第二十五話 アクアビット☆ティアーズ (佐竹風花視点)
「五時四十五分三十秒……」
トーネさんは時計を睨みながらカウントダウンを始めていた。
「トーネさん、六時までに尚吾が帰ってこなかったら、私はどうにかされちゃうんですか?」
「そうね~、どうしてやろうかしら」
トーネさんがニヤリと笑う。
テーブルの上には、オードブルの皿と、小さなお団子状に丸められてこんがり焼きあげられたミートボールと蒸しあがったポテトが、リンゴンベリージャムを添えられて乗っている。リンゴンベリーとはコケモモの一種で、北欧では料理にも使う一般的なジャムなのだそうだ。味見をしたらカシスに似た丸いベリーの甘酸っぱいジャムだった。その横にはミートボールとジャガイモにかける予定のクリームソースが入ったサーバーもある。ミートボールはトーネさんの手作りだ。私もちょっと手伝ったけどね。オードブルはさっき届いた。頼んであったのだと言う。
家に連絡をした。尚吾のマンションにプレゼントを置いたらすぐに帰ると母親には言ってあったからだ。尚吾のお母さんにつかまった経緯を説明していると、ケータイがするりと手から抜き取られた。
「こんにちは、わたくし一之瀬トーネと申します。尚吾がいつもお世話になっております……」
うちの母親とトーネさんは勝手にしゃべり始めた。よほど波長があったのか、単なるおしゃべり好き同士なのか、二人は三十分以上もしゃべりつづけ、その間、私は一人黙々とミートボールを丸め続けた。そしてケータイが私の手に戻ってきたころには、誕生日パーティのお手伝いをしっかりするようにと母が言うまでになっていた。
「五時五十九分……」
トーネさんの元気が少しずつ萎んでいっている気がした。
「トーネさん、尚吾がメッセージを聞いていないってことはないですか?」
自分がどうにかされるという心配よりも、せっかく用意したパーティに尚吾が帰ってこないという状況がいたたまれない。
「……聞いていなくても、聞いていても関係ないのよ」
トーネさんは寂しそうに笑った。
六時を十分ほど過ぎたころ、トーネさんは、ちょっといいかしら?といいながら、ボトルを取り出して何やら飲み始めた。
「トーネさん、それ何ですか?」
「アクアビットよ。あなたも飲む?」
アクアビット?私は勧められるまま一口ごくりと飲んでみた。かぁーと胃の中が熱くなる。
「トーネさんっ、これアルコールじゃないですか~。私、まだ未成年ですよ~」
口の中いっぱいにキャラウェイの香りが広がる。数年前母親がハーブにハマっていたころに庭に植えられていたので知っている。
「あら、そうだった?これはaqua vitae、生命の水よ」
トーネさんは特に気にとめる様子もなく、更にアクアビットをあおった。
「何が生命の水ですかぁ、まだお酒なんて飲まないで下さいよ~。尚吾が帰ってきたころには酔っ払いになっちゃいますよ?」
私はトーネさんからアクアビットのボトルを取り上げた。
「帰ってこないわ!尚吾は帰ってこないわよ。いつだってそうなんだからっ」
いつも?トーネさんの悲痛な瞳に私はたじろぐ。
「もう、いいわ。あなた帰りなさい。誰かに送らせるわ。ごめんなさいね、あなたを巻き込んで……」
トーネさんは一気に弱った様子で、椅子に座りこむと両手で頭を抱え込んだ。
私はトイレの個室の中でメールを打っていた。あんなに痛そうな表情のトーネさんを置いて帰ることなんてできそうにもなかったからだ。お手洗いを借りるふりをして、何度も何度もメールを送る。
『尚吾、どこ?』と……
五回目のメールを送ったところで、ケータイの呼び出し音が鳴った。
「しょーご、どこにいるの?」
『なんなんだよ、おまえ。また迷子になったのか?』
迷子になってるのは尚吾でしょと言いたいのをぐっとこらえる。
「私は迷子じゃないよ。それよりも、尚吾どこにいるの?」
『今日は出かけるから会えないって言っておいたよな。今日は俺を頼るな。俺は力になれない』
悲しげで不機嫌そうな声だ。いつもの私なら、ごめんなさいと言ってすぐに退散するところだろうが今日はそういう訳にはいかない。
「そんなの分かってるよっ。だからどこにいるのかって聞いてるだけでしょ!」
『……首都高の上だけど……』
私の語気の荒さに少し引き気味の尚吾の声が聞こえた。
「首都高速?運転中なの?」
『渋滞に巻き込まれちまってるんだ。全然動かなくて駐車場にいるみたいだぜ。ここを抜けるのに三十分以上はかかるってさ。家に帰り着くのがすっかり遅れちまってて……まあ、お陰でおまえのくだらないメールには返事できたけどな』
むむむむ、くだらないメールで悪かったねっと心の中で悪態をつく。でも、家に向かっているんだ。私は嬉しくなる。
「じゃあ、もうすぐ家に着くね?」
『そりゃ、まあ、後一時間もかからないで家には着くだろうさ。で?おまえはどうしたんだよ。また何かあった……ああ、動き出した。急ぎじゃないなら、明日にでも連絡をくれ。じゃな』
通話が途切れたケータイを手に持ったまま、私はトイレの個室から飛び出した。
「トーネさんっ、トーネさん、渋滞なんですよっ、渋滞っ」
「誰が重体なの?」
跳ねながらリビングに戻った私の言葉に、トーネさんはガタンと椅子を倒しそうな勢いで立ち上がると、私の肩を揺さぶった。
「誰も重体じゃありませんよ。道路が渋滞なんです~」
「道路が重体……」
まだ事情が呑み込めていない様子のトーネさんの手をとってニパッと笑う。
「道路が混んでて家に帰れないんだって、尚吾から連絡があったんですよ~」
「……ああ」
呆然とした様子のトーネさんに首をかしげつつも、私は続けた。
「だから、もう一時間も待てば尚吾は帰ってきます。乾杯もしないうちから酔っ払ってちゃ駄目でしょ?」
私はトーネさんのグラスのアクアビットを流しに捨てて、ボトルを冷蔵庫にしまった。
「あーあ、もったいない」
トーネさんが溜息交じりに言った。
「もったいないと思うんなら、後一時間は我慢してください。私は何度でも捨てますよ?大人なんだから我慢できるでしょ?」
私は両手を腰に当てて、トーネさんを見上げた。
「ちっちゃいくせに、強引なのね……あの人に似てるわ」
トーネさんは私を見下ろして小さく笑った。
「……あの人?」
「尚吾のパパよ」
トーネさんはそう言って、クスクス笑った。
読んでくださってありがとうございます 招夏