青年期 十八歳の晩春 四十七
脳に響く思念伝達の魔法は久しぶりであったが、やはり気味の良い物では無かった。
他人の思考が直接に流れ込んでくる感覚は、たとえ長く仕えても慣れない。生理的に魔法を扱える種と、さにあらぬ種の絶望的な格差故か。
『返信ではなく、自発的に頼りを寄越すのは久しぶりね?』
「時候の挨拶は欠かしておりませんでしたが」
『礼儀云々の話で、エリザへの私信のついででしょう。それくらい分かっているわよ』
快と嘲りが混じった繕わぬ感情を叩きつけてくるのは毎度のこと。時に視覚や感覚さえ共有できる<思念伝達>の魔法は本当に便利であるが、こうも無遠慮であると中々にしんどくもあった。
『まぁ、こういう形での連絡だから面白いし特に許すわ。懐かしいわね、空間のほつれを通して魔法を届けるのは、私が……えーと……まだ五〇歳なってなかった頃かしら?』
「いや、私に聞かれても」
『どうあれ無秩序に開くのではなく、場所を選んで開いたなら上々。これからも研鑽を続けなさいな』
おや? もしかして今褒められた? しかも割と素直に?
数年越しの会話では特に湧かなかった感動――抵抗感こそあれ――を裏切るように、何故か嬉しくなってしまった。私が知る現状では麓にも辿り着いていない頂の一つである彼女からの賞賛だからか、気が緩みそうになってしまう。
笑みや喜びを示しそうになる意識を引き締めた。僅かでも気を緩めた途端、何をされるか分からん人だということを忘れてはならないぞ私。
『さてと……まぁ、時期的に何が起こってるかは大体分かるから、ちょっと待ってなさいな』
はてと思う間も無く背後に気配が湧いた。刹那、煮えたぎらんばかりに膨大な力に肉体が“死”を察知して爆発的に反応する。<見えざる手>が袖に仕込んだ“妖精のナイフ”を掌に滑り込ませ、握り込むが早いか否か左回りに体を回し、遠心力と筋肉の動きを全力で活用し最速の一撃を放つ。
堅い手応えが一つ、二つ、三つ……四つ目にナイフの刃先が食い込んで動きが止まり、破るために刃先を抉っても鈍い感覚が返ってくるばかり。
「あら、物理障壁を全部抜いて概念障壁に傷を立てるとは。存外やるようになったわね」
薄皮数枚の所にまで届いたナイフの刃先を褒めているのに気にしない所か、気付きもしない調子で笑ったのは一人の長命種。
煙るような蝋燭の光の下でも燦然と輝く艶やかな銀の髪、薄柳と紺碧の金銀妖眼は悪辣な笑みの弧を描いて爛々と光る。白い肌はくすみの一つみあたらず、磨き上げられた彫像すら恥じ入る美しさ。微かに透ける気楽な夜着を纏った体は、出会った時から変わることなく見窄らしい田舎の農家に佇んでいようが褪せることはない。
「あっ……ウビオルム伯!?」
慌ててナイフを外し、飛び下がって――うっかり椅子を巻き込んで膝の裏を強打した――跪く。やり過ぎな悪戯であることは否定できないが、だとしても尊き血が流れるのみならず、今や帝国でも上位に位置する“金持ち”に対して私がやらかしたことも大概だ。
びっくりするにしても殺気に反応して咄嗟に殺しにかかるとか、下手すると族滅もあり得る不敬である。
「もうマスターとは呼ばないのね」
無様に取り乱して跪く私を嗤いながら、何を思ったか夜着のまま帝都の工房より遙か遠方の荒ら屋――失礼な物言いだが、貴種からすれば名主殿の家でも荒ら屋だ――に現れた元雇用主は、別れた時から何も変わらぬ艶姿のままで適当な椅子に腰を降ろす。
「さて……久しいわね、エーリヒ。あれ、久しいでよかったのかしら?」
「……ええ、三年ですので。我々の基準では十分お久しゅうございます、ウビオルム伯」
「面倒だけど人付き合いをしていると感覚が狂うのよね。先週顔を合わせただけなのにご無沙汰しておりますという者もいれば、初見の時から二年空いても気にしない同種族もいるもので神経使いっぱなしよ」
貴族なんてやるもんじゃないわ、と彼女は組んだ膝に肘を乗せて頬杖を突き、物憂げに溜息を溢した。
ふっと手に現れるのは、螺鈿の細工が施された黒い煙管。既に煙が燻るそれを咥えて、鼻を心地好く抜けて行く薄荷の香りの煙が吐き出される。
「ご趣味が変わられましたか?」
「ちょっとね。魔力賦活に特化した調合にしてあるのよ。最近忙しくてたまらないわ」
ぷかりぷかりと煙を吐いた後、徐に彼女は私に煙管の吸い口を向けてきた。
何事かと首を傾げると、吸うように無言で促される。
関節キス、などと稚児のような事は言うまい。むしろ、他ならぬ彼女の愛用品であった煙管を今も使っているのだ。先ほどまで唇が触れていようが、最早気にはならぬ。
しかし、これも丁稚根性というべきか。吸えと言われれば理由も問わず、何が入っているかも分からぬ怪しい煙草を口にするのに躊躇わないとは。長命種とヒト種では身体の構造も内蔵の性能も違うから、同じ薬でも全く同じ効果が得られる訳でもなし。
況してや毒になる可能性の方が高いのに、不審に思いこそすれ不安を覚えないあたり、私もよっぽどだな。
まぁ、付き合いの長さと経験則というのもあるか。この人は私の体を社会的には直ぐ売るが、実験だの何だの言ってヤベー薬を飲ませてきたり、魔法を掛けてくることは一度もなかったからな。
不思議と甘い吸い口に唇を被せて煙を吸い込めば、一瞬咽せそうになるほど強い薄荷の刺激が口と言わず喉と言わず全身を駆け抜け、遂には脳味噌を突き抜けて頭頂から抜けて行くような錯覚を覚えた。
同時に感じるのは枯れ果ててひび割れていた魔力の貯蔵庫に微かな潤いが持たされる感覚。体の何処と明確に指示することは難しいが、確実にあると分かる魔力の貯蔵庫に僅かずつながら瑞々しい物が溢れているのが分かる。
「……相当強いですね。かなりお疲れかと」
「まぁね。長命種でも日に一服にしておいた方が良い代物よ」
それを呑んだ方がいい顔色しているのもどうかと思うけれど、と言って彼女は私の手から煙管をもぎ取り、代わりに手品がちゃちに見える手際で袋を一つ残していく。つい先ほどまで手に何も持っていなかったはずの彼女から手渡された物は、手触りからして中に細かく砕いた煙草葉が入っていると分かる。
「謹んで頂戴いたします」
「容量には気を付けること……さて、では囀ってみなさいな元従僕。元主人を呼びつける意味、忘れるほど腑抜けていないでしょうね?」
含みがたっぷりの笑みに「来たのはアンタだろ」と軽口を返さなかったのは、やはり私も三年間で外面が更に良くなったからか。それとも三つ子の魂百までの典型として、かつてとの枕詞がつこうが主に不遜を働けなかったからか。
理由はどうあれ心中穏やかにはいられまいし、考えることを止めて素直に今受けている仕事の話を切り出した。
可能な限り端的に話を纏めて話すと、依頼主との関係性や敵対した相手の特徴、これまでの経緯など諸処で要訣を掴んだ質問が飛んでくる。
そして何より恐ろしいのは、話が進むに連れてニヤニヤとした毎度の笑みが強くなっていくことだ。
今日、アグリッピナ氏に私信を寄越すに至った段まで話し終えると、彼女は遂に笑いを堪えかね、腹を抱えて大笑しはじめる。
ああ、うん、知ってたよ、そういう人だって。他人の人生に物語性を見出し、四苦八苦して悶えている様を見て喜ぶ悪い性癖を持っていることくらい、仕えて三日としない内から分かっていたとも。
だとしても、久方ぶりに会うと外道成分の急速上昇に脳が過負荷を起こしそうだ。
「いやはや、本当に奇縁の持ち主ね。黙っていれば危難が上から降ってきて、走り出せば真正面からぶつかる運命なんて、余程試錬神の寵愛が篤くなければ得られないわよ。貴方、坂の手前で何か変な事でも祈ってないでしょうね?」
「しませんよ、そんな月に七難八苦を祈るような真似……」
「ん? それどこの民話? それとも潔斎派か何かの儀式?」
東の方にいた不屈の英雄の話ですとすっとぼけつつ、此方にも似たような話があったなと思い出す。試錬神の神体たる坂や峻険な階段に祈りを捧げ武勲を磨く場を求める遊歴の騎士、そんな構図が物語に幾つか出てくるが、被虐趣味者でもあるまいて斯様に危険な真似を喜んでする筈がなかろう。
「どうあれ、いつだって良い場所に居るわねぇ」
「……楽しんで頂けて幸いに御座います、ウビオルム伯。では、笑った分のお代はいただけると考えても?」
「ええ、ええ、結構結構。貴方になら教えて上げましょう、この西方にて渦巻いている策謀を。知りたくて堪らない人間がごまんといるのに、全容を片手の指ほどしかしか知らない中央の毒を」
煙管を左右に振り、鷹揚に笑声を響かせてアグリッピナ氏は足を組み直した。この段に至れば場の危険度が粘性すら感じるほどに高まって、最早そのおみ足の間が見えそうになっていることさえ気にならないほど。
強い魔力賦活の煙が吐き出され、続いて恐ろしい話が洪水のように始まった。
「事の発端はそうね……やっぱり今上帝の即位からかしら」
「無血帝がですか?」
数年前、アグリッピナ氏の教授昇進と時を同じくして、選帝侯の認可を受けて先帝より任期終了前に帝位を禅譲された無血帝ことマルティンⅠ世は、以前に三期四五年を経験した大公でありエールストライヒの血脈に多い大戦を起こしたことのない皇帝だ。
吸血種が無血帝とはこれ如何に、と少し笑い所がある異名なれど、そんな名前が付くには相応の理由がある。
私も帝都に居る限りは現皇帝の業績くらいは知っておかねばな、と歴史書を借りて過去を紐解いたことがある。その時は無血帝なる異名が何の捻りもなしに付けられたのかと驚いたものだ。
彼は過去から優れていた下水インフラを更に一段高い領域に引き上げ、統治上の上水道・下水道整備のふんわりした部分を明文化して安定させ、今も都市警邏などで重宝される三頭猟犬――初見時の驚きも今や懐かしい――を普及させるなど魔導師としても優れた業績を残している。
特に素晴らしいのは異名の由来ともなる、四五年間に渡る治世において一度たりとも帝国が公式に戦役と記す規模の戦争が国内外共に無かったことか。
帝国では領主同士の小競り合いを含め、農民を兵隊に取り、尚且つ双方五〇〇人を超える戦陣を張る戦を戦役として記録すると法によって定めている。それもこれも帝国が封建制の中に古い主従制を含む制度をしており、軍権は領主が握るという独立性を有することによる。
一般的に帝国と言われればトップダウン制の皇帝が絶対的な権力を持ち、全ての軍を統制する中央集権国家が想像しやすいが、それらは後世地球における物語上の“悪の帝国”によって醸造された観念であり、中世初期から盛期に近い空気が漂う今生においては全く異なる。
神聖ローマの諸侯の如く、主君の主君は別に俺の主君じゃねぇし、とまではいかないが、自身の主君を飛び越えた命令に否を唱える権利――あくまで権利止まり――を持っているだけあって地方の独立気風は極めて高い。
いや、そもそもが帝国を名乗っているが前提としてライン三重帝国そのものの構造が連邦制に近いのである。
つまり、領主の間でも退けぬ事態ともなれば、軍を挙げての殺し合いというのが最終的な選択肢に含まれる世界なのだ。
にもかかわらず、一度も戦役規模の戦争を起こさない国内政治の妙は素晴らしいという評価でさえ足りぬ神がかった物がある。
親の目が家事で逸れる度に戸棚に忍び寄っては焼き菓子の缶をくすねようとする子供の如く、地方領主や小貴族は自己の利権獲得に余念がない。時に小川の取水権を巡って騎士同士が剣を抜き、粉ひき所の新規建造云々でもめて貴種達が配下に軍を挙げさせる。
それがたまりにたまり、行き着いた先が領主による徴兵と会戦であるが、やっていることは鎌倉の武家とあまり変わりない所がなんとも。
斯様な連中を四五年も大人しくさせていたお人が何故? と首を傾げれば、実に滑稽な生物を見るように元雇用主は口元を隠しもせず笑った。あれはヒトが自分の尾を必死に追いかけている犬を見ているのと同じ目だな。
「割れた酒杯を掲げる連中に真っ当な人道主義者がいるなんて、狼が突然に子犬を産むよりありえないことでしょうよ」
「……色々ご存じで? 勿論私だって帝室の手が入った歴史書を一から十まで間に受けるようなことはしませんが、複数の書物に書かれていたのである程度の信憑性は担保されていたと思っていたのですが」
「歴史には裏があるのよ。同じ天を頂くこと能わず、と民草にまで知られる不仲極まる選帝侯家が、数年に一度酒を囲んで胃痛に文句を言いつつどんちゃん騒ぎする事実があるように」
その笑みを言葉にするなら何というのであろうか。薄ら暗く、形は整っているのに恐ろしく濁った様は背筋を氷の羽箒で撫で上げていくようで落ち着かない。気品があるのに“にちゃぁ”とでも擬音語を背景に書き込んでやりたくなる顔を私は知っている。
今まで何度も見てきた。
エリザが半妖精であると教えた時。私に初めて魔法を教えた時。魔物化した巨鬼が陣取る洋館に突撃させた時……枚挙に暇が無い。両手足の指を足してそれを倍にして漸く足るかという程に。
私はきっと、多分、確実に今から碌でもないことを聞かされる。
そしてそれは、とても役に立ち聞き逃してはならないことだ。
だが同時に、首まで抜け出せぬ泥沼に浸ることにも繋がる。
これは単なる気のせいとか経験則に基づく予感なんてものじゃない。
ちょっとした予言というやつだ…………。
【Tips】戦役。ライン三重帝国における歴史上戦争区分の一つ。非徴兵小規模の紛争、徴兵はあれど規模の少ない役の上に位置する。歴史書においての記述のみならず、領主間での懲罰や賠償、及び解決手法に関する法制定の基準として制定された。
文章を盛るのは得意だけど削るのは苦手な私が書籍化作業をしていると、重曹を突っ込んだ見たいにブワッと増えることがあって困る。
原文が一話五千文字だったのが、さぁ次の一話を挿入……と思って文字量を見ると四千文字ばかり増えたりしている不思議。上下巻編成にしてもらいましたが、さて何頁まで膨れ上がるか。