青年期 十八歳の晩春 四〇
後五分早ければ、と悔いることは人生の中で幾らでもあるが、この悔いは生涯で忘れられない後悔の一つとして永遠に残るだろう。
間に合ったと見ることもできるが、間に合わなかったと思うのが私なのだ。
騎士を片付けた後、駆けつけてくれた面々の手を借りて捕虜を一箇所に拘留し、馬を七頭捕まえることに成功していた。人を乗せて走れる程度に落ち着いた馬を選んだところ半数以下に減ってしまったが、鍛えられた軍馬であると考えれば十分過ぎる数だ。
馬に乗れる者に騎兵から剥いだ胸甲と兜、そして騎兵槍を回収させた後に避難所に駆け戻った。流石にそのまま荘の男衆を駆り出したりはしないさ。農耕馬を扱ったことはあるやもしれんが、騎兵が突撃時に行う襲歩に耐えられるとは思わないからな。
剣友会や自警団の乗馬を得手とする面子を集めて即席の騎兵隊を編制する。カストルとポリュデウケスを使った乗馬訓練も時折行っていた為、乗れる者は存外多く編成に苦労はなかった。いざとなれば御者の代わりに護衛対象の馬車を扱う必要もあろうと思って実施した訓練だが、よもやこんな所で役に立とうとは。
可能な限り素早く兵装を整え、後背から敵を蹴散らすべくやってきたつもりであるが、それでも遅かった。
倒れた者が居る、傷ついた者が居る、動かなくなってしまった彼は死んでしまったのだろう。
戦う為に集まった彼等が死んだ事に対し、何故死んだかなど愚かな事を問いはするまい。
だとしても、だとしてもだ。私という愚か者は考えてしまうのである。
あと五分、早く着いていればと。
味方に突撃を報せるべく、騎士が持ってきていた角笛を吹き鳴らした。騎兵の突撃発起の合図を高らかと知らしめる、どこまでも届く妙なる咆哮が夜空に染み入るようだ。
敵味方共に動きが止まり、全ての顔がこちらを見るのが分かった。
かなり危ない所であった。味方は退くつもりなど無かったのか頑強に抵抗し、荘の入り口ですり潰されかけている。敵は食いつかれた前衛を捨てて後衛を再編成し、疲れ果てた相手を一揉みにする準備を終えつつあった。
間に合ったともいえる。到着が後三分遅ければ、敵は仕上げの突撃を終えて崩れた戦列を簡単に調理していただろう。殻を割られた大海老の身を丁寧にほじくり出すように。
角笛の音を聞くと体が温かくなったような気がした。これにも何らかの魔法が掛けられているようだが、今となっては些末なことだ。
我々は既に詰めの一手を打った。後はもう、始末をつけるだけである。
剣を抜き放つ。私の願いに応え、馬上で振りやすい緩やかな弧を描く半曲剣に装いを変えた渇望の剣を。脳髄を削り、その削り滓で脳幹に愛を象眼していく狂った叫びは一日に何度も振って貰える奇貨への喜びを表しているのか。
「吶喊!!」
号令に従って六騎の騎兵が私に付き従った。馬蹄が地面を掘り返し、機能を落とした地雷原の上を鼻息も荒く駆けてゆく悍馬達。並んで騎兵槍を突き出し、その突進力と馬本来の重量に任せた踏み荒らしの一撃を見舞うべく猛進する。
敵の反応は術式によって動く機械の精緻さが喪われたかの如く緩慢である。
相対する敵、側面に新たに現れた敵、その何れに向かって陣形を変えるべきか考えあぐねているような鈍さ。
「突けぇ! 集中させるな! 考える時間を奢ってやるんじゃねぇ!!」
折れた愛剣を投げ捨てたジークフリートが手近な槍を拾い上げて攻撃を続けている。更に敵は私達への対応に注力することが出来ず、分離していた後方の陣さえ乱れてきた。
なるほど、敵は動死体の操作に対する玄人であるが、将としては付け焼き刃、あるいは“勝ち戦”にのみ慣れた半端者でもあったか。
この段階で更に完璧に対応しようとして迷うのは下策も下策だ。
そもそも詰んでいる。騎兵突撃は長槍を携えた密集陣が発達したため戦場での優位を喪っていったが、高々十と少しの兵士が間接射撃の援護を受けず方陣も組まないで止められるような代物ではない。
快速の常用馬と比すれば脚が短くずんぐりとした軍馬種の重量は半トンを軽く超え、そこに具足を纏わせ、更に重武装の人間を乗せているのだ。推進力と重量が合わされば自動車事故めいた破壊力が発生し、タイヤよりおっかない馬蹄の踏みつけも相まって大凡全ての人類を殺傷し得る。
ならば敵は何をすべきだったかと言えば、最早これまでと敵の損害を増やすべく全てを擲って歩兵の横列へ食らい付くべきだったのだ。混戦となれば我々も突撃を断念せざるを得ず、下馬しての戦闘を強いられることになったから。
もしくは受け止められないまでも騎兵を数騎でも殺せれば上等と、腰を据えて薄くとも槍衾を作るべきだった。
もう勝ちはない。そして降伏もできないなら――そも、する価値もない――後は出血を強いる位しかできることはない。
にもかかわらず欲張った。まだ盛り返せるのではと陣形の変更を躊躇った。
残された僅かな時間、決定的大敗を大敗に収めるための時間は足並みを揃えた蹄鉄の下で挽肉となった。
盛大に揺れる馬上の恐怖を戦意へ変換する歓声と共に。
盾が砕かれ、人体が軽く吹き飛び、振り下ろされた剣や騎兵槍の舳先に掛かって四肢が飛ぶ。横列が盾を放棄して乱戦に持ち込み、剣が僅かに残った残党を一息に解体し尽くした。
歩兵という金床に振り下ろされる騎兵の槌によって生み出された酸鼻極まる光景が瞬く間に拡大し、踏み荒らされた亡骸が泥に混じって区別が付かなくなり、澱んだ死血の悪臭が立ちこめる。
ただの一度、騎兵が好機を突くだけで全てが引っ繰り返る。火砲と滑腔銃が発展した近大でも生き残り続けた兵科の持つ恐ろしいまでの爆発力の面目躍如。
勝ったのは我ら、挫かれたのは敵。
されど、私は悔いる。後五分早ければと。それだけがいつまでも拭えないままに。
突撃の戦果は絶大であったが、被害が出なかった訳ではない。最期の最期には再編中だった後列も覚悟を決めたのか突撃に抵抗を試み、槍の刺突で騎馬が二頭倒れた。一頭はかすり傷に驚いて転げて騎手を投げ出しただけだが、もう一頭は起き上がれずに藻掻いており長くないと分かる。
幸いにも騎手に死者は無かった。それでも乗騎と共に倒れた二人、一人は気絶して呻いているし、もう一人は受け身にしくじったのか左前腕部が奇妙な方向を向き、更に血が滲んでいることからして開放骨折しているようだ。
死者は全体でも四から五名……倍以上の敵を相手取った結果として見れば大勝利として祝杯でも挙げたくなる戦果比なれど、軍人ではなく少数にて活動する冒険者として見れば余りに痛い。
我が身の不明を恥じることしかできない損害だ。一党一つが壊滅したに等しい人死に、それに見合うだけの戦果を上げたとは、とてもではないが胸を張って言えない。
いいや、今は能力不足を悔いている段階ではないな。
「まだだ! まだ終わっていない!!」
勝利の歓呼に武器を突き上げている配下に声を掛け、剣を掲げ注目を集める。
「追撃する! 馬に乗れる者! 一頭空いている! 余力がある者は続け!」
「つ、追撃!? 旦那、追撃っつったってもう……」
騎兵として共に突撃したエタンが狼狽しているが、私は剣を夜陰に沈んだ森へ向けて叫ぶ。
「死体を操る者は近くに居る! 突撃の寸前、狼狽して動きを乱れさせた! 術式の指揮に任せた動きでは無い! ここで根を狩る! 騎兵は私に続け! 夜の森を駆ける自信がなくば、他の者に代わってもいい!!」
絶望から引っ繰り返った勝利の喜びに水を差されて当惑するのは分かるさ。私だって、この騎兵突撃が最終幕だと思っていたとも。
まさか、ここから更に最終幕を見せてくるなんて、GMちょっと加減しろという話だ。もし古巣の卓であったなら、GMの靴にD4を仕込んで帰るところだぞ。
「手綱寄越せ!」
がらんと大きな音がする。見れば兜を強引に脱いだジークフリートが血染めの顔を清めようともせず、乗り手を喪った馬の手綱を奪おうとしているではないか。
最期の一押しの乱戦でも相当に無茶をしたのか、鎧を纏っていない手足は裂傷と刺し傷にまみれており致命傷一歩手前といった損耗具合だ。
「ジークフリート、その傷では……」
「うるせぇ! 黙ってろ! ここまでやられて引っ込んでられるか!!」
手綱をひったくると、彼は腰の物入れから薬瓶を一つ取りだして頭から被り、更に一つ取りだして飲み干して見せた。どちらもカーヤ嬢が作った癒やしの魔法薬であるが、彼女の薬は元々体が持つ再生力を底上げするものなので、短時間で大量に呷ればキツい副作用に襲われる。
虚脱感、飢餓、不眠、そして成長痛に近い酷い筋肉痛。
一日に二服以上は使うなと言われたそれを一気に二瓶呷るのは明らかな過剰摂取である。
故に、お前こそ黙って大人しくしてろとは言えなくなった。
ここまでした決意を無碍にされた男がどうなるか、私も男だから分かるのだ。後に残るのがもう完全な決別か殺し合いしかないことが。
「くそ、この頑固者が。分かった、ついて来い」
「言われねぇでも行く! 説明は後で良い! 先導しろ! そんで、そのクソ野郎を俺に殺させろ!!」
相当気が立っており、付いてこさせるのが正解かと思えるほどに荒々しいジークフリートに周りが返って冷静になってしまった。これはアレだな、現場に残して後始末させる方が不安だな。
「カーヤ嬢、すまないが此処を任せる」
「ええ、ご安心を頭目殿。手が及ぶ限り癒やします」
後の事はカーヤ嬢に任せるとしよう。ともすれば彼女は私より人望があるからな。戦の後始末は上手く終えてくれるはず。
……しかし、彼女も随分とキマッているな。直ぐ取り出せる魔法薬の帯に納まった、危険を意味する赤い顔料で印を付けた瓶。
あれは地雷の箱が足りなかったため、火炎瓶に仕立てた油脂焼夷術式の触媒ではないか。
逃げられぬと悟ったなら戦陣と運命を共にし、全てを荼毘に付すつもりだったか。彼女自身の術式で拡充したならば、数十メートルを焼き払うこともできるからな。
間に合った、と見るべき要素が増えるに連れて安堵が積み上がる。
そして、それに安心している自分への苛立ちがそれ以上に沸騰した。
ジークフリート、君も大概キレているが、私もとっくに臨界なんだよ。
「槍を捨てろ! 森では役に立たん! 水を飲んでいけ! 逃さぬようここから先は一歩も止まらんぞ! 誰ぞ! 兜にでも何でも良いから水を入れて馬に飲ませてやってくれ!!」
追撃の準備を整えつつ、今まで切らなかった札を遠慮無く切っていく。
「ウルスラ、ロロット」
小声で呼べば、もぞりとポーチが震えた。蓋を開ければ肌身離さず持ち歩いている薔薇が綻び、銀色の髪が平素よりも艶やかなウルスラが現れる。綻んだ花弁の縁に上体を預けた彼女は、髪を弄びながら待っていましたと言わんばかりに微笑んだ。
首筋を撫でていく心地好い風は、自然に吹いた夜風ではない。兜を被っているため髪に身を埋めることができぬロロットが、その代わりに体を撫でていったのだ。
今日は月が欠けている。それも新月に近い暗い月。隠の月は満ちるのを待つばかりの真円に近づきつつある形で口をぽっかりと開けている。
つまり妖精達は絶好調ということだ。
「はぁい、愛しの君。お呼びかしら」
「うぅ~、鉄の臭いがする~ふわふわしてなーい……」
ご機嫌なウルスラと髪に触れなくて不機嫌なロロットという対照の二人であるが、お願いをすれば快く聞き届けてくれた。
ロロットに気配を探ってもらったならば、周囲一帯には我々の気配しかないこと。
それから森の中で蠢く少人数の集団が察知された。
「なんだかきもちわるい~ヒトの形だけどぉ、薬くさいぃ~」
ありがとう、これで確定だな。
幾つか懸念していたのだ。ここまで最良の条件かつ時期を見計らって襲撃できるのは、荘に内通者がいるか……“使役者本人”が荘に潜んでいるのではと。
疑わしい人間は幾人か居たが、今は置いておこう。実際の所、この懸念は過去に古巣でやられたことがあるトラウマに起因する被害妄想めいた疑念であったから。
流石の私だって、あの規模の動死体を操れる魔法使い、もしくはその端末が居たら気付くさ。対魔導戦闘はアグリッピナ氏の下に居た頃、比喩でもなんでもなく反吐が出るほどやらされたのだ。妖しい魔力の波長が漂っていたなら流石に分かる。
万一私の感知を抜けてくるような達人が潜んでいればと石橋を叩いた上で更に鉄骨補強するような事を考えていたのだが、やはり杞憂であったと分かって良かった。
胸を撫で下ろしたい気分を収めつつ、ウルスラに祝福を頼めば彼女は瞼に唇を落としていった。
すると巨鬼の洋館に立ち入った時と同じように、暗さが一切の障壁とならぬ明瞭な視界が広がる。激しい運動に流れる馬の汗も、激闘に付かれてへたり込む配下の目鼻立ちさえ分かるほどの視界は、暗視の術式であっても敵わぬほどの鮮明さを与えてくれた。
これで照明弾の明かりも届かない森を早掛けしても怖くない。仲間は私の背を追えば安全なのだから、尚のこと楽になった。
馬の影に隠れて行った一瞬の逢瀬で不安要素を全て潰せた。
後は突っ込んで殺すだけだ。
殺意は十分過ぎる程にある。恨みは汲んでも汲んでも尽きず、売れば帝国を買えるほどの財が築けるほどに積み上がった。
「旦那……」
馬が水を飲むのを待つ間、並べられた亡骸の一団に近づく。
それは始末を待って蠢く動死体の群れではない。戦いに傷つき、果てた配下達の姿だ。
手透きの動ける者が死体の中に放置して置くには忍びないと思ったのだろう。カーヤ嬢の手によって目を伏せられ、手を胸に組んで横たわる二人。
「……死に様は後で聞かせてくれ」
言って跪き、妖精のナイフを取りだした。兜を取り払われた彼等の顔を忘れぬように見つめ、そして髪を一房切り取る。切り取った髪の房を丁寧に結わえ、腰の物入れにしまっていた懐紙で挟んで懐に呑んだ。
こんなもの感傷に過ぎないと分かっている。分かっているが、どうしても一緒に殺しに行きたかったのだ。
その近く、手傷が深く起き上がれない者も五名居る。皆全身に傷を負い、これ以上無い戦いを見せてくれた勇士である。
「皆、良く戦ってくれた」
一人ずつ手を握って言葉をかけてゆくが、最早手すら握れぬ者もいる。特に容体が酷いマルタンは息が浅く、顔色は紙のように白い。
金を稼いで故郷に帰るのだと言っていた彼は、誓い合った小作農の娘の農地を自分で買い上げて夫婦となり、一族郎党纏めて自作農にしてやることを理想としていたな。夢が小さいと周りから笑われて、これ以上に男らしい夢があるかと激怒していたのを良く覚えている。
カーヤ嬢を見れば、彼女は沈痛に目を伏せて小さく頭を振った。
負傷を気にせず動き続けた結果、血を喪いすぎたか。如何に優れた魔法薬とはいえ、喪った大量の血を一気に回復させる手段はない。これをひっくり返せるのは、自身の命さえ擲って請願する奇跡くらいのものだ。
魔法は万能ではない。無理に血を注いでも作らせてもショックで死ぬ。死の定めをひっくり返せるような、指を一つ鳴らすだけで全ての悲劇を祓う本物の魔法は何処にもない。ましてや我々は体力が尽きる瞬間まで、万全の性能を発揮できる怪物でもないのだ。
横に並んでいる者達も、夜を越えられる者がどれだけいるか。
私は兜を脱ぎ、長い髪を手に取った。そして一握りの長さを斬り捨てると、それを夜風に散らす。
「手向けだ。足りぬだろうが、手付けと思って取っておけ」
報償は必ず家族に届けよう。仇の首もお前達の墓前に供えてやる。
今はこれで我慢してくれ…………。
【Tips】遺髪。痛む肉体を現地に埋葬し、代わりに腐敗せぬ髪を遺品と添えて遺族に届ける文化がある。髪に次いで荼毘に付した骨、歯、時に塩漬けにした心臓が選ばれる。
クライマックスだと言ったな? あれは嘘だ。
あれ? 言ってなかった? 言った? まぁいっか。




