雪解け(作:葵生りん)
※作中、現在差別用語とされている表現もありますが、時代的なものとして敢えて使用しております。ご容赦ください。
妻は名を椿と言った。ころころとよく笑い、艶やかな紅色の似合う女であった。
それが、昨年流行病であっけなく夭折したのだ。
父は妻の喪が明けた早々に妻の妹であった女を後妻に据えたのだが、これが雪子という名の、盲目で、快活だった妻の妹とは思えぬほど物静かで、いかにも体の弱そうな色白の女であった。
「おい」
襖を開けると、妻は針仕事をしていた手を止めた。
「おい」
「はい、どうなさいました?」
二度目にようやく、妻は笑みをつくった顔を上げた。その目は白く濁り、常に胡乱だ。
「縁側にいる。なにか持て」
その目をから視線を逸らして口早に告げると、早々に縁側に戻った。
… … ・ … …
つい先日田植えを済ませたばかりのような気がするのに青々と伸びた苗が田を覆い、蛙の声も盛りを過ぎて代わりに松虫が密やかに鳴き始めている。本格的に蒸し暑くなるのはまだこれからだから、じとりとした空気が肌にまとわりついても風が吹けば心地好い。
夕涼みにと出た縁側からふと見上げた空には青白い満月が煌々と輝いていたからこれは月見酒でもするかと思い立ったのだ。
持ち出した酒瓶から直接猪口に並々と注ぐ。痺れるように甘い酒気が立ち上り、そこへ写した月が酔ったように揺れた。
口をつけると月は一時姿を隠し、喉を、五臓六腑を、灼くように染みていく。
「仲秋の名月にはまだ早いがそれに劣らぬとは思わぬか、ツバキ」
振り返ると月光は縁側を渡り仏壇の少し手前まで差し込んでいて、そこから見ているであろう妻に向かって声をかける。
薄く闇に沈んだ仏壇からは昔のように「ええ、ええ。そうですねぇ」と返答があるはずもない。なのにそれが無性に腹立たしい。
ちびりちびりと舐めるように呑むのがもどかしく、一気に酒を煽って手酌する。
口にする妻の名はいつも先妻のものばかり。
気に入らぬのだ。
あの胡乱な目も。
雪子などという名も。
名に添うた、触れたら消えていきそうな儚げな風情も。
(……面妖な!)
妻はあの目でありながら家の中を不自由なく行き来し、針仕事もまかないも器用にこなす。それもまた、どこか薄ら寒さを覚えてどうにも胸が悪い。
苛立ちから月を写す暇もないほど――勢い猪口から溢れるほどに――注いでは、次々と酒を煽り続ける。
「そんなに呑むと身体を悪くなさいますよ」
唐突にかけられた声に、はっと息を呑む。
「……ツバキ」
口をついた妻の名。だがその姿は幽霊のように色白ではあっても、生気を宿したほうの妻だった。
恐ろしく声が似ているのは、姉妹だからか。
「ツバキには上げたか?」
「ええ、もちろん」
コトリと猪口の脇に置かれた焼茄子からは湯気があがり、鰹節が踊っている。仏壇にもほこほこと湯気があがっている――いや、あれには線香も混じっているか。
香ばしい鰹節の匂いに、きゅうと腹が減った。
軽く合掌して目を閉じてから焼茄子に醤油をかけて箸をつける。持ち上げると滴る汁がまた食欲をそそり、舌を伸ばして呑むように一口目を頂く。
茄子の旨味と火傷しそうな熱さが心地よく喉を落ちる。
ほうと息をついて手を伸ばした酒瓶は妻の後ろに消えていて、代わりに徳利から猪口へと酌をしているところだった。
とくとくとく。
酒をぴたりと際まで注いだ猪口を無言で差し出され、勢いそれを受ける。
「……おまえは本当に見えぬのか?」
「ええ」
際まで注がれた酒の上で揺れる月を眺めて問うと、妻は先に私が雫した酒を拭きながらくすりと笑った。
「徳利から猪口へはとくとくとくと3回鳴ればこのとおりちょうどに」
――ユキは兎に角苦労性なのよねぇ。どんなに骨を折っても諦めない。一言の愚痴も言わずに足掻いて刻苦してしまうの。
不意に、妻の声が聞こえたような気がした。
今度は昨年の仲秋、この縁側で同じように月見をともにした時の記憶に残っている声だ。
「焼き加減は?」
「音と匂いでわかりましょう?」
くんと鼻を利かせると勿論青臭い生の茄子とは違うのだが、いつから匂いが変わるのか、そのようなことを気にかけたことなぞない。
音だけで酌をすることなど、思いも寄ろうか。
――わたしはねぇ、あの子に幸せになってほしいの。だから……。
あの時、椿は月を見上げた。
それを思い出して見上げたのは、あの時以上の明月だ。
「……しかしあの月の美しさはわかるまいな」
「ふふ、見えなくとも聴くことはできますよ」
「異なことを」
窘めつつも忍び笑う妻に、不思議と不快感が湧かなかった。
焼茄子や酌のように仕掛けがあるのだろう。しかしどうやってあれを聴くのかと考えを巡らせてみるものの、謎掛けのようにしか思えぬ。
仕掛けが読めぬかと見つめた妻の横顔は、月を見上げていて――そこにある目は、まるで今空に浮かぶ月のようであった。
「月に音などなかろう?」
答えを望んでみたが、妻は静かに笑うばかりで答えを寄越さぬ。
しかしその穏やかな笑みは幸せそうであった。
泡沫の、笑み。
……儚く消えていくもの。
――だからね、あたしはゆきこをこう書いてあげるの。
妻は、妹の名を宙に「幸子」と記した。
文盲であった妻は、自分の名も仮名でなんとか書いていたというのに。
「……ユキ……」
口の中で呟いたのだが、耳聡い妻は目を丸くして食い入るように私を見た。あの明月のような目で。
どうにも据わりが悪く、その目も空の月も見上げられず、叱られた幼子のように庭石を見た。
「ツバキは……そう呼んでいたな」
「はい」
常には清水のようにさらりと答える声が弾んでいるような気がしたが、その顔を見るのはやはり躊躇われて、ただ無言で月を見上げた。
おそらくはその名を呼ぶ度に――亡き妻がそうであったように――願うのだろう。
いつまでも、消えない幸であれと。
(了)




