宮さんはニッと笑って立ちあがった。
自販機がある談話ルームで、二ノ宮さんは冷たい紅茶をおごってくれた。
「勉強頑張ってるみたいだね。最近数学はどうなの?」
二ノ宮さんはアイスコーヒーのボタンを押した。
「数学はぼちぼちです。不得意分野を潰していってるんですが、なかなか追いつかないんですよ~」
「そっかー、がんばれよ」
二ノ宮さんが隣の椅子を引いて座った。くあーんと椅子の足が床と擦れる音が響く。
「あの……二ノ宮さんは、尚吾の元カノとはお知り合いですか?」
「それほど親しくはないけどね」
「きれいな人ですよね~。あの……尚吾と彼女は……」
何と聞けばいいのか分からない。ヨリが戻ったじゃないでしょうかなんて聞けるわけがないし……口ごもっていると、
「大丈夫だよ、あの二人は風花ちゃんが心配するような話はしてないと思うぜ?」
二ノ宮さんはそう言って私の頭をくりくりっと撫でた。
「べっ、別に、私はそんな……」
私は動揺して紅茶をこぼしそうになって慌てる。そんな私の様子を見て、二ノ宮さんは優しげにほほ笑んだ。そこに慌てた様子の尚吾がやってきた。
「風花っ」
私は驚いて尚吾を見つめる。二ノ宮さんは面白そうにニヤリと笑って、ほらねと言うように私にウインクをした。
「あ……れ、二ノ宮?」
尚吾はがっくりと脱力した様子で、ため息をついた。
「よっ、風花ちゃん借りてるぞ」
二ノ宮さんが軽く手を挙げる。
「なんだ、おまえだったのか。それならそうと一言書いておいてくれたらいいのに……」
「おまえこそ、どうしたんだ?安藤と寄りが戻ったのか?」
二ノ宮さんがズバンと質問する。
「違うよ。今、あいつと第一外語が重なってるだろ、去年取り損ねたやつ」
「ああ」
「何度か出席できなかったところがあるから、試験前にノートを貸してくれって話だったんだ。俺も、うちの母親の勘違いを安藤に謝らなきゃならないことがあったからな」
「勘違い?」
トーネさんの?私は首を傾げる。
「まぁ、色々あって、話が長引いちゃったんだ」
尚吾は渋面で答えた。
「それならそうと一言書いておけば良かったのさ」
二ノ宮さんがしかつめらしい顔をして言った。
図書館からの帰り道、尚吾にノートのあの筆談を読んだのかと訊いてみた。
「おまえなー、お茶に誘われて知らないやつにホイホイ着いてくんじゃねーぞ」
「だって、知ってる人だったし……」
私の返答に尚吾は仏頂面で黙り込んだ。
「……でも、心配してくれてありがとう」
私は尚吾の腕に手を絡ませた。夕焼けが明日もきっといい天気だよと囁いていた。
その日、図書館に行く予定はなかったんだけど、秋物のスカートが欲しくなった私は一人街に出た。いくつか目星をつけていたデパートを見て回る。そこそこなものはあるのだが、なかなか買う決心がつかない。もう一つ離れた所にあるデパートまで行こうと、大通りではない路地に入りこむ。こっちの方が近道だ。ところが、それはとんでもない間違いだったのだ。
「ねぇ、君、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
振り向くと、薄紫色のスーツを着て、サングラスをかけた男が話しかけてきた。
「なんですか?」
私は少し警戒しながら返事をする。その人のいでたちは普通のサラリーマンからはかけ離れたセンスだったからだ。
「ちょっと見てもらいたいものがあるんだ。一緒に来てよ」
その男の人は私の二の腕を掴んだ。怖い。私の中で警報が鳴る。
「は、離してくださいっ、人を呼びますよっ」
私の拒絶の言葉にその男の人は豹変した。
「呼べよ、呼べるもんならなぁ」
その男の人は私の口を塞ぐと、そのまま数メートル先に停めてあった黒いワゴン車へと引きずって行った。私は必死にもがくが、中からも二人男の人が出てきて、私を車の中へと押し込んだ。車に乗せられた私は、あっという間に何か薬の匂いをかがされてしまった。尚吾!助けて!言葉は発せられる間もなく、意識を失う瞬間、悠吾君の声が頭の中で響いた気がした。『おまえさ、危ない目に遭うなよ』
読んでくださってありがとうございます 招夏




