ヘンダーソンスケール 1.0 Ver0.33
ヘンダーソンスケール1.0 致命的な脱線によりエンディングへの到達が不可能になる。
3巻のヘンダーソンスケール1.0が漂泊卿の加筆分だったので、記念して追加です。
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の漂泊卿ルートの続きです。
一つの宴席があった。幾つもの円卓が立ち並び、その上を贅と手間と工夫を凝らした料理が埋め尽くす豪奢極まる宴席である。
その予算に一体どれだけの金貨が計上されているか考えるだに悍ましい宴席は、会場もまた凄まじい予算の元に立っていた。
何と言っても上空数百メートルの高みより、街灯の明かりも煌びやかな帝都を見下ろしているのだから。
空に浮かぶ白亜の会場、彼女の名は公的に“テレーズィア”といった。
かつて帝国中に知られた“華奢帝”ことテレーズィア・ヒルデガルド・エミーリア・ウルズラ・フォン・エールストライヒ大公の名を冠するこの船は、三重帝国が二年分の軍事費に当たる莫大な予算を投じて建造した“外征航空巡洋艦”である。
無補給・無整備にて――乗員の生活物資は除く――三年の活動を可能とする空を飛ぶ魔導の要塞は六機の閉鎖循環魔導路と“魔導化合ヘリウム嚢”にて空を舞う最新の巨艦であり、今後帝国の内線戦略において重要な立ち位置を示すと共に各国との親交において重要な役割を果たす物だ。
分かりやすい威容をひけらかしつつ遊弋する巨大な船は、否応なく操る者達の技術力と軍事力を見せつける。その上、行き先での社交に用いる“展望舞踏場”をブロック構造の船体底部に備える船は、礼儀を護り続ける限り客人を鷹揚な空の旅に誘う淑女でもある。
いざ戦闘となれば舞踏場を外して――尤も換装に三ヶ月から半年はかかるため、専ら軍用・儀礼用を使い分ける予定だが――爆弾槽や騎竜厩舎へ入れ替え、戦う美姫へ装いを変える令嬢は今宵処女航海の途上にあった。
以後、姉妹達と共に帝国の看板を背負って様々な空を占領していくことになる、初の量産を前提とした長征が可能な航空艦。そのネームクラスの処女航海が只の遊覧飛行で終わるはずがない。
この宴は彼女が初めて夜空の褥を公的に飛ぶことを言祝いで催されたものである。
既に今上帝からの祝辞、主席開発者たるアグリッピナ・デュ・スタール教授よりの艦船仕様解説も済み、帝城の一画にあると言われても納得できる舞踏場は穏やかな宴席の場と化していた。
参列者は皆、帝国の重大事に関わる者達である。皇帝を囲んで笑っているのは、どこぞの伯爵や有力な下級貴族家――財力などで上位貴族を上回る下級貴族も少なくない――のお歴々であり、優美な音楽に合わせて踊るのも有力家の子弟揃い。窓際に集まり、耐圧硝子の展望窓より遙かな下界を飽きることなく観察している子供達も、帝国が誇る尊き血の連枝ばかりであった。
貴種でないものであっても有力商会の頭首や商人同業者組合の組合長に為替商の頭取、これからの起工にも関わる職人同業者組合の総親方などそうそうたる面子。今この船が不運にも墜落したならば、帝国が瓦解することさえあり得る参加者ばかりであった。
斯様な宴席にて、一人の淑女が暇を持て余していた。
美しいご婦人だ。妙齢の彼女は誰もが羨む白金の輝きも艶やかな長髪を膨らませ、肩口を大きく出した流行の夜会服で身を飾る。伏し目がちの憂いを帯びた瞳は微かに潤ませるだけで男性の関心を大きく買い、熟れきった果実も恥じらう唇から物憂げな溜息が零れればあらゆる男が嘆きを祓おうと己が身を投げ出してきた。
ヒト種の限りある美を駆使して長命種すら誑かしてきた、しかし外見にそんな外連味を一切見せぬ美女は今宵の催しに大いに期待していたのだが、些か期待が空ぶっていた。
眼鏡に叶う男はなく、今は片隅にてひっそりと客を歓待する酒肆にて無聊を託つばかり。未婚で遊んでも後ろめたくなく、それでいて一夜を共にする価値がある客の不在に美女は小さな嘆息を溢す。
そんな彼女から一つ空けた席に誰かが腰を降ろした。殆ど音も無く、気配も薄く優雅な体捌きで歩く彼からは微かに甘い匂いが漂う。決して不快ではなく、気分が華やぐような優しい甘さについ視線が釣られる。
そして、倦怠に濁っていた瞳に光が戻った。
「失礼、琥珀酒はあるかな。出来れば離島圏の本場物がいい」
「勿論御座います。こちらは如何でしょう、北方離島圏中部域の銘酒です」
「ほぉ、良い色だ。そうだな……加水と氷だけ、どちらが美味かな?」
「旦那様のご趣味次第ですが、まず手を加えず味わわれるのが一番かと。長期熟成させる銘柄ですので、生で楽しんだ後に変化を味わうのが粋といえましょう」
「では君の指示に従うとしよう。一杯いただけるかな」
「畏まりました」
差し出された琥珀色の液体が注がれた硝子の酒杯を照明に翳し、色合いを眺めて悦に入る男は魔導師であった。
長い前髪を右側にのみ一房垂らし、他は宝冠の如く編み込んだ金の髪は、整った中に一部だけ晒した隙が女性から見ても恐ろしく艶がある。どこか女性めいた、しかし確実に男性の強さを宿す貌にて輝く蒼い目は、今も彼女の胸を飾る藍玉と交換したくなるばかりに絢爛さで煌めく。
魔導師離れして鍛えられた体躯は見事の一言に尽き――欲を言えば、後頭一つ分背が高ければ完璧なのだが――身に纏うローブも素晴らしい。深い群青の生地は紛う事なき東方渡りの高級品であり、伊達な仕立ては帝都でも指折りの針子達の技量が光る。
彼女は魔導師界隈の事をよく知らなかったが、今宵の相手には十分かと判断した。
これほど上質な仕立ての服は単なる研究員では仕立てられまい。まして、この場に立っている時点で並の立場でないことは明白だ。最低でも教授、場合によっては領地持ちの貴種でもある貴族の可能性もあった。
「んん……いいな。樫の樽香と羽が舌を撫でていくような甘み……後口は旬の果実を囓ったような心地よさだ」
一口含んだ酒の味にいたく満足したのか、微笑みを浮かべる魔導師に女性は何時もの手で話しかけた。
酒に拘る男には、酒に無知であるように振る舞うのが一番だと。
「お酒に詳しくていらっしゃるのね?」
「ん……? いえ、単に好きなだけですよ」
「謙遜なさらないで。私、あまりお酒には詳しくなくて。でも、少しだけ呑みたい気分ですの。なにかいい銘柄がないか教えて下さらない?」
語りかけながら自然と席を移り、態とらしくならぬようしなを作る。自身の所作に合わせて服が翻ることを計算し、決して下品にならぬよう、されど確実に目に入るよう夜会服の胸元をチラつかせた。これで多くの男は彼女の悩ましい美貌に引けを取らぬ、蠱惑的な起伏を描く肢体に生唾を飲んできた。
いわゆる必殺の構え……で、あるが、何とも異な事に魔導師は何の反応も見せず、顎に手を添えて小さく唸るだけ。
微かな驚愕を覚える彼女を置いて、魔導師は酒肆を預かる男に酒の名を告げる。心得た彼は何も言わず、背の高い硝子の酒杯を用意すると、幾種類かの酒を混ぜた後に発泡性の水を注いだ。酒を愛好する貴種の間で密かに流行っていると聞く、カクテルという飲み方であっただろうか。
いつだかの酒宴で何時間も講釈を垂れられた事を思い出す。あの時も今日のように“ハズレ”の宴席で、仕方なく選んだ相手に延々と語られて辟易としたものだ。
「これならばお酒に慣れぬご婦人でも飲みやすいでしょう」
しかし、彼女の悪い思い出に反し、魔導師は酒の名や由来も伝えずに飲むように促すばかり。
試しに一口含んでみれば、酒精は弱く心地好い口当たりで飲みやすい酒であった。するりと喉に落ちる感覚、新鮮に口の中で弾ける味も相まって一口で彼女はこれが気に入った。
「お気に召したようでなにより」
反応から察したのか、微かに口の端を上げる気品ある笑顔を作る魔導師。随分と久方ぶりに、女は気恥ずかしさから頬を朱に染めた。ここ暫く、あまりない対応、中々みない部類の男性と接したためか、些か調子が狂いつつあった。
その後も一杯飲んだなら直ぐに次を薦めて来るということもなく、黙して酒精を味わう男へ女が話しかけて返答を貰うという時間が続く。
酒の事を問えば、単に好きだと自分の好みを言葉少なに語るだけで、掘り下げても思い出話がぽつりと出てくる程度。
何が良いかと問えば、これまた酒の名を告げて用意させるだけで、それも女好みで飲みやすいもの。名前がなんだの、何処の酒房で産まれたものだのと一切語ることはなく、聞いた後に漸う短く教えるのみ。
教授先生でいらっしゃるのね、と褒めて男性ならば喜ぶであろう名誉欲を擽る言葉を投げかけようと、彼は閥の末席を汚している程度ですと苦笑するに留まった。何をしているのか、どなたと繋がりかあるのかを訪ねても一切漏らさず、一人の動物好きという曖昧な回答だけが得られた成果の全てであった。
自分の事を語らず、女の事も聞かず。しかし会話だけは教養と冗談のセンスに富んで面白ことだけが不思議であり、女は少しずつ本気になりかけている自分の存在に気が付いた。
面白い獲物だと思った。それと同時、振り向いて欲しいという少女時代にしか覚えたことのない感情もある。本当に言葉にし難い、魔法を操る身分に相応しい男。
さぁ、どうやって攻めようかと口当たりの良い酒に舌を浸していると、不意に二人の空気が破られた。
「お師匠、どこに行かれたと思ったら、またお酒ですか?」
「おっと、見つかったか」
酷く豪奢な格好をした少女であった。金の髪と碧い目から一瞬血縁かとも思ったが、麦藁のように彩度の低い神と、同じく夜の海に近い沈んだ青からして違うだろう。身に纏う装束は最新の流行というよりは、奇抜な特異さに富んだ“ひだ”や豪勢なフリルの数々が作り出す甘い愛らしさを見せつける独創的な仕上がり。魔導師が決まったように携える儀礼用の長杖を抱えていなければ、魔法使いとは分からない見た目である。
「ライゼニッツ卿がお探しですよ、晴れ着を見せてくださいと」
「えぇ……? いいじゃないか、こんな窮屈な物を着てきただけで十分だろう」
「いけません。レムヒルト卿もお召しです……折角だしお話がしたいと」
「む……」
「あと、向こうでシュポンハイム卿が男性に掴まっていましたが、エスコート役を仰せつかっていたのではないですか?」
「あー、分かった分かった……全く、私の弟子は賢い。私の動かし方をよく分かっておいでだ」
「……後、私に船の事を教えてくれる約束はどうなりました」
「そう膨れるんじゃありません」
急にやってきた少女へ疎んでいるような口ぶりとは逆しまに、愉快そうで愛おしげな調子で言った後、魔導師は僅かに酒杯を惜しむように弄ぶ。それから覚悟を決めたように一息で飲み干し、来た時と同じ優雅さで席を立つ。
「失礼、今宵の相手が向かえに来てしまいましたので。良い夜を」
そして少女の手を取り、魔導師は女に振り返って席を辞すことを詫びた。
「あのっ、せめてお名前は……」
言い終えた後で、女は立ち上がって縋るように名を聞いている自分の存在に気が付いた。何故か、ここで捕まえておかないと二度と会えないような気がしたのだ。
されども、男は笑って答えない。
残されたのは、酒好きの動物愛好家さという悪戯っぽい言葉だけ。
去って行くその背を見送り、女はまだ時間はあると自分に言い聞かせた。宴は朝まで続く予定なのだ。どこかでまた会うこともあるだろうと。
しかし、機会は訪れなかった。他の社交のついでに見回してみれば魔導師を見つけることは出来たのだが、その何れにおいても誰かとおり、話しかけることができなかった。
一度見かけた時は壁際で死霊と思しき半透明の女性と朗らかに――だが、どこか目から光りを失せさせながら――歓談していて。
二度目は揃いの色をした金の髪の女性と親しげに酒杯を交わしており、とても声を掛けられる雰囲気ではなかった。
三度目は彼を呼びに来た小さな少女の手を取り、辿々しい彼女をリードして踊っていたため割り込むことは出来なかった。壊れ物を触るよう、大事に大事にステップを教える姿からして親戚というよりは弟子なのだろうか。
そして最後の機会、そろそろお開きという段で疲れたのか弟子の少女は踊る人々の一画より離れ、飲み物や酒を配る従僕の方へ向かっていく。
此処を逃して他はないと思った女は、声をかけようと近づいていく。
だが、そんな彼女を颯爽と追い抜く影があった。
長く微かな癖を帯びた黒い髪。その髪を更に映えさせるべく作られた、艶のある明るい黒に染め抜かれた絹地の夜会服を纏った痩身の淑女。琥珀色の瞳は会場を照らす淡い光りの下で本物の宝石に劣らぬほど爛々と煌めいており、活動的な美しさを引き立てる。
近づいてくる気配に気が付いたのか、振り向いた魔導師は華が綻ぶような素晴らしい絵画を作って見せた。
最初に声をかけようとした美女にではなく、彼女を追い越した黒髪の美女に向かって。
「やぁ、我が友」
「ああ、我が友。最後に踊りに来てくれたのかい?」
「まぁね。今日は君が存分に盾になってくれたから、そのお礼にとね」
「そうかい。君が踊ってくれるなら、全ての苦労が報われたようなものだな」
ごく自然に、斯くあるのが当然の如く男女は絡み合って舞踏の渦に混じっていく。後に只一人、声をかけ損ねた女を残して。
くるりくるりと典雅な足捌きで踊る男女の群れ。その場を去ることもできず、ぼんやりと見つめていた女の視界を捕らえて放さぬ一組の男女。
はっと女は息を呑んだ。
気のせいであろうか、踊る黒髪の女から流し目を送られたように思えたのだ。
同時に、小馬鹿にされたようにも。
斯くして舞踏曲が終わると共に宴席も終いとなり、またつまらぬ数人からの祝辞があって客人は幻想的な空の旅から解放された。
女の予感は当たり、これ以降、淑やかに金の髪を結った魔導師と会うことはなかった。どの宴席に顔を出そうと、魔導院関係の集まりに行ってみようと、その業界に詳しい人間が多いサロンに赴いても。
とはいえ、女も恋に恋し、錯覚に近い初恋を何時までも追い続ける夢見がちなお姫様ではない。その内に捕らえ損ねた獲物の事など忘れ去り、自身が最も価値を持つ内に最高の結婚相手を捕まえて幸福な結婚生活へ入った。
ただ、酒宴に参加するたび、酒を混ぜて飲む新しい楽しみにて、幾つか決まって頼むものがある。
そして、それを酒が飲めぬようになるまで欠かさず飲み続けるのであった…………。
【Tips】テレーズィア級外征航空巡洋艦。以降の三重帝国における長距離航行を主眼に据えた航空艦の祖となる歴史的な船。研究開発費に軍事予算の二年分を計上したこともあり、細かな改修を受け続け以後百数十年に渡って航空戦力の主力を担い、計二九隻が建造された。
尚、クラス名を選定するにあたって今上帝が出した案が採用された形であるが、枢密院などから「存命の人間をクラス名にするのは、万一沈んだ時に不敬過ぎるのでは?」というご尤もな懸念が出るも、当人から面白い趣向であると認められたため正式に決定された。
販促為の連続更新。
購入報告及び感想ありがとうございます。
やはり感想を頂くと続きを書くかという気になって筆が進みます。
これからもよろしくお願いいたします。