青年期 十八歳の晩春 二十三
蜘蛛人にとって森とは故地どころか住み慣れた自室に等しい。
その多くの種が人家犇めく文化圏に適合したため、女郎蜘蛛種や大土蜘蛛種と比すると都市圏に馴染みやすい――サイズ的な意味でも――蠅捕蜘蛛種であるが、元は草地や森林に分布し、巣を張らぬ徘徊性の生活を営んでいた。
文明化によって森に潜まず生活するようになったとして、その本能と習性、そして生まれ持つ特性が消える訳ではない。
ましてや猟師として腕を磨き続けた狩人の感覚は、惰性で過ごしてきた同種とは比較にならぬほどに鋭敏である。
マルギットが剣友会にて“姐さん”や“姐御”と慕われ、マルスハイムにて“音なし”や“護剣”として名が広まったのには相応の理由があった。
なにも金の髪の“情婦”だからではない。ジークフリートの場合と同じく、鼻っ柱が高く、戦士として自負を抱きながら冒険者を志した者が、それだけのことで無条件で慕うはずもなかろう。
ましてや金の髪は、情を交わした女だからといって自信の名を傘に着させるような器ではない。仮に何らかの運命の悪戯で彼女が隣に存在せず、修羅場に立つことのない婦女を隣に置いていたとして、同じように遇するかと言えば確実に否であろう。
剣友会にも斥候としての働きが出来る者は幾名か居る。
人狼のマチューは剣技における序列こそ中程と落ち込んでいるものの、斥候働きにおいては随一の鋭さを見せる。人狼特有の鋭い嗅覚は無論、音に敏感であり同時に巨体を目立たせず動く術を身に付けていた。
また、同じく剣技の腕はマチューと似たものだが――それでもそこら辺の冒険者では太刀打ちできまいが――豚鬼のリーヌスも斥候の腕前では負けてはいない。
豚鬼は文字通り豚の流れを汲む亜人種の一派であり、ヒト種であれば病気としか思えぬほどの豊かな体躯を持つ種である。しかし、はち切れそうな外見に反して彼等は強靱な深層筋と体幹筋を持ち、意外なまでの俊敏さと真正面からの取っ組み合いにおいては亜人種有数の馬力を持つ。
だが、その真価は然程知られていないが犬鬼より優れた嗅覚にある。豚が土中のキノコを好む種のみ選って見つけられるように豚鬼も繊細に目的の匂いを嗅ぎつける。
犬鬼が目的の臭いを自分で選んで探すのに秀でるとするのであれば、豚鬼は生理的に必要とする臭いを嗅ぎ分ける能力に秀でる。
そして、豚ではなく人類の一派として真価した豚鬼は、死の臭いに敏感だ。
他種の死体が放つ腐臭、血の残り香、払いきれぬ金物臭さ。食料と不用意に近づけば命に関わる臭いに関して彼等の右に出る者は少ない。
妖しい臭いをリーヌスが見つけ出し、発生源はマチューが追う。この連携は公に知られぬことなれど、近衛猟兵においても最適解の一つとして起用されるくらいに優れた編成であった。
だが、マルギットはそれをして追従を許さぬ探索能力を見せる。
故に自負心が高く、向上心を絶やさぬ冒険者共からも“姐御”と慕われるのだ。
特にこの日、マルギットは不思議と調子が良かった。
気分が高揚し体は丁度良い熱を帯びて滑らかに律動する。木々を飛び回る速度は増し、何時もなら安全のため“しおり糸”をくっつけて別の木を経由した方がいいルートさえ一息に飛び越えられる。
強壮の魔法薬を飲んだりはしていない。あれは身体能力を引き上げてくれるが、本当に必要になった時にだけ飲むような代物だ。一時的に湧き上がる活力は“寿命の前借り”と若草の慈愛が評価するのもよく分かる。
では、それ以外になんの要因か。たしかに良く休んだし、頼られている高揚感と満足感はあるものの、それだけで肉体の調子が劇的に上がれば苦労は無い。
「……いえ、酔ってる?」
予想していたよりも早い目的地への到着に際し、蜘蛛人は違和感の源に気付いた。この気の高ぶりと疲れを知らぬ、いや、上手く認知できぬ状態には覚えがある。ほんの僅かに薄めた葡萄酒を呷った飲み始めの感覚。
無論、酒精の類いには口を付けていない。水は革袋の白湯を飲んでいたし、酒を含んだ菓子も食べていない。
では一体何故?
一瞬、何か漏られたかと意識が行くも、蜘蛛人は一瞬で否定した。口にする物は選び、ましてや薬物の専門家が同席していたのだ。下手な物が混じることはあり得ない。
ならば、今は不思議を捨て置いて仕事をするとしよう。
マルギットは話に聞いていた子供達が襲われたという地点に来ていた。襲撃が実際にあったのであれば、何かしら痕跡が残っているだろうと踏んで。
又聞きに過ぎぬ名主の証言から大凡の場所を推察し、レンズ眼と単眼の全てを動員してつぶさに状況を探る。
「……あった」
普通であれば気付けないような違和感も目は探り出す。数日前の出来事でも土と木は覚えているものだから。
薄れているが子供の足跡があり、同時に尻餅をついた痕や僅かに変色した地面は血が滲んだ痕跡か。マルギットのヒト種に近い鼻では分からぬが、追いついてくるだろう二人の斥候であれば真偽はすぐ明らかになろう。
そして、時に生きている人間よりも草木は雄弁だ。
外れた矢が飛び込んだ藪は狩人の感覚が簡単に見つけ出した。金の髪に言わせれば、賽を振るまでもないといった所か。
矢が飛び込み折れた枝の断面を見れば、どの方角、そして距離から矢が飛び込んだかは大体分かる。射点に当たりをつけて足跡を付けぬよう――体重が分散する多肢の、更に元々の軽量の面目躍如――探れば、射手の痕跡を見つけることができた。
無遠慮な足跡が複数残されている。雑に消そうとした痕跡は見られるが、完璧ではない所を見るに専業の猟師や野伏はあり得ない。
矢の腕前もあり、聞きかじりの知識で真似しているだけの素人か。
マルギットは射点に立ち、子供の足跡から見て三〇歩ほどしか離れていないことから予測の正確性を更に高めた。
下手人は二足歩行、小柄で軽量、恐らく矮人か小鬼などの小型人類。人数は三で斉射したにも拘わらず外す程度の力量。
「……いや、外れたよりも外した、かしら」
質の悪い矢を使っているので外しても不思議ではないが、尻餅をついた子供に追撃しない理由が分からない。殺すのが目的であるのなら、絶好の機会ではないか。
そもそも前提として、森へ生活の糧を取りに来ただけの子供相手に矢を消耗する理由がない。たとえ襤褸であろうが矢は矢なのだ。そんな高価な物を使い捨てにする必要性がみられない。
もし静かに矢で始末したかったとして、逃がしてやった理由は何処にあるのか。駄目なら二射を放てばよいし、何なら追いかけて刺し殺すなり絞め殺すなりすればもっと簡単で安上がりだ。
さて、近づいて欲しくない物がこの辺りにあったのか、はたまた“脅しをかけたい”だけだったのか。
真相は未だ藪の中。されど、寓話の如く分かりやすい“光る石”を落っことしてくれているのだから話は楽だ。
静かだが、まだまだ不躾で大きな気配が二つ。息を切らせながらも追いついてきた剣友会の斥候二名に振り返りつつ、マルギットは艶然と微笑んで地面を指さした。
さっさと仕事をしろ、という圧のある笑顔に対し、何倍も大きな体を持つ彼等であるが、直ちにと謙って鼻を寄せるのであった…………。
【Tips】豚鬼と人狼。同じ嗅覚に秀でた種なれど、向き不向きにより差別化される。また豚鬼は優れた嗅覚を持ちながら柑橘類や香草類、スパイスなどを嗅いでも平然としているが、犬鬼は僅かでも嫌うなどの細かな差も多い。
守備側は攻撃側よりも有利というのは間違いではないと思う。
ただしそれは単純な殺し合いにおける話で、少なくとも精神的には守手側もかなりキツい。
全ては“いつ攻撃するかを決める権利”を相手が持っているからである。
久方ぶりに伸び伸びと農作業が出来たからか、荘民達は気分良さそうに家に帰っていき夕餉の支度として竈に火を入れる。家族と食事を囲んだら各々僅かな自由時間を楽しむか内職に勤しみ、明日以降の労働に備えて眠るのだろう。
ただ、我々にとっては今からが一番しんどい時間である。
守手側は規模の善し悪しこそあれ防護手段を備え、待ち受けているため体力の消耗も少なく、そして戦術的に優位な場所を占領できる優位を持っている。
上手くやれば下赤坂城の楠木正成のように何万もの兵を釘付けに……って、この喩えはちと不穏か。最終的に陥落してるしな。
えーと……まぁいいや、勝った側の籠城戦がパッと出てこないけど、五百人で三〇万――実際には一万くらいとも――を相手取って、倍する数を殺したなら大したもんだ。
防御側の有利はさておき、攻撃側は守手側より被害が確実に大きくなる代わり、殴りかかる時間を選ぶ権利が与えられているのだ。
護っている側は勝利条件が敵の撃退でこそあれ、余程の好条件が揃わぬ限り自ら打って出ることはできない。いつ敵がやって来るかに神経を張り詰めつつ、常に戦える状態を維持しながら待ち続けなければならないのだ。
これが精神的に辛い。気の抜けない時間があまりに長く続くと、人間という生き物は簡単に“壊れる”のだ。
「長い夜になりそうだ」
夕餉としていただいた汁物とパンを囓り、沈む夕日を窓から見送った。
正直、昨日の今日で押し寄せてくるとは思わないが、それでも我々は仕事を受けた以上は事態が解決するまで夜警をやらねばならぬ。いつ寄せてくるかも分からぬ敵に備え、常に立ちはだかって荘民の安全と安心を守り抜く。
なんとも重大にして困難な仕事ではないか。
期限はこちらの斥候が“敵の規模”を突き止め、根切りにするか諦めさせる。ないしは巡察吏の手が空くまで。
さぁ、我慢比べとしては中々にしんどいぞコイツは。
「ジークフリート、どっちが先に寝る」
「ああ? あー、そうさな」
臨時の指揮所として借りた集会場の机。豪勢にも蝋燭を至急していただいた明るい室内でジークフリートは汁物を勢いよくかっ込んだ後、懐からコインを取り出した。
前線指揮が取れる人間が常に一人は起きていなければならない。少なくとも私か彼かは起きていて、非常時に備えねば。
「いつも通りでいいか」
「そうだね」
こういう時、事情がなければ大体は硬貨の表裏で順番を決める。手垢や青錆で傷んだ大判銅貨の表面では禿頭の僧が渋い顔を浮かべていた。思い出深いランペル大僧正の顔を見ていると、最後に顔を見て何年にもなる尼僧が記憶の中から脳裏を訪ねてくる。
ああ、夜に親しみ、眠りの安寧を護る神の敬虔な信徒たる彼女がいれば、随分と楽であっただろうに。
いつだかの席で冗談めかして「一緒に冒険に行きませんか?」と訪ねた時、実に難しい顔で考え込んでくれたツェツィーリア嬢が恋しかった。
夜陰神は信心深き信徒の眠りを護るため、深い慈悲の一端として鳴子より繊細な警戒の加護を与えてくれる。人数は限られるが、設定した範囲に“害意ある者”が入り込めば、寝起きの怠さの一切を追いだして目を覚ましてくれる“奇跡”の何と強力なことよ。
少しだけですよ、と悪戯っぽい微笑みと共に人差し指を唇に添えて奇跡を教えてくれた君は何処に。今もこの月の下、信仰を捧げているのだろうか。
もし彼女がいれば、長く苦しい夜も連続する駒音のおかげで辛くなかったろうに。
追憶を余所に甲高い音を立てて弾かれるコイン。私は目を閉じて<雷光反射>の発動を防ぎつつ、ジークフリートがコインを捕まえて机の上に叩き着けるのを待った。
「表」
「おう、じゃあ俺が裏な」
目を開いて退けられた手を見れば、コインは夜陰神の神体である丸い月を晒していた。裏側、つまりは私の負け。
「じゃあ先に休んでくれ」
「ああ。気ぃ使ったりすんなよ、きちんと起こせ」
「分かっているよ」
自分も疲れているだろうに念押ししてから、ジークフリートは小札鎧の胴衣以外を脱いで休憩の準備をする。寝づらくなるのは避けられないが、胴体だけは不意打ちに備えて着込んでおきたいから。
なにも新しい鎧が嬉しくてずっと着ている訳では無いのだ。まぁ、確かに買ったその日は仕事もないのにずっと着たままで過ごして、会員達から微笑ましい目で見られていたけれど。
うん、気持ちは分かるよジーク。私だって初めて鎧が出来た日には、暫くそのままでうろちょろしてみたもの。
「って、君、それ使いすぎは良くないとカーヤ嬢から叱られていただろう」
「うっせぇなぁ……わかってんよ」
交代に備えて眠る会員の側、急ごしらえの寝具に向かう彼の手に握られた素焼きの瓶を見て思わず咎めてしまった。
カーヤ嬢の作る睡眠薬だ。一口呷ればあっという間に夢も見ない眠りに落ちて、起こされなければ暫くはぐっすりという代物は素早く寝てしっかり休みたい時には丁度良い。しかし副作用もあるし離脱症状も避けられず、使いすぎれば服用量を増やし続ける嵌めになるため余程の緊急時でもなければ使わない方が良い。
「つっても俺らは朝から動きっぱなしだろ。多少は眠りの質を上げとかねぇと明日がつれぇよ。本格的な四交代体制ができたら止めらぁ」
「楽だからと薬に頼りすぎるのは、どうかと思うけどね私は……」
じゃあテメェも禁煙しろ、と言われるとぐぅの音もでない。普段コソコソ使っている魔力の回復や集中力の補助、それと特性でショートスリーパーになってこそいるものの眠気覚ましにと八面六臂の大活躍を見せる煙草が中々手放せないのだ。
痛し痒しか、と眠りの魔法薬を慎重に一口分だけ飲んで寝床に包まるジークフリートを見送って、私も煙草を咥えて表に出た。誰にも見られていないので遠慮せず魔法で火を付けようとした所……。
「油断大敵、でしてよ」
「……うん、ごめん、降参」
首筋にピタリと冷たい感覚。両手を挙げて振り返れば、そこには集会場の庇から逆さまにぶら下がった愛らしい幼馴染みの姿があった。
今日は変化球で来たな。首に飛びつく代わりに短刀に見立てた冷たい指が延髄に添えられていた。突き込まれたら一瞬で脳幹を破壊され、呻き声の一つも上げることなく絶命していただろう。
手を広げて誘いかければ、ご丁寧に左手でスカートの裾を押さえていた彼女は足の力だけで飛びついてくる。柔らかく受け止めてやると、胸元に顔が埋められて深呼吸が二度三度。息を吸われる冷たさと、吐き出される淡い熱に体が震える。
ややあって最高の笑顔と共に顔を上げた幼馴染みが、私には何やら牙を剥いて成果を誇る巨大な獣のように見えた…………。
【Tips】カーヤ手製の眠り薬。服用するものと散布するものの二種類が存在し、前者が休憩の補助として剣友会に安値で配られている。後者は抑制式を刻んだ瓶から漏れると爆発的に気化する術式も込められていて、魔法薬を投げて戦うという変則的な戦法を選んだ彼女の手によって投石器を用いて敵中に投げるという運用が為される。
尚、流石に敵味方を識別するほど高度な術式は仕込めなかったようで、基本的には奇襲に際するご挨拶、ないしは撤退時の最後っ屁が主な用途である。
悲報 平行連載故の大ポカ。
これはケジメ案件ですわ……。




