青年期 十八歳の晩春 三十一
見張りという名目にて櫓の上に腰を降ろしていると、煙と阿呆はなんとやら、とは使い古されすぎて今更口にするのも馬鹿らしくなってくる。
事実、私は阿呆ではあることを否定しないとも。
何と言っても十年以上の付き合いとなり、冒険者として隣に立っても三年目、そしてその身を重ね合って二年になる相方が未だに分からない。
彼方の女と言って彼女ともするため、本質的に女と男が本心から理解し合うことはできないのかもしれない。それこそ、我が無二の友のような例外を除いては。
だとしても、自分の男が他の女と遊ぶことを許容する精神は、私には理解が及ばなかった。
夜、今日は気になった方々を見て回るので荘をお願いと言い残し、マルギットは何時もの二人を連れて出て行った。二人の斥候は去り際に連れて行かれる子犬のような目で私を見ていたものだ。
たまに愚痴を聞かされるからな。あの人と追走してると一切の誇りがへし折られて、時折どうしようもなく惨めになると。
まぁ、分からんでもないよ。客観的に見るのであれば、あれでいて成人しているのが嘘のような我が幼馴染みは、唇を落とす行為自体が罪のように感じられることもあるのだから。
我が身に直せば、二回りも下に見える童女に剣の腕でひけを取るようなものだ。実力を以てして語るのがこの界隈の常なれど、実際に起こってみれば彼等の気持ちが少しは理解できようか。
ただ、体のキレが付いていく度に上がるので、良い勉強になるじゃないとも思って行かせているのだけどね。
些か話がズレたが、そんな彼女は去り際、背筋に恋しい悪寒と囁きを残していった。
こんな晩、請うてくる女に独り寝をさせてはいけないと。
意味は分かるとも。
我々は荘を守った。しかし、恐怖まで完全に取り払えた訳ではない。
一度あれば二度もあるもの、本質的な解決ができていないなら恐怖は性質の悪い客と同じだ。帰って欲しいと、居ないものと思おうとしても寝穢く精神の隅っこに陣取り続けてくる。
その証明なのか、陽が落ちた荘であっても人の動く気配は絶えない。
避難所として扱われた集合住宅の中では、大勢が犇めいて不安な夜に焦れているのが感じ取れた。明日を憂いて言葉を交わし合う者や、怯える子供達を宥めようとする者が微かな月明かりに縋って起きている。
ああ、起きているのではない、眠れずにいるのだ。
私は早々に“戦う人間”となってしまったため、彼等の不安は分からない。普通であり平穏であった前世の感覚は既に遠く、手前にとって手前の命と周囲の安全は我が威を以て守るものとなっていたから。
前世の私ならば考えもするまいよ。選択肢の上の方、身の安全を守るために暴力が平然と入ってくる状況など。耽溺した物語や趣味と違って、どこまでも平和な世界であり、その選択肢が理性によって否定され続けてきた場所に生きていたのだから。
されど、もしも自身や自身の家族を十分に守る手立てを持たぬまま、今日の夜陰に蹲らねばならないのであれば、どれ程に恐ろしく頼りないことであろうか。
勝ちはした。ケチの付けようのない大勝利であった。
死者は荘民にも剣友会にも出なかったどころか、手傷一つ負った者は……あ、いたか、裸吊りにされていたクソ餓鬼を降ろしてやろうとした大人が、混乱した彼に顎を蹴り飛ばされて酷い目に遭ったとか聞いたな。
まぁ、とはいえ実質的には死傷者ゼロの快勝である。
しかし、まだ仕事は終わっていないのだとよく分からせられる。
不安の声に交じり、微かな軋みや嗚咽とも似た声も各所から零れている。恐怖から逃れるため、異性の温もりを求めての交合。空いた部屋、人気の少ない所で正気を保つべく行われる自棄のような交わいは、危難に瀕して次代を残そうとする人間の本能か。
嗤いはしないとも。私とて、修羅場を潜った後は昂ぶった相方と喰らい合うかのように互いを求めることがあるし。完璧な戦士としての像、浴びるような闘争の後にも沈着でいられるほど私の精神は老成していないということだ。
総計で五〇年も生きて情けないと言われればそこまでだが、まだまだ人間らしいところもあると笑って貰いたい所でもある。
なんやかやいって、戦うことを“怖い”と思わない所まではいっていない。
必要だからと恐怖を殺して突っ込めば、後は成り行きと勢いで精神が高揚していき、最初のそれが置き去りになる。
残るのは手前の性能を十全に発揮しきる悦び。魂にこびり付いた性質が愉悦に囀るのだ。
よかったな、お前のたたき出す実数値に周りは怯えているぞと。
よくないんだけどねぇ、テンションを上げすぎるのも。冷えに冷え、合理によってのみ立つ剣士の聖は未だ遠い。天上から哀れな荘を見守ってくださる夜陰の神と等しいくらいに。
「おやめなさい、手を痛めますよ」
それでも茫洋と天を眺めていようが、警戒の気は緩まない。
なにせ誰も見ていないのを良いことに、極限まで伸ばし、同時に薄めた<見えざる手>を周囲に張り巡らせているからだ。
私の魔力量では恒常的に張り巡らせることはできないし、隙も多いので――さりとて、不可視のはずのこれをどうやって幼馴染みはくぐり抜けてくるのか――万全とは言えないが、広範に伸びる触覚の探知機は大抵の接近を見逃さない。
櫓の下、梯子に手をかけようとしていた人影がびくりと跳ねるのが見えた。
きっと私を驚かせようとしていたのだろう。傍目には警戒という名目で、荘の外れの櫓に座り、ぼんやり煙草を燻らせているようにしか見えなんだだろうからな。
さて、お客人を待たせても悪いので、煙草を消して櫓から飛び降りた。小さな悲鳴は高い所から身を投げたようにしか見えなかったからだろうが、きちんと取っ掛かりを蹴るなり掴むなりして減速しているのでご安心めされよ。
着地と共に微かに巻き上がる土煙。多分、幼馴染みが見たら小さく溜息を溢すのだろう。小さな頃よりも雑になっていると。
とはいえ、これは仕方が無いのだ。幼い頃より上背も目方も増している。あの時から伸ばしていない<しのびあし>じゃ誤魔化しきれないものもある。小柄で体重が軽かった子供の時とは勝手が違うからな。
さて、自分が至らないのを嘆くのは後にしようか。
「夜中に出歩くのは感心いたしませんよ、お嬢様。特にこんな襲撃があった日の夜は」
まずは、こんな夜中に寝床を這い出した悪いお嬢様を叱るのが先だ。
櫓の下にいらっしゃったのは、暖かそうな夜着の上から大外套を羽織ったフィレネ嬢であった。声を掛ける前に見つけられて相当に慌ててしまったのか、手がぱたぱたと所在なさげに揺れている。
相対してみれば、彼女が何をしに来たのかはよく分かった。恥ずかしさを誤魔化そうと暴れる二本の主腕とは対照的に、副腕は大事な物を落とさぬよう強く籐の籠を抱きかかえているからだ。
「その、御夕飯をあまり召し上がっていらっしゃらなかったので……」
「お気遣い、誠に有り難く存じます。しかし、こんな夜にお供も無しに出歩くのは危険ですよ。それにまだ夜陰神の御手も冷たいのですから」
夜陰神の御手こと夜風は晩春であっても箱入りのご令嬢には堪えよう。家人にも秘密で出てきたのか、夜着の上に外套を羽織っただけでは尚更だ。
しかし、折角夜食を持ってきてくれたのであれば、無碍にはできまいて。
平素の私であれば籠を受け取り彼女を家まで送った後、近くで見張りをしている会員と分け合ったのだが……ふと脳裏に幼馴染みの言葉が残響する。
あれは、これを見越してのことであったのだろうか。
私はほんの数秒悩んだ後、手近の家人が避難して空いた家で待つように頼んだ。そろそろ交代の時間なのだ。
眠そうながら武装を整えてやってきた自警団の者と見張りを替わり、気配を殺してフィレネ嬢の待つ家へと入り込む。すると、彼女は夜食の準備を食卓に整え終えていた。
「ごめんなさい、簡単な物しか用意できなくて……」
「大変なご馳走ですよ」
謙遜が嫌味に聞こえる程しっかりした夜食であった。冷めても美味な粉屋風の焼き魚や付け合わせの白竜髭菜と玉菜の塩漬け。パンは平民には手が出づらい白パンであるし、最後の口直しに果実が幾つもあるのは金持ち特有の気遣いか。乳酪も良い物らしく、酒に合いそうな良い匂いがした。
私だけ良い物を食って配下に申し訳ない気分だが、埋め合わせとして打ち上げの宴会では弾んでやるので許して貰おう。
「いただきます」
見守られながらの食事というのは久方ぶり過ぎて些か居心地が悪かった。小さな蝋燭の――これまた高級品を惜しげも無く使う物だ――明かりに照らされた食卓、その対面に座ったご令嬢は私が食べている姿を一心に見つめている。
かつて麗しの故郷、ケーニヒスシュトゥールの家にて母が好物を一心に口へ運ぶ私を見ていた時の微笑ましそうにしている顔つきとは異なる。
この人がふらっとしなくなってしまわないだろうか。そんな心配をしている顔だった。
不調法ながら戦場に立つ者の常として、かなり手早く食事を詰め込んだ。きっと優雅に、ゆっくり食べることを習慣付けられたお嬢様には随分と忙しなく見えたことだろう。それでも礼儀を護り、口を汚さず、食器がこすれる音もせず食べたので不快には思われていないだろうけど。
「馳走になりました」
口直しの杏を囓り終えて礼を言う頃、彼女が小さく震えているのが分かった。
気遣いが行き届かぬことに顔へ血が上りそうになる。参ったな、そんな事に気付かぬほど、私も知らぬ内に気を張っていたのか。
おもむろに立ち上がって外套を脱ぎ、何事かと私の所作を見守っていた彼女の肩に掛けてやった。帝都から持ってきた遮熱の魔法が付与された大外套なので、これで寒さも和らぐだろう。
しかし、外套を羽織らせるため肩に添えた手が握られる。陶器と見まごう白い指は、その白さに見合った冷たさがある。
蟲の形質を引き継ぐ亜人種の体温はヒト種と比べると随分低いことは、幼馴染みとの長い付き合いで知っていた。だが、この冷たさは単なる夜の寒さによってもたらされたのではない。
彼女も憑かれているのだ。拭いがたい恐怖に。
こういった状況でご婦人にどう振る舞うかは、分かっているつもりだ。
冷たい手を握り、熱を分け与えるように両手で包む。私だけ立っていては居心地も悪かろうし、家族が複数人で座れる長椅子の隣に腰を降ろす。
すると、彼女は握られた手を胸に寄せ、肩口に頭を預けてくるではないか。
微かに香の好い匂いがした。清涼感のある果実にも似た、しかし柑橘のような強すぎる爽快感は無い。身を寄せてようやく分かる淑やかな匂いは乳香か。
庶民では手が出ないソレをご婦人が服に焚きしめる理由は幾つかある。
体臭消し、雰囲気作りはもちろんだが、貴人が夜着に香りをつける理由を私は一つしか知らない。
異性の臥所へ身を委ねる、その覚悟の表明である。
じわりと手に汗が浮き、私の熱が移りつつある柔らかく小さな手に余計な力を込めそうになった。
彼女はどんな心地でここに来たのか。
父親から焚き付けられたのもあるだろう。こう言うと何だが、私の名はそこそこ売れているし、これからも名を高めていく気はある。前にも言ったが、悪目立ちするのは嫌いであるが、評価されることまで嫌いではないのだ。
そんな冒険者と強い伝手を結ぶ益は中々に強い。
仕事を安く受けてもらえるのはあるだろうが、誰にとっても“子”というのは精神において重要な位置を占める。そんな子が居る荘であれば、親は大変な便宜を図ることは簡単に思いつく。
また、外からの血筋を取り入れるに当たり、良質な血統というのは誰もが望む所。
恐らく今回の事態を受けて、名主殿は強く思ったことだろう。
軍才を持つ者が後継に欲しいと。
あまりに短絡的な発想とも言えるが、馬鹿にはできない。人類は古来から才能を求めて婚姻を繰り返してきたし、家畜達にも同じ事を強いて同様の成果を上げてきたからだ。
効果の程は三重帝国の貴族達を見れば分かるだろう。
優れた血を連綿と交配しあった彼等には美男美女が多い。より高い能力を、より良い外見を好んで無意識に血統を錬磨し続けた彼等には、前世の地球で会ったようなハプスブルク的な血の歪みがないのだ。
だから、この世界において“血”をより強く、正しい形で求めるのはよく分かる。
それほど魅力的と有力な荘の名主から思って頂けるのは気恥ずかしくもあるが……今は、そんな話ではないと心底で理解できた。
震えに憑かれた手、潤む瞳、浅く乱れかかった呼吸。
彼女は怯えている。荘が襲われた事にではあるが、それ以上に“永遠に続く筈だった平穏”が破られた事実に脅かされている。
誰にとっても平穏とは最も尊いが、同時に最も素早く価値を失っていくものである。
平和を勝ち取るのは実に困難だ。家を建て食料を集め防備を固めて金を稼ぐ、文字で書けば一言のそれを積み上げるために必要な労力は途方も無い。雲の彼方に続く階へ多くの荷物を背負って這うように昇り続けてようやく手に入るソレなれど、人は平和をいとも容易く“当たり前”に貶めてしまう。
生まれた時から享受して、約束された将来があれば更にだろう。
故に人は誤解する。不確かな泥の土台に細い柱で立っている演台が、コンクリートの基礎と鉄筋の支柱に支えられた盤石なものであるかのように。
その上で、揺らいで当然の物が揺らいだだけで世界が終わるような不安を覚えるのだ。何ともまぁ、現金な生き物ではないか。
不安定な物を泥まみれの地面に降りて支えようとした身として、別にそれを馬鹿にしたりはしない。前世でそれを思う存分堪能してきたから。
だから彼女の不安は分かる。それこそ、頼れると思った男の腕に収まらねば、震えすら止められぬ恐怖を抱く心境を理解しよう。
マルギットは分かっていたのか。だから仕事が始まる前から私を焚き付けるようなことを言い、去り際に言葉を残していったのだ。
彼女は強い女性だけど、同性の弱さを察してやれる優しい人でもあるからな。
そりゃあ勝てないよな、私も、誰も。
恐れに揺らぐ身を外套ごと抱きしめてやる。これが正解か分からないまま、自問自答を繰り返しつつ。
それでも、人間は目の前で起こっている問題には対処せずにいられない。
細く、力を込めると潰れてしまいそうな体が脱力するのが分かった。零れる吐息は熱く、途切れなかった振動が止んだ。指を握り返す力は強くなり、伏せていた顔が私を見上げる。
淡く空いた唇が名を呼んだ。赤子が親を呼ぶように、信徒が神に縋るように。
本当にこれが正しいことなのか、私には未だに分からなかった。
多分きっと、死んだとしても正解かは分からないだろう…………。
【Tips】田舎の政治においては貴種間ほど純潔は重要視されない。
先週は一度しか更新できなかったので、今週末は連続更新しますよ。