ヘンダーソンスケール 0.1 ver4
ヘンダーソンスケール 0.1
物語に影響がない程度の脱線。
副題:狩人の密やかな欲望。
大きな獲物が寝ている。ごろごろと機嫌が良さそうに、爽やかな石鹸の匂いを纏って寝台に転がっている。
狩人は午睡に微睡む相方を見て、これだけ気分の良い午後なら仕方がないかと苦笑を浮かべた。
子猫の転た寝亭、その一画で貸し切った二人部屋――といっても、最近は寝台を一つしか使っていないが――は午後になると西日が心地好い。直接強い光が差し込むのではなく、良い塩梅で当たる角度に位置しているため、どの季節でも丁度良い日差しが体を温めてくれる。
まだ陽も高い内から気楽にお昼寝、実に良い身分である。
早い内から起きて宿の手伝いをし、気が向いたので銀雪の狼酒房の中庭にて剣という牙を研ぎ上げる。納得いくまでヤットウを愉しめば、昼間から酒を呷った後に風呂へ繰り出し湯気に溺れて垢を落とす。
それから宿に戻り、風呂上がりの沖融さすら覚える疲労感に浸りつつ洗濯したてのシーツの海で午睡に沈む。
これほどの幸せがあるだろうか。そう感じさせる自儘な一日の幸福な一時を貪って、ヒトの似姿を取った精強無比な獣が寝ている。
束縛を嫌ってか、それとも油断を誘ってか敢えて選ばれた大きな衣服。しかして、その真意は「これが丁度良いくらい背が伸びぬだろうか」という細やかな希望が託されていることを狩人は知っていた。
最早乙女でも恥じらって自らの髪を隠すほどに伸び、金に染め上げた生糸も褪せる髪も解かれて散らばり、莫大な金貨の山の上に寝そべっているかのよう。財貨を蓄え洞窟に眠る竜もかくやの寝姿は、正しく強大な獲物と言うに相応しい。
ある詩において詩人は言った。恋も戦も同じ物、取った首は艶やかであればあるほど良い物だと。
その点、ケーニヒスシュトゥールのエーリヒ、金の髪の誉れ高き首はさぞ価値のある首と言えよう。
戦において彼の首をとれば、今まで積み上げた彼の偉業が全て手に入る。
恋において彼の首をとれば、それほどに麗しい女としての名が上がる。
故にこの獲物を求める者は多い。戦においても、恋においても。
前者において狩人は心配した事はなかった。
こと真正面から剣を抜いた戦で金の髪が誰ぞかの後塵を拝した事は、幼きその日に逞しき自警団の長から指導を受けていた時をおいて無かったからだ。
不適な、狼が牙を見せつけるような剽悍な笑みを浮かべて金の髪が前に出れば、何時だって敵手の悲鳴と共に弾かれた剣が空を舞った。時には血と四肢の一部を供にして空を彩る不気味な戦果は、あまりの鮮やかさによって敵手共の戦意を挫くほど。
中には詩によって名が知れた“送り狼”が抜かれただけで、得物を擲ち慈悲を請うた不届き者もいたものだ。
今より強力な敵が立ちはだかろうと、金の髪は揺るぐまい。
狩人だけが知る奥の手、それが抜かれたことは今まで無いが“アレ”が巻き起これば文字通り剣の嵐が吹き荒れて、全ての困難は微塵と散ることになるだろうから。
これらを恐れた卑怯な一撃であれば、尚心配は要らない。影に潜むこの手によって、その全てを詰んだきたから。
ただ勝利したという事実だけが欲しい卑劣漢共の手に劣るほど、温い鍛錬と修羅場を潜ってきた覚えはない。童女の顔におっとりとした妻の色を滲ませる狩人の母は、その実凄まじく遠慮の無い教導者という側面を持っているのだから。
幼き日、手に出来たマメが潰れて痛いと訴えれば「それで?」と微笑んできた時の事は忘れ難い。腹を空かせた獣を前にして同じ泣き言を言うつもり? と笑顔を添えて投げつけられれば、涙と共に短刀と弓を手に取る他に何ができよう。
剣士としての金の髪、その背を護る後衛の誉れに不足は無い。狩人は魔法を使えぬが、不定の道を切り開く斥候働き、そして背を支える弓手として己を超える者は無いと自負する。
呼吸の一つ、目線のやり場、足運びから意図を察し、隙を潰してやれるのは自分だけであると奢りでは無く実績を以て証明してきた。
故に誰も狩人を軽んじぬ。冒険者となって働き始めた頃、金の髪の名が市中にて話題になった頃は、やれ情婦だから側に置かれているだの縁故だのと心ない事を囁かれてきたが、今となって同じ事を言える者が何処にいようか。
戦における獲物としての金の髪に狩人は満足していた。彼の背と影を護る斥候、この立場を脅かす存在は絶えて久しい。
しかし、恋の戦においてはどうか。
現状に不満があるとは言わない。むしろ、不満があると言えば大勢の乙女から石どころか短刀を投げつけられても文句は口にできまい。
幼い頃の現実性に乏しい夢とさえ言える誓いを金の髪は護った。
魔導院、貴種や代官の後援がなくば地下の者では到底稼ぎ得ぬ学費を要する学び舎に行った妹。その学費を稼ぎ終えれば帰ってくるという、人生を賭けても難しいであろう難事を僅か数年で片付けて金の髪は帰参した。
そして跪き誘ってくれたのだ。一番に、真摯に、冒険に出る自分の隣に居てくれと。
後にあったことは甘い思い出として脳に深く深く保管してある。純潔を奪い合った夜の事は、今正に起こっているかのように瞼の裏に描くことができるほど。
この間柄に憧れる女子は多かろう。時折広場に現れ恋歌をつま弾く女の詩人、またそれに群がる女性の聴衆に紛れて聴いているので確かだ。気配を消して紛れ込んだ客の顔を見れば、ほぅっと色めいた吐息を溢す客の多いことよ。
それでも、それでもだ。金の髪は冒険者として愛好家には手厚いが、女として寄ってくる者への対応が塩っから過ぎる。
名声と金に惹かれて寄ってくる女給は兎も角、純粋に恋慕を抱いて寄ってくる一般の婦女や同業者に対しても塩気が強い。
無碍にしている訳ではないが、愛想に乏しいのだ。薄い笑みと当たり障りの無い会話。胸を寄せられれば剣で磨いた身のこなしで軽く避けてしまい、親愛の握手も余程でなければ「ご婦人の柔肌にこのタコと血にまみれた手で触れる訳には参りませんので」と麗句を添えて断る様は、些かどうかと感じるほど。
もっとこう、ちょっと位は軽くてもいいのにと思ってしまう。
以前、酒の席で荘の女子衆と盛り上がった――主観的には――際の言葉は嘘ではないのだ。
狩人は貞潔に対し、特に男のソレに重きを置いていない。
手前は正直、金の髪以外に興味を抱けないのでどうでもいい。清い付き合いであった時は言うまでも無く、睦み合った今では尚更だ。
正直に言えば完全にいかれていると言われても否定できない。
表の武芸は先ほど回想した通りであるが、金の髪は夜の武芸においても凄まじい物を誇る。触れる手は甘く、囁く言葉は染み行き、果てしなく絶えぬ交わりは意識が白むほど。
姫のように甘やかされ、一方的に蕩かしてくる腕前は何処で磨いたのか聴きたくなるばかりに冴え渡る。指が擽る場所は遍く弱点と化し、些か大きすぎる得物は良い場所をまさぐって止まぬ。
連続する頂への逢瀬を他に何と喩えるべきか。通常は女性上位で事が運ばれる蜘蛛人の面目丸つぶれの睦事は、辛うじて体面を保ってはいるものの、勝利をつかみ取った事があるかと言われれば狩人は渋面を作ることしかできなかった。
この男は何と言うべきか、凝り性なのだ。一度始めると際限が無く、気に入りすらした時は限度を知らぬ。肉体の震え、声の甘美さより快を拾い上げればつぶさに記憶して責め立ててくる。
一度は恐ろしさすら感じたものだ。ものの一分とせず、剰え秘部へ触れることもなく頂へ連れて行かれた時は。
母親の思い出語りはなんだったのか、と言いたくなる有様に思わず「身が保たぬ」と呟いたのは屈辱ではあるが、事実でもあるので否定しがたい。
ともあれ、ここまでの相手を見て、他の男に目をやっても木石か出来の悪い粘土細工にしか見えずとも不思議は無かろう。むしろ、その出来過ぎた様に一時はヒト種ではなく精霊種に属する夢魔か何かなのではと疑いすらしたのだから。
しかし、金の髪は己に一途過ぎた。愛されることを狩人は疎ましく感じることはなく、むしろ喜びを覚えているものの、些か物足りなさも感じるのだ。
多くの競業に狙われる強力な獲物を狩ってこそ、狩人の誉れは輝く物だから。
故に多少は遊ばないものかと金の髪を見て思う。口さがない者は稚児趣味だとか、実は男色隠しで狩人を側に置いていると嘯くまで禁欲的にならずともと。
懸念はある。一人の男を捕まえ続けることも出来ぬのかと誹られる可能性を。
まして、無いと硬く信じているものの、彼に背を向けられる可能性も。
しかし、世に完璧に一人の男を捕まえ続けられる女がどれほど居よう?
確かにその点、狩人の母親は完璧であったが、あそこまで“絞る”のは如何なものかと娘の身でも思ってしまう。あれでいて体調に不足はないようだが、それでも二回りか三回りは年上になるほど老け込んだ父親を見て感じることがないほど娘は薄情になれなかった。
されど、父は父で母からの重すぎる愛に喜んで絡め取られている気があるため、何も言えずにいたが、では手前も同じ事をしたいかと問われれば否であった。
多くの獲物を食い散らかし、恐れられる狼を狩ってこその狩人でなかろうかと。
檻の中で懐いた犬を撫でて愛でたいのではない。むしろ、このぷぅぷぅ間抜けな寝息を立てる金色の獣が座敷で可愛がられる立場に収まりきるものか。
今でこそ愛玩犬の脱力で寝入っているものの、決して首輪を付けられるような存在ではない。首輪を付けて紐を張って悦に入った瞬間、強烈に引っ張り回されて顔面を摺り下ろされるのがオチである。
まぁ、この気の抜きようが“警戒してくれる相方がいるから”であり、思う存分無邪気に寝ている事実を思えば狩人としては悪い気もしないのだが。
無節操に商売女まで噛みつけとまではいわないが、もう少し獣らしくしてもいいものを。
狩人は再度苦笑を作り、無憂の寝顔を晒す金の髪の小鼻を突っついてやった。
「んぁ……」
余人には決して見せぬ寝顔。どうせこの男の事だ、他の女と臥所を共にした所で相手に寝顔など見せはしないのだろう。仕事の際、一人で眠る折は愛剣を抱き座り込んで眠る男が余所の寝床で隙を晒す姿が想像もできない。
だから良いのだ。多少遊ぼうと、余所に行ってみようと。
最後には連れ帰り、穏やかに眠るのは此処だけだから。名誉ある狼の首は、最期に蜘蛛の手に収まるのであれば良い。
絶息の時、蜘蛛が狼の内にあるのか、蜘蛛が狼を抱えるのかは先のことだから分からない。それでも、最期に勝ちさえすればいいと狩人は強く信仰していた。
最期に至るより前であれば、大いに暴れて欲しいものだ。斯様な怪物の隣にいつも居るのであれば、次第に狩人としての価値も高まっていくのだから。
むしろ二人がかりで丁度良いくらいあるかもしれない。そんな益体も無いことを考えつつ、狩人は寝相によってはだけた毛布をかけ直してやった。
それから小さく伸びをして、金の髪の隣に潜り込む。色々と考えたせいか眠気がやってきたのだ。
凝っているらしい良い石鹸の匂いがする。顧客と会うとき、汗の臭いより良い匂いがした方がいいだろうかと一刻近く悩んだ末、銀貨を叩いて買った上等な香りだ。
これを他に嗅ぐ女が居ると考えると些か業腹になりつつも、自分と寝る時は気を張って香なんぞを焚いて来ることもあると思えば優越感も同時に覚える。
母は母で厄介だが、己は己で面倒な性分だと思いつつ狩人は金の髪の腕を借りて瞑目した。彼の穏やかな眠りのため、浅い入眠に留めるつもりだが、やはり此処は心が安らぐ。
ああ、もっと大きく強くなればいい。
そんなことを考えつつ、狩人は釣られるように眠りに落ちていった…………。
【Tips】詩人の中には完全な創作と前置きして恋歌を綴る者もおり、妙手がつま弾くそれは一定の女性客から根強い人気を誇る。
好きラノ2020年下半期にて既刊9位にランクインして目出度いので更新です。
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