青年期 十八歳の晩春 三十八
ジークフリートは子供の頃、十歳になる年長の少年を見て大人だと思い、何時か自分も大人になるのだと思った。
十歳になって年少の子の遊び相手をするようになって――思い返せば、悪ガキの大将の振る舞いだったので、面倒を見ていたとは過大な物言いだが――成人したかつての年長組を大人だと思っていた。
成人が近づく頃には結婚して子供が出来た者達を大人だと思い、荘を飛び出して冒険者になった時には先輩冒険者が皆大人に見えた。
そして、その都度思ったものだ。
自分も時が来れば、自動的に大人へ変わるのだろうと。
だが、何も変わらなかった。十八になり、戦場でも男としても童貞を切った今であっても、五つの洟垂れであった頃から大きく何かが変わったとは思わない。
思考形式も趣味も、食べ物の好みすら大きく変わらなかった。大人になれば美味くなると言われた麦酒も舌には苦く、一度興味を持って吹かしてみた煙草は煙たくて美味いとは到底思えなかった。
結局、図体はあの頃より大きくなったが、大人になったという実感はジークフリートには欠片も無かった。
「いいか! ビビるな! 矢玉はぜってぇ届かねぇ! テメェらの薬師を信じろ!」
「「「応!!」」」
追い風が吹いている。敵には向かい風となる突風は強く、ぱらぱらと飛来する矢や石の威力は力なく落ちていくばかり。着込みを貫いてくることはなかろうが、当たれば十分痛い代物に背を向けて演説を打つのは怖かった。
ジークフリートの前に居並ぶのは、あれから手透きとなった者が駆けつけて十五人にまで増えた小さな戦列。数倍にも達する敵に立ちはだからんとするには、行灯の火のように頼りない人数。
「心しろ! 俺らの後に壁はあるが、俺らの前に壁はねぇ! つまり、俺らが止めにゃあ駆り出された他の若い衆や動ける女子供が矢玉を浴びる訳だ!!」
「「「応!!」」」
盾だけは連携の為に形を揃えているものの、得物はバラバラ、急場ということもあって防具が万全ではない者も多く、況してや荘の自警団面子は実戦経験不足甚だしい。
それを加味しても冒険者という正面からのぶつかり合いにが不得手な兵科の横列は、あまりにも儚いとしか言い様がなかった。今、遠くで火柱が上がり生け贄の散兵が燃え上がって数が削られたとして、依然として倍以上の敵が居るのだから。
「親、嫁、餓鬼の顔を思い出せ! 思い出せたか!? いなきゃ何でもいい! 酒保の女郎でも街角で見惚れた誰かでも、フラれて悔しい思いをした相手でも!!」
「「「応!!」」」
立っている男達は毅然と振る舞おうとしているが、兜の合間より顔が引き攣っているのがよく分かった。既に実戦を経験し、敵の血で剣を染めたことのある剣友会の会員でもそうだ。むしろ股座より湯気を上げる奴がいないことを褒めてやりたいくらいである。
ジークフリートも声が情けない高音にならぬよう、腹から低く通る声を出すので精一杯だった。
彼は十八になっても大人になったとは思えなかった。子供の頃に漠然と想像した、知識に溢れて勇気があって、迷うようなこともなく、したいことに全力を注いで自信満々に生きている。そんな大人には近づけていない。
心根はあの頃のまま。寝床で親が寝かしつけるため話す英雄のお話や、荘にやって来る詩人の冒険譚に憧れた子供の頃と一緒だ。
それでも、大人のフリをしようという気概だけは身についた。
「俺らが退いたら、そいつらに冷たい死体の手が掛かると思え! 想像しろ! 守りたい奴がバラされて並べられるザマを! かっこ悪く退いたら、馬鹿面下げて情けなく戻ってきた俺達の前に晒されるのがそれだ! 納得できるか!」
帰ってくるのは否の合唱。嫌だ、ふざけんな、誰が認めるか、それぞれの言葉で万感の意を込めて、恐怖を戦意に変換するべく喉を震わせる。
金の髪が何時だか言っていた。時には手前がくたばるよりも、他人に死なれる方が辛いこともあるのが人間だと。
そこを突けば、人を格好良く死なせることが出来る。
「だったらやることをやれ! 腰を据えろ! 腹を括れ! 首は綺麗か!! 此処で退いたら死ぬまで悔いるぞ! しみったれた人生を送る可能性に唾ぁかけろ!」
頭目とは思えば嫌な仕事だよ、と煙を吐くいけ好かない金髪の横顔が、今は嫌に鮮明に思い出せた。ジークフリートは好む好まざるを問わず、この場に立つに及んで頭目の仕事をすると決意していた。
嫌な言葉だ。闘志を掻き立てると表現すれば聞こえはいいが、実質的には彼等の逃げ場を断っていることでもあるのだから。
彼の考える大人とは、そんなことをしないでも良い人種だった。自身から進んで痛みに立ち向かえる人間だった。
故にこうもしなければ立ち向かえない己を大人ではないと断じる。十八になって金を稼いで戦と女を知っても、頭の中身には寝床で冒険を夢見ていた五つの糞餓鬼が転がっている。
「何より、俺らはそこまで不利じゃねぇぞ!!」
向かい風に紛れて空を切る音。僅かに遅れ、天に目映い光の華が芽吹いた。
ジークフリートの幼馴染み、カーヤが夜なべして作った魔法薬。落下傘だとかいって襤褸布を必死に継ぎ当てて作っていた代物は、吹き上がる風を受けて地に墜ちず長く天に留まり続ける。地に昼間と見紛う目映い光を注ぎながら。
二つ三つと上がるそれに戦列の男達は歓声を上げた。戦場の暗闇は恐怖を増幅し、同時に暗視系の技能を持たぬ種にとっては酷く不利に働く。それが一息に打ち払われ、圧倒的な不利が五分にまで持ってこられたのだ。
次いで投擲された魔法薬は、空堀に飛び込んだかと思えば激しく燃え上がり始めた。今も踏んだ散兵を火葬している派手な炎ほどの火勢はないが、燃え上がったそれは土の上でも中々消えぬ。
カーヤが自身の考えで作った、長く燃える脂の魔法薬だ。一瞬の激烈な炎をもたらす金の髪の触媒から発想を得た彼女は、長く燃える炎の壁で敵の侵攻を阻めるのではと考えた。
空堀はどうせ踏み越えられてしまうが、もしもそこで炎が燃え続けていたらどうだろうか。如何に動死体であろうと空堀を越えるのには時間が掛かり、着ている服や武具も火に炙られれば劣化し、同時に肉体も焦げて衰える。
物騒な薬ばかり得意になっていくと人知れず嘆く彼女が、珍しく自発的に破壊の手段を求めた理由は語るまでもなかろう。
移動式の馬防柵、燃え上がる空堀に道は制限されて狭まっている。一度に当たれる数は少なく、数の強みを十全に活かしきることはできなくなった。
「見ろ! 一度に襲いかかってくる数はぐっと減ったぞ! ここまで気ぃ使って貰ってイモ引いたなら、テメェら今から玉切り落としちまえ! そんなヘタレの種なんぞ、女も嫌がるだろうから使い道もねぇだろ!」
ここに来て下品な発破に男衆が初めて心の底から笑った。下らない笑いも恐怖を追い払うのに丁度良いと彼等も分かっているのだ。
「来るぞ来るぞ! 盾を組め! 槍ぃ立てろ! 此処が俺らの血泥通りだ! 俺や、お前らがモッテンハイムのクナップシュタイン卿になるんだ!」
仕上げの一声は、かつての英雄に自身を被せることで微かな名誉欲を擽ること。
手槍を掲げ、横列を組んで槍を伸ばした男達の穂先にぶつけて回る。勇ましい鉄の音が少しでも彼等の、そして自分の恐怖を誤魔化してくれることを祈ってジークフリートは声を張る。
「格好良く行こうぜ! この調子なら詩の一つじゃねぇ、祭りになるぞ! 童歌になって数百年先にも近所の餓鬼共が俺らの事を謡う! 覚悟は良いな野郎共!!」
「「「応!!」」」
盾と長靴が勇ましく地を打ち鳴らす。間際に迫った死を恐れぬ、元より忘れた軍勢にも怯まぬ気概が築かれた。
ジークフリートは憧れた大人になっていないと思っていた。
此処に立ち続けている理由は一つ。初陣の時、金の髪の馬、その尻で色々垂れ流していた時と変わらない。
此処で退いたら格好悪いという、自分でも余りに安っぽく薄っぺらいと思う矜恃のみ。
ただ、誰の目にも彼は頼りがいのある指揮官として映った。荘の安寧のため、自らの身を前に出し、恐怖を押し殺して戦う立派な冒険者。
世の人は、その有様をして大人というのである…………。
【Tips】照明弾。轟音と閃光の術式を流用した光源術式。外でしか使えないものの広範囲を長時間照らせるため、夜襲に備えてエーリヒがカーヤに制作を依頼した物。魔法薬本体よりも落下傘の作成に彼女は手間取っていた。
義を見てせざるは勇無きなり。東方渡りの格言を知る男達は、金の髪を見捨てるつもりはさらさらなかった。
エタンはそもそも金の髪を話の種にと一目見に行き、軽くノされた時に腕前に惚れ込んで剣友会に加わった男である。
カーステンは冒険者として仲間内で軽んじられることに耐えかねて古巣の一党を抜け、力を得ようと剣友会に身を寄せた。
どちらにも言えることは、加盟する理由こそ些末なれど、彼等は本心で“金の髪”の人柄に惚れ込んで居続けている。
正直に言えば、あの男はかなり癖の強い男である。
どこか女性的な細面は男として崇拝するには頼りないし、気障と感じる者が多い振る舞いも様になっているからこそ鼻につき、余程慕っていなければ舞台にでも立っているつもりかと軽口も叩きたくなるだろう。
だのに剣の腕は一級で、教える筋は良いと来た。
まるで父親のように直すべき所を一つずつ噛んで含める教え方も、自己評価の高い者にはさぞ不快であろう。何より一番腹が立つのは、それが全く以て的を射ている……自らの身を以てケチの付けようが無いほどど真ん中を射貫いてくることであった。
鍛錬に忠実であれば、先週の自分を訳も無く斬り伏せる腕前になれる。故に分かるのだ。彼が熱心に自分自身を思って教えを授けてくれていると。
あの男は突拍子も無いことを平然とするし、常人に出来ぬ事をしれっとやらかして何でもなさそうに振る舞う困った所も多いが、尊敬すべき冒険者であり剣士である。
剣友会にも一定数、内心では金の髪を好いていない者も居る。中には無粋にもそれを指摘した者さえいたが、当の頭目は笑って許している。
彼曰く、剣友会は“金の髪のエーリヒ”を偶像として崇める集団ではない。何なら斬りかかってくるくらいの気概が必要だとのこと。
これくらいの人物なので、剣友会は成り立っているのであろう。好いていない者であっても、彼を尊敬していない者はただの一人もいないのだから。
ともあれ、エタンもカーステンもそんな金の髪の腕前を信頼していたが、かといって自身の頭目が多勢の騎兵に囲まれて足止めしている状況で引っ込んで居られるほど大人しい訳がない。
剣によって身を立てる事を志し、荘をでた男達の気概を軽く見過ぎであった。
また、急場を助けられた男達も同様の義憤を覚えた。金貨を積み上げたとは言え、金に換えようのない自分の命を絶死の卓へ場代として放る金の髪を見て、彼等も黙ってはいられなくなったのだ。
剣友会の冒険者と若い男衆は十分に距離を稼ぐと、女子供老人を逃して来た道をとって返す。自分達の頭目を、そして命の恩人を一人で戦わせないために。
後の事も考えぬ疾走の後、当面したのは現実に騙くらかされているかのような光景。
乗り手を喪って逃げる馬、諸処で倒れ伏し呻く野盗。
そして横列を組む兵士の群れへ躍りかかる“担い手を持たぬ剣の群れ”。
具合が悪い時に見る夢のような光景であった。整合性がなく現実性が薄くて恐ろしいが、目の離せぬ光景。
剣が美しく舞い踊り敵を切り刻んでいく。指や手が飛び、得物がへし折られ、刃によって地面に縫い付けられる。工夫も無く振り回されるのではなく、剣の一本一本に見えぬ担い手がいるかのような振る舞いに剣友会の二人は隠しようも無い頭目の影を見た。
斯様な地獄を抜け出して襲いかかるは重厚な甲冑を纏った大柄な騎士。これでもかと放たれる威圧感、そして壁が迫るような迫力に男達は息を呑む。
誰にでも、鍛錬など積んでいない荘民でさえ強者だと分かる威容に身が震えた。
全身を板金鎧で覆った騎士は剣士にとって鬼門だ。斬り伏せることは困難であり、弱点である隙間を狙われぬよう敵も意識するため弱点が極めて少ない。さりとて持ち前の重量もあって投げや関節技を繰り出すことも難しく、下手をすればのし掛かられて重量で潰されてしまう。
牛躯人と小鬼は自分であれば、あの財力という名の暴力によって武装した敵をどう相手取るか悩んだ。
精々、足を引っ掛けるなどして転倒を狙い、その隙に関節を斬るくらいしか思いつかなかった。ないしは軽装の利点を選び、相手を振り回して体力を消耗させて隙を作る位であるが……あろうことか金の髪は真正面から斬り結びに掛かった。
彼等がこの光景を悪い夢のようだと感じた根源、夜陰より尚暗い呻きを上げる剣を掲げて。
世界が軋る叫び声は人語ではないが、脳に直接響く異音から意味だけは伝わってくることが悍ましい。
異形の剣が歌い上げるは深い情愛。臥所の睦言が温く感じる熱い愛の歌は聞く者の正気を削る。
淡い月光の下、姿を隠した夜陰の神体の代わりを務めるが如く輝く金の髪と不気味な剣は、しかし妙に“似合い”に映った。
何事か言葉を交わしつつ斬り結ぶ両雄の技量は、一目で自身が及ばぬ領域にあると彼等に知らしめる。先ほどの想定など何の意味も成さず、甲冑の騎士は技量を駆使し弱点を潰して一刀にて敵を断つと確信できる。
もしも立ちはだかるのが自身であるならば、防御のために掲げた得物諸共に具足と着込みの護りを抜いて両断されよう。
しかし、斯様な必殺の一撃は金の髪を害することがない。剣の群れは淡々と主君の壁にならんと奮起する騎手達を斬り伏せ、目で追えぬほど素早い攻防の後に騎士は地に伏した。
剣友会の二人だけが辛うじて気がつけた。あの直視することさえ恐ろしい剣が、いつの間にやら金の髪が愛用する剣と身幅を合わせていたことを。
あの剣は戦いの最中、主の希望に応じて姿を変えるのだ。
理解した瞬間、剣の悍ましさ以上の恐怖に唾を飲み込まずにいられなくなる。ただの唾でさえ鉛のように重く苦く感じられる感覚は、剣士としてあれほどに悪辣な物はそうないという実感が形になった物。
もしも際の際を擦る攻防の刹那、得物が身幅を変えて伸びたなら、もしくは縮んだならば。
命のやりとりのため、効率的に剣を振るう事を学ぶ者達にとって絶望に等しい。
例えるなら紙と石と鋏の手遊びで出した手を変えるようなインチキだ。当たらねば害が無い剣先を薄紙一枚で避けて隙を作らんとする剣士全ての悪夢ではないか。
いや、ただ剣の身幅を変えるだけでは出来の悪い奇術でしかない。
真に恐ろしいのは、それを絶妙な機会に繰り出す感性と技量にこそある。
果たしてアレは人なのかと疑問を抱く。
この世に人間の似姿を取りながらも人類ならざる存在は数多居る。神々の使徒たる眷属、精霊の柱、この世と異界の淡いにて遊ぶ妖精。
きっと彼は、そんな類いのナニカであると思わされた。血が香る夜風の中に佇む姿は、到底同じ分類の生物とは思えぬ気配を纏っている。
背筋を凍らせる悪辣な所業に手を染めつつ、彼等も見たことの無い異形の剣を見せつけられようと……誰も金の髪に恐怖しなかった。
それは単なる彼が敵でなかったことへの安堵か、或いは常人には成し遂げられぬ大戦果への畏怖か。
ただ畏敬する。踊る剣の謎も、手にした名状しがたき剣の事も良い。
心配するということ事態が不敬であったのだと今更にして気付かされた彼等に金の髪は振り向いて笑った。
「……お前達、言い付けを聞いていなかったのか?」
何も言い返せずに姿勢を正せば、彼は笑みを綻ばせつつ剣を回して肩に担ぎ言う。
「まぁいいさ、やる気があるのは結構だ。もう一働きか二働きする気はあるか?」
唐突な誘いかけであったが、彼等は勿論と肯定する。
「なら結構。馬には乗れるな?」
すると何処からか馬が集まってくる。手綱が見えぬ何かに引っ張られており、興奮冷めやらぬ馬達は困惑しつつも何とか従っているようであった。
「最高の意趣返しを決めてやろうじゃないか。なぁ?」
甲冑を纏った精悍な馬の顔を撫でつつ満面の笑みを作る金の髪に、彼等はひょっとして下手な事を言ってしまったのではないかと遅ればせながらに気付くのであった…………。
【Tips】各地に人類の姿をとって降臨する神の化身、そしてその化身が成した落とし子の伝説は色濃く残る。
ジークフリート、堅実に全体バフを飛ばす。
昨日は所用で更新できず申し訳ありませんでした。




