第二十三話 エントランスde☆バトル (佐竹風花視点)
佐竹風花視点です
ある暑い夏の昼下がり、私は尚吾のマンションを一人見上げていた。既に夏休みに入っていた私は、夏期講習を済ませてから街へ向かう電車に一人飛び乗った。今日は尚吾の誕生日だ。だけど尚吾はマンションにはいない。それは尚吾から聞いて知っていることだった。
「ね~来週の八月三日は尚吾の誕生日でしょ?何かプレゼントするよ~何が欲しい?」
そう言った私を尚吾は驚愕の目で見つめた。
「なんで俺の誕生日を知ってるんだ?」
少し怒っている様子の尚吾に私はたじろぐ。
「なんでって……この前尚吾の部屋で運転免許証見ちゃったから……」
「……」
誕生日と言っただけで、何故こんなに重い沈黙が支配するのか、さっぱり分からなかった私は所在なくイチゴ牛乳のパックにストローを差し込んだ。さっきまで勉強を見てもらっていたのだ。図書館の出入り口の近くにある自販機横の長椅子に座って二人で黙りこむ。
「ねぇ、尚吾の誕生日を見ちゃいけなかったの?」
「……」
「警察には教えるくせに、私には教えられないってわけ?私よりも警察との方が仲いいんだ~」
私がむっとして言った言葉に、尚吾は苦笑した。
「生年月日書かないと免許証くれないから書いただけだろ?なんだよ警察と仲がいいって……」
「だって……じゃあ、どうして……」
こんな風に黙り込むのかと訊こうとした私の言葉は、尚吾に遮られた。
「頼むから……俺の誕生日に何かプレゼントしようなんて考えないでくれ。何も欲しくない。それに、その日は大事な用があって俺はいない……」
尚吾はそれ以上話すつもりがないらしく黙り込んだ。
いない……つまりその日は会えないということだ。しかも、私は、その理由さえ教えてもらえる立場にはないということ?つまり……私は隣にいる尚吾が、突然見知らぬ他人になってしまったような気がして、息がつまりそうになる。
「ねぇ、尚吾……もしかしたら、私は尚吾の重荷になってる?もし、尚吾に大事な人ができてて、私が邪魔なら……」
私は泣きそうな気持で、それでも懸命に言葉を紡ぎだす。
「そうじゃない。そうじゃないんだ……もう、この話はやめよう……って、おい、泣くなよ……」
尚吾の困惑した声が頭上から降ってくる。気づいたら涙が零れ落ちていた。
「泣いてないもんっ、こんなことで泣くような風花さまじゃないもんっ」
私は手の甲でごしごしと目を擦った。震える強がった声。
「馬鹿だな」
尚吾は私の頭をグリグリと撫でてから、そのまま腕をまわして私の頭を引き寄せた。
「その日は、毎年出かけることにしているんだ。恒例行事みたいなもんでね。だから風花が気を使ったり、邪魔じゃないかとか心配したりする必要はないんだ」
尚吾は穏やかに諭すように、そう言った。
尚吾と私……恋人同士ではなく、単なる友達とも思えず、ましてや兄妹でもない……微妙な、微妙な関係だ。強いて言えば、恋人未満、友達以上。私は時々、その微妙さ加減が怖くなる。私にとって尚吾は、とても大切で失いたくない存在なのに、そもそも私は尚吾を手に入れてさえいないんじゃないかとか、尚吾にとって私は単なる重荷にしか過ぎないんじゃないかとか思ってしまうからだ。
あれからずっと不安だった。重荷に過ぎない私は結局置き去りにされて、尚吾はどこかに行ってしまうんじゃないか……そう思えてならなかったから。
トートバッグの中には、昨日ママに教えてもらいながら作ったジンジャービスケットと貯めてあったお小遣いで買ったTシャツが入っている。尚吾の瞳の色に良く似たオリーブ色のTシャツだ。郵便受けに入れるか、ドアノブに掛けるかしておこうと思ったのだ。ところが……
「むむむむ、入んない~」
私は途方に暮れる。郵便受けの口の大きさを全く考えていなかった。そもそも郵便受けというものは、封筒かハガキを入れるものであるのだから、口の大きさはどの家でもこのくらいなのに、それをすっかり忘れていた。
守衛さんがいる小窓をノックする。
「何か?」
がっしりした体形のおじさんが顔を出した。
「あの~、これ郵便受けに入れようと思ってもってきたんですけど、入らないみたいで~、ドアノブに掛けておきたいので、中に入れてもらえませんか?」
エントランスには鍵が掛かっていて、暗証番号を入力するか、カードキーを使うかしなければ中には入れないらしかった。前に入れてもらった時には、尚吾がカードを翳していたのを思い出す。
「ここは関係者以外立ち入り禁止です」
守衛らしい人は、そっけなくそう言った。
「だから~、これを届けに来ただけなんです~。中に入れないのなら、こちらで預かっていただけますか?」
私は小窓を閉められないよう手でがっしりと押えて食い下がった。
「それは致しかねます。私は単なる守衛なので……」
相手が困っているのはよく分かるが、私だって困っているのだ。こういうときの私は、はっきり言ってしつこい。
「だって、郵便受けに入らないんですよ~」
「もう少し小さくならないんですか?」
私が見せたリボン付きの箱をちらりと見て守衛さんが言った。
「駄目ですよ~中のものが割れちゃいますっ」
「中身は何ですか?」
守衛さんは、少し不審そうな目を私に向けた。
「クッキーなんです。どうしても今日中に渡したいんです。帰ってくるまでここで待てとおっしゃるんですか?」
ウルウルした瞳で見上げると、守衛さんは困り果てた顔をした。
「どちらに届けるんですか?」
私は尚吾の名前と部屋番号を言った。守衛さんは大きな大きな溜息をついた後、何か身分証明ができるものはあるかと言った。私は学生証を取り出して見せた。一人で外出する時は、なるべく携帯しておくようにと指導されていたのだ。
私はエレベーターホールで、ほっと溜息をついていた。どうやらクッキーを無事ドアノブに掛けられそうだ。降りてきたエレベーターに乗りこむ。ドアが閉まる寸前、女性が一人駆け込んできた。私はあわてて「開」ボタンを押す。背の高い大柄な女性で、その人が入ってきた途端、ミントの香りが個室内に拡がった。私は目を見張って女の人を見つめる。その人は行く先階を押そうとして、一瞬動作を止め、「閉」ボタンを押すと、振り返って私をまじまじと見つめた。
「あなた最上階に行くの?」
その女の人はよく通るアルトの声で言った。
「はい」
私の返事に、まだ納得できないという雰囲気で、女の人は私を見つめた。
「ここに住んでるの?」
用心しているような声だなと思いながら、首を傾げる。
「いえ、私の友達が住んでいて……どうしても今日渡したいものがあるんです。でもお留守なので、郵便受けに入れておこうと思ったら、入らなくて……」
私は包みを持ち上げて見せた。
「……トモダチ」
女の人は、珍しい花の名前でも耳にしたという様子で復唱した。
間もなくエレベーターが最上階についたので、私は女の人に軽く会釈をするとエレベーターを降りて尚吾の部屋へ向かった。一番奥の部屋だ。ドアノブに包みをぶら下げて、これでよしと一つ肯いてニンマリしてから、くるりと踵を返した。エレベーターに引き返そうとして視線を前に向けた途端、私は驚いて立ち止まった。さっきの女の人が腰に片手を当てて立っていたからだ。
「そんなところに、そんなものをぶら下げておくのはやめなさい。不用心だわ」
女の人は私を見下ろしてそう言った。
「え?でも……」
「それを持ってついて来なさい。尚吾は夕方には帰ってくるわ。それまでうちで待ちなさい」
「え?」
私は呆然と女の人を見上げた。
「私は尚吾の母親よ。一之瀬トーネ」
その女の人は、待ちきれないようにドアノブに掛かっている包みを勝手に外すと、呆然と立ち尽くしている私の手を引いて、三つほどドアを隔てたエレベーターに近い部屋へと向かった。
読んでくださってありがとうございます 招夏